16 尼僧
母が心配するのも当然だと京子は思った。
敬一郎は全ての点で変わっていた。
服装といえば、雨が降っても降らなくても年から年中長靴と作業着という出立ちである。
服装は別として、敬一郎が変わっている事は、我欲が全くと言って良いほど無いのである。
食べ物にしろ、金銭にしろ、あまり関心を払わないのである。
人間が生活するのに必要な物の最小限は必ず天から与えられるものであると信じているのである。
そして、その通りに実行していた。
小一時間位して敬一郎と京子の二人は表に仲良く出た。
七月の強い太陽が二人を照りつける。
小さな坂を下ると道の左右の稲穂が二人を出迎える。
空は雲一つない上天気である。
小型自動車が通れるくらいの道を歩調静かに歩く。
稲穂の波を抜けると、少し道が広くなり家並みが二人の視界に入ってくる。
京子は、日傘を握った手が汗ばんでくるのを覚えた。
汗が体全体にまわった。実に暑い日差しである。
でも、京子には、それがかえって心地よかった。
「お兄さん、お寺はまだ遠いの?」
「ほら、そこの古い橋を渡るとすぐだ」
「案外近いのねぇ。まだ遠いと思ったのに」
「まぁね、家から1キロあるかなしだよ」
敬一郎が言った小さな橋の上まで来ると、京子は白いハンカチを敬一郎に差し出し、
「汗でも拭いたら?」と言った。
敬一郎は、
「いや、いいよ。タオルを持っているから」
と言って、無造作にズボンからタオルを取り出し流れ出る汗を拭くのであった。
小さな木の橋を渡り、右に曲がり七、八〇メートル行くと古びた家があった。
そこが京子の生みの親が眠っているというお寺だった。
お寺だといっても、京子が想像していたものとは、正反対のお寺だった。
人の出入りもあまり無いらしくひっそりとしていた。
竹で編んだ入り口を両手で静かに押し開け、五、六歩中に入ると家の中が手にとるように見えた。
外は明るすぎるというのに家の中は薄暗かった。
その薄暗い家の中で六〇年配の尼僧が一人針仕事をしているのだった。
敬一郎は縁に手をかけ、
「こんにちは。お元気ですか?」
と言うと、敬一郎の声が大きかったらしく、尼僧は少し驚いた様子だったが、敬一郎だとわかると
「まあ、貴方でしたか」と、
丸いメガネを外しながら、親しげに言って、
二人を出迎えた。
京子は尼僧に黙って頭を下げた。
尼僧も一層丁寧に二人に頭を下げた。
「そこは暑いですからお上がりなさい」
「はい、お邪魔します」
敬一郎は京子を促し、中に入った。
京子も後に続いた。
「お久しぶりですね、敬一郎さん。
外は暑かったでしょう。
何もございませんが冷たい麦茶でも召し上がって下さい。
最近はいかがですか?
絵の方は、お描きになっていますか?」
「はい。
他の方はほったらかして絵の方だけは相変わらず書いています。
絵を取ったら僕ではなくなりますので、描いています」
敬一郎は会釈して、前の冷たい麦茶を一気に口に運んだ。
京子は、「お手数をかけます」と言ってから、差し出された麦茶を手に取った。
丸顔の尼僧は、二人の動作を動作を静かに見つめているのだった。
「申し遅れましたが、これ、僕の妹です」
敬一郎は京子を尼僧に紹介した。
「京子と申します。宜しくお願いします。」
「妹さんでしたの。敬一郎さんのお嫁さんかと思っていましたわ。いつもお兄さんにはお世話になっていますのよ。私の方こそ、宜しくお願いします」
尼僧は京子に深くお辞儀をし、優しく京子を見つめるのだった。
「外は暑かったでしょう」
「はい。でも、冷たい麦茶を頂いたので暑さがだいぶ和らいだようですわ」
「いつ、こちらにお越しになられたのですか?」
「昨日の夕方にこちらに着きました。
お兄さんの所に来たくて来たくて、たまらなかったものですから、急に参りましたの」
「そうでしたの。ここも良い所ですから、ごゆっくりしていってください」
「生まれて初めてですわ、こんなに暑いなんて思ったのは」
「そうでしょうね。長年住んでいる私達でさえも暑いと思いますのよ。今日の日のような暑い時は外に出るのが億劫になりますので家の中で静かにしています」
「本当にここは雑音が無くて良い所ですわ」
「ここは静かなのですよ。ただ、それだけが取り柄なのです。今日は二人揃ってお墓参りですか?」
「はい」
「お名前は何と仰るのですか?
もしかしたら貴方は岡田ソノさんの娘さんではないのですか?」
「はい」
「やっぱり!ソノさんの娘さんでしたのね。
私も嬉しいですわ。今日はなんて良い日なのでしょう。立派な娘さんになられて、さぞお墓のご両親も喜んでいらっしゃる事でしょう。
敬一郎さんから貴方のことは伺っていたのです。
でも、まさか敬一郎さんの妹さんになっていたことは聞いていませんでしたので、少し驚きました。
先程から貴方のお顔ばかり拝見していたのですよ。
話 若い頃のソノさんにお会いしているような気がして・・・本当にお母さんに似て、良い娘さんになられて、嬉しいですわ・・・」
目頭を押さえて尼僧は小刻みに肩を震わせるのであった。
京子は嬉しかった。
生みの親を知っている人間に会えるなんて思ってもいなかったので、余計に嬉しさが込み上げてくるのだった。
「亡くなった父母をよく知っておられるのですか?」と、親しみを込めて言った。
「お父さんはよくは知りませんが、お母さんだったら知っていますのよ。
貴方のお母さんの家と私の家が同じ部落だったので、何もかも知っています。
同じ部落、同じ学校、そして同じ年だったものですから、兄弟姉妹よりも私と貴方のお母さんは仲が良かったのです。
学校を出ると私達は一緒に東京に行き、二人とも大きな会社の女工として六年間も働きました。
それは、もう忘れようにも忘れられないのです。
田舎育ちの私たちには、見るもの聞くものが楽しく珍しくて、本当にあの頃が一番良い時期でした」
尼僧は、遠い昔の若い時を思い出していた。
先程から黙って二人の話を聞いていた敬一郎は、京子が隣に目を向けるといつの間にか席を立っていなくなっていた。
尼僧は目を真っ赤にしながら言葉を続けた。
「特定の人を除けば、今と違って昔は田舎に居ては食べていくことが困難でしたので、小学校を出るとすぐに働きに出されたのです。
さらに昔は、家族が多かったので、どうしても上から順番に家を出たのです。
女性は特にそうでしたのよ。
私の家も弟妹が六人いましたので、上の私が働きに出て、少しでも家計を助けなければいけないのだという心があったのです。
私は、生まれ育った田舎を出ていくのが本当は嫌でした。でも、家の事を考えると、どうしても働きに行かなければならなかったのです。
おソノさんは勝気な性分でしたので、私と違って田舎を出ていくことには、むしろ喜んでいるようでした。
女工になったからは田舎にいた時よりも身体が楽でした。おソノさんは、私によく言っていました。
ここは自分にとっても貴方にとっても天国みたいな所。給料は貰えて、仕事以外の自由は認められているし、そして何よりも、三度三度温かいご飯が頂けて、こんな有難いことはないって・・・人は考え方によって苦しくもなるし、楽しくもなるのよ!と明るい顔で私に語って聞かせてくれました。
おソノさんの考えに、私も賛成でした。
私と違って、おソノさんは何事に対しても積極的に行動しましたので、私はただ後についていけばよかったので、随分得をしましたのよ」
尼僧は自分の若い日のことを懐かしく思い出しながら、母の事を語って聞かせるのであった。
そして、小さなタンスの中から古い写真集を取り出し、母と対面させてくれたのである。
京子は嬉しかった。まさか、母と対面出来るなんて思ってもいなかったので、余計に嬉しかった。
母の写真を前に抱いて、父母の墓に長い間お参りをした。
尼僧と敬一郎も、京子の後ろで手を合わせ、京子の、幸福を祈るのであった。
尼僧と別れる時、京子は約束をした。
京子が兄の所にいる限り、時々墓参りと尼僧の話し相手になる事を・・・。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。