15 母の小さな夢

翌日、敬一郎は心地よい味噌汁の香りと、軽やかなまな板の音で目覚めた。


清々しい朝であった。


裏庭のツルベ井戸で顔を洗い、縁側で樹々にとまって朝の音楽を奏でている小鳥やセミや、庭に咲いている花などを見つめていると、膳の支度を終えた京子が弾んだ声で言った。


「お兄さん、ご飯の用意ができたわよ!

 いただきましょう。」


「あぁー」


と、敬一郎は京子に聞こえるか聞こえないくらいの声で言って立ち上がった。


膳の前に座ると、昨日に比べて家の中が明るく清潔になっているような気がするするのであった。


温かいご飯と味噌汁を一度に口にするのは久し振りのことであった。


一日一度は大体と言っていい程ご飯は炊くが、

味噌汁はあまり作ったことがないのである。


「久し振りだよ。

こんな美味しい朝ごはんを食べるのは」


「これが普通の朝ごはんなのに」


と、エプロン姿の京子はニッコリして言った。


これが家庭の朝の食事か?なるほどなぁーと思って

敬一郎は二杯目のおかわりをするのであった。


良く考えてみると、祖母が亡くなってからというものは、三度三度定めて食事を取った事がなかった。


野生の動物と同じで、腹が空いた時に食事をとり、

腹が減ってない時には食事をしない。


敬一郎は、これが当たり前になってしまっていたのである。


「とても美味しいかったよ」


「もう、食べないの?」


「朝はこれくらいにしておくよ」


「そうね」


「後片付けが終わったら墓に案内するよ」


「今日でなくてもいいのよ。

お兄さんが絵を描かない時にでも連れて行ってもらえば」


「俺の絵はいつでもいいのさ。

人から頼まれて描いているわけではないからなぁ。

思い立ったが吉日と言うではないか。

だから、今日行った方がいいのさ。

用意が出来たら言ってくれ、直ぐに行くから」


「はい」


と言って、京子は兄を見つめた。


敬一郎は頷くと優しい微笑を京子におくるのであった。


今朝、京子は陽が昇ると同時に床を抜け出し、広くて大きい年代物の家を掃除した。


大阪の家と違って広くて大きく、古い道具が多くあるので、どこから手を付けていいのか迷う有様であった。


家の中を一日や二日でキレイにする事は無理なので

気長に毎日一つ一つ清掃する事に京子は決めた。


まぁ、これでは当分大阪に帰れそうにもないわ。と思ったのである。


二年前のある午後の日、母と京子が二人で世間話をしている時に、母は京子に敬一郎の事について心配顔で語った事があった。


今、京子は母が語ったのをハッキリと思い出していた。


「平和で毎日幸福な生活を送っていると、私は田舎で一人で暮らしている敬一郎のことを思うと、居ても立っても居られなかなる時があるのよ。


弟の敬ニや妹の強化を見ていると尚更そう思うの。


京子のような優しいじょせいが、あの子の嫁にでも来てくれると安心なんだけど、今の状態では無理なのかもしれないわ。


あの子は素直な心を持っているけど、根本的に私達と考え方が違っているような気がしてならないのよ。


どうしてあの子が私達と考え方が違うのか、どうしても解らないの。


年代の相違と言ってしまえばそれまでかもねぇ。


本当は私の手元に置いて世間並みに仕事に就かせ、優しい女性を嫁に迎え、一緒に暮らしたいと願っているの。


これは、母さんのたった一つのささやかな夢なのよ


でも、母さんの小さな夢は叶えられそうにもないわ


敬一郎が田舎を捨てて私達の所になんか帰ってきそうにもないわ。


お父さんが、あと四、五年経って会社を退職なされたら、この家を敬ニに任せて私達が田舎に帰ってみようと思っているのよ。


敬ニと京子は、父さん母さんの思っている通りに成長してくれたので有り難く思っているのよ。


母さんが心配しなくて、敬一郎は敬一郎なりの人生を楽しく過ごしていると信じているのよ。


現に今だって、敬一郎は自分の好きな道を歩いているわ。


母さんが心配しなくてもいいんだよ、自分はこれでいいのだよ。と敬一郎は言うかもしれない。


でも母さんは心配なのよ。


あの子、敬一郎の行く末が。


母さんは、父さんと歩いてきた道には不足はないのよ。


父さんは優しくて立派な人だし、それに敬ニと、京子の二人。


母さんは本当は何にも不足はないのよ。


母さんの考えは贅沢な事かもしれないのよ。


私達が幸福であればあるほど、あの子の事を片時も思い出さずにはいられないわ。


母さんはあの子の事を思う時、心が苛立ち不安になってくるの。


最近はよく夢を見るのよ。あの子の夢をね。


私達が楽しく食事をしていると、いつの間にか

あの子がみすぼらしい姿で私達の前に現れるの。


私達四人があの子の席を空けてやると、悲しそうな目をして首を横に張り、黙って私達を見つめているの。


母さんが立ち上がり、あの子の身体に手を触れようとするとパッと姿が消えてなくなるの。


その後、母さんが半狂乱になって、あの子を探すところで夢が覚めるのよ。


夢から覚めた後で母さんは、日、一日一日あの子が遠くなっていくような気がして寂しくなってくるのよ。


だから、母さんは敬一郎のところに飛んで行って

身の回りの世話をしてあげたいの。


一日でも二日でもいいから一緒に居て。」


と、母は京子に語ったのである。



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