11 浜村のすすめ
翌日の日曜日、浜村が敬一郎の家を訪れた時には、敬一郎は縁側に出て絵を描いていた。
「この前はどうも」
と、敬一郎に向かって気軽に右手を上げて言った。
「いやぁ、こちらこそ。あの時は飲み過ぎたよ。
どうも、酒は俺の身体に合わないようだよ。
あんたは俺と違ってなかなか強いので感心するよ」
「そんな事はない。何でも訓練だと思うよ。
君の絵と同じさ!仕事の邪魔して悪いが今日も遊びに来た。家に居ても、つまらないのでね。
女房も君の所に行くと言ったら、快く出してくれるので大手を振って来ることが出来る。
ありがたいものだよ。
女房が、君にヨロシク言って下さいと言ってたよ」
「どうもありがとう」
浜村はいつものように台所からコップを取り出してきて、敬一郎に持ってきた酒を渡した。
「今日も楽しく飲もう!」
「今日はいいよ。絵を描いているから、終わったらご馳走になる。俺の絵でも肴にして一人で飲んでくれ」
「では、そうするか。お言葉に甘えて」
浜村は、敬一郎の絵を横目に置いて酒を飲み始めた。
敬一郎は、絵筆を動かし続けた。
「僕は君を見ていると不思議に思う時がある。
君は、なぜ展覧会などに出品しないのかい?
それが僕には不思議に思えてしかたないんだ。
君の絵は、なかなか良いと思うよ。
出してみてはどうだね?」
「好きで描いているだけであって、展覧会などに出品しようなどとは思ってもいない。
世間に認められようと認められまいと関心がないので、今のままが一番幸せと思っている。
それで良いではありませんか。」
「それが僕には理解できない。
僕が君の立場だったら、あらゆる展覧会に出品する。君も一度くらい丹精込めて描いた絵を人の眼前に晒すのも良いと思うがなぁ。そうしろよ!」
浜村は、いつになく真剣だった。
何年か前に浜村は敬一郎から一枚の絵を借りて、専門家に見てもらったのであった。
その時、専門家は言った。
「この絵は自己流であるけれども、なかなか実に出来が良い。魅力ある描き方だ。
若いし、この絵を描いた人が本格的に勉強したならば大した絵描きになる事間違いないだろう。
私の目に狂いがなければ」と。
浜村は、敬一郎に本格的に勉強しろよ。とは言えなかった。
言っても本格的に勉強なんかするはずがないと、分かっていたから言えなかったのである。
敬一郎は動かしていた手を止め。
「まだまだ俺の絵なんか人様の前に恥ずかしくて出せる代物ではありません。
何十年か先には一度くらい、出品しようと思っていますが、今のところは手を描くのが精一杯で、それどころではありません。」
「展覧会などに出品するのを好ましくないと思っているのは分かるが、一度くらいなら良いのではないかなぁ。多少は自分自身の実力が分かるはずだ、自分の実力を知っているのも悪くないと思うよ」
「あんたの気持ちは嬉しい。俺は今のままで充分だよ。絵が認められようと認められまいと、何度も言っているように思っていない。
人それぞれ考え方が違うではありませんか。
世間から認められようと、認められまいと自分自身の価値というものは変わらないと思います」
「そういうものかなぁ。
僕は君のように考える事ができない。
それが君の本当の持ち味だよなぁ。
君の言ってる事は心では理解しているつもりなんだな現実の事を考えると、どうも、君のように考える事が出来ないよ。
君が現在のままで終わるなんて、僕にはどうしても惜しい気がするよ」
「いいんだよ。今のままで」
と言って、敬一郎は再び絵筆をキャンバスの上で動かし始めた。
浜村は静かに絵に目を走らせた。
そして、ゆったりとした気分でコップの酒に口をつけた。
酒が喉を通り抜け胃袋の中に少しづつ流れ込んでいくのがわかった。
浜村は思った。
酒あっての我が人生と・・・
横で懸命に絵を描いている敬一郎にとっては、
絵あっての人生か・・・
なるほどなぁと感心したりして胃袋の中に、我が人生の糧を流し込んだ。
前にも増して、ゆったりとした口調で・・・。
浜村は、一生懸命に絵筆を動かしている敬一郎を見ていると、僕も幸福者かもしれないと思うのである。
それはそうかもしれない。
今、僕は何のためらいもなく楽しい心に浸りながら酒を飲み、爽やかになっている。
これが幸福でなくて何であろう。
やっぱり、僕は敬一郎と同じくらい幸福者なんだと自分に強く言い聞かせるのであった。
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