⑩相談
その夜、帰宅して律子は父母に真剣な面持ちで言った。
「ねぇ、お父さん、今年中でお店を辞めようかと思っているの。いけないかしら?」
父母は驚いた様子であった。
「何かあったのか?!
辞めるなんて急に言ったって分からんよ。
良く思案した結果なのか?」
「そうよ。お父さんとお母さんには悪いと思ったけど決めたの」
「お店での調子でも悪いのかい?」
と、母は困ったような顔をして言った。
父母は何の前触れもなく、お店を辞めると言い出した、娘律子の心が分からなかった。
「お店の調子は、まぁまぁと言ったところなの。
今から段々と良い方向にいきそうだと思うわ」
「おかしいじゃないか、これから良くなることが分かっていながらお店を辞めるなんて」
「そう言われればそうだけど」
「今まで苦労したのが水の泡ではないか、せっかく律子が頑張ってきたのに」
父はいつもの調子で悟すように言った。
「そうですとも。お父さんの仰る通りです。
律子、お前は少しおかしいですよ。
私達はお前だけが頼りなんですから」
と、母は父の言葉に頷きながら言った。
父母から頼りにされるという事は嬉しい事には違いないが、律子は女性なのよ。と言いたい気持ちであった。
父母に対してではなく自分自身に向かってである。
何のためらいもなく自由に出来たら、どんなに嬉しいか知れなかった。
が、それは娘として、又人間として父母の事を考えると、どうしても自由勝手には出来ないのである。
当然と言えば当然なのかもしれないのである。
「お父さん達の気持ちはわかるけど、一つぐらい律子の好きなようにさせてよ。私がお店を辞めたからといって、この家を出ていくわけではないのよ」
「それはそうだけど、なんだか心配で」
「お母さんは心配しなくてもいいのよ。これまで通りなんだから」
と、律子は心配顔の母につとめて明るく言った。
「母さん、律子は今すぐ店を辞めると言っているのではないんだ。まだ来年の事なのだから、そのうちに三人で何度でも話し合えばいいではないか。
そうだろう?律子」
「お父さんの言う通りだわ。来年の事だから、今をどうのこうの言っているのではないのよ。二人に私がお店を辞める気持ちがあると言う事を知ってもらえればいいの」
と言って律子は立ち上がり、
「今日は疲れたから早く寝るわ。二人ともおやすみなさい」
と言って自分の部屋に引き込んだ。
律子が茶の間を出た後、二人はしばらく黙ってお茶をすすっていたが、父、将造が言った。
「母さん、律子の好きなようにさせてやろう。
今まで、私たちは律子に甘え過ぎていたのではなかろうか。子は成長し、親元から離れていくのが定めではないですか。律子の歳を考えてごらんなさい。もう、来年は三十になる。
あの子は私たちの為に今日まで何一つ文句も言わず頑張ってきた。母さんの気持ちも分かるが、あの子の事をこれから考えてやろうではありませんか。
あの子の幸福になる事を母さんと二人で・・・」
「ええ、でも心配ですわ」
と、母、時子は小さな声で返事をするのであった。
「心配する事はありません。
律子も大人だし、私達もまだ若い。
私たちはあまりにも一から十まで律子の事に関して立ち入り過ぎました。その結果、律子は私達に縛られて嫁にも行けず今日に至ったのではありませんか」
「でも、それは仕方ありませんわ。
あの子が好きで嫁に行かなかったのですもの。
何回かお見合いしても気に入らなかったのも、あの子なんですから。
お父さんも私も、あの子のお見合いの事には一生懸命努力しましたわ」
「確かに見合いの事については母さんの言葉の通り努力はした。が、心底から律子の事を思ってではなかったはずだ。半分は私たちの為にやった事ではありませんか。律子は養子を迎える事に反対だった。
その証拠に見合いの相手を皆んな断ったではないか。律子は一般の女性のように他家に嫁いで行きたかったのだと私は思う」
「お父さんのおっしゃる通りですわ。
律子が他家(よそ)へお嫁に行ったら私達はどうなるのですか。律子は一人娘ですわ。
養子を迎えてこの家を守るのが当然ではありませんか。
律子もそれを承知しているはずですわ。
だから、何処へも行かず私たちと一緒にいるのではありませんか」
「先程から言っているように私達二人のことを考えないで、律子の事だけを考えてやろう。
それが、私たち三人の為にいいんだよ。
お前も私も律子の親ではないか。
たとえ、律子が他家に嫁いで行ったとしても、私達を見捨てたりはしないさ。
頼むから、律子の事だけを考えてやろうではないか。律子の幸福になることをね。
律子は私たち二人だけの可愛い子供ではありませんか。幸福になる事だけを考えてやろう。律子のね」
「・・・・・・・・・。」
時子は将造の問いに答えなかった。
将造も、それっきり黙ってしまった。
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