⑦ 律子の想い

自慢ではないが、私は朝早く起きる事だけは人に負けないつもりでいます。


天気が良い日には決まって軽い散歩をします。


朝のすがすがしい空気を身体いっぱい吸って軽い散歩をすると、その日一日が楽しく過ごせるような気分になってくるのです。


一日の初めはまず、清々しい朝からはじまるのです。

昔の人が言っています。


初めよければ終わり良しと!


今日もまた、清々しい朝を迎えた。


爽やかな小鳥の声で目を覚まし、いつものように家の周りを軽く散歩する。


暦を見ると今日は祖母の祥月命日にあたるのを思い出し、庭に咲いている花を切り取り墓参りに行く。


4ヶ月振りの事である。


寺の高い階段を登りながら、よく祖母に連れられて、この階段を登って墓参りに来たのだと懐かしい感情に浸りながら登る。


ひとり静かに手を合わせた後、墓の周囲を清掃し、買い物があることを思い出し、街に歩足を進めた。


日曜でもないのに、中心街は人通りが都会並みに多いのに驚きながら、お目当ての買い物を済ませると、人に混じって街を小半時ぐらいブラブラしたら、なんだか喉が渇いたので冷たいものでも飲もうと思って知り合いの喫茶店に立ち寄った。


表の戸に営業中と札が掛けてなかったが店の中に入っていくと同時に声が返ってきた。


「お客さん、まだお店を開けていないのですよ」


「客ではありません。敬一郎ですが!」


と、私は女の背に言った。


奥で洗い物をしているらしかった女は私の顔を見て


「ごめんなさい。お客さんだと思ったものですか ら、お久しぶりですね!敬一郎さん!」


と言って手を拭き拭き笑って私の側に来た。


「明けてもいないのに、図々しく入って来てすみません」


「そんなこといいんです。何ヶ月振りかしら、敬一郎さんがここにいらしたのは。」


「もう、2ヶ月以上になります」


と言って、私は店の中を見回した。


壁の中央には私が描いた絵がまだ掛けてあった。


もう随分経つので絵があるなんて思いもよらなかったのである。


私は嬉しくなった。


「どうぞ、まだ冷たい物は早いと思いますが宜しかったらお飲みになって」


「ありがとうございます。


街をブラブラしていたら喉がカラカラになって、ここに来たのです。


冷たい物でも飲んで帰ろうと思った物ですからか」


「そうだったのですか。

 ごゆっくり休んでいって下さい。


私もちょうど手が空いたところで、話し相手がほしいと思っていたのですよ」


「店の方はいかがですか?」


「良くも悪くもなくといったところですわ」


私は出された冷たい飲み物を一気に飲んだ。


体全体が生き返ったようであった。


律子は優しい手つきで二杯目をハイカラなガラスのコップに注いだ。


今度は味わうように、ゆったりと口に運んだ。


律子は美しかった。


年を取るにつれて一段と美しくなるようであった。


「絵の方はいかがですか?


まだ描いていらっしゃいますか?」


「私の方は相変わらずといったところです」


と、正気を取り戻した声で私は言った。


律子は私を見つめ、明るい声で


「二人とも、何年経っても同じですわね。


敬一郎さんも私も・・


私は女ですから少しぐらい変わってみようと思いますけど、でも、なかなか同じ事を毎日していると変わらないものですわ」


「人間なんていうのは余り変わらない方がいいのではないですか。


変わると余りロクな事はありません。


あなたなんか、私の目から見れば今のままでいいのではないですか」


「そうかしら、でも、一人で居る時なんか、自分はこんな事をしてていいのかしらと真剣に悩む時がありますのよ」


私には分からないが、律子は何かを訴えるような口調である。


「悪い事はあまり真剣に考えない方がいいですよ」


と、さりげなく私は言った。


「そうしようと思ってはいるのですが、なかなか、そうはまいりませんのよ。


仕事が忙しい時はいいのですけど、ちょっと暇が出来ると自分自身のことが不安になって、自分はこのままで終わるのかしらと思うと居ても立っても居られませんの。


敬一郎さんはこんな気持ちになった事はありませんの?」


「あなたばかりでなく、私だってそう思います。


それが人間というものではないですか。


きっと、あなたは心を開いて話し合える人がいないのではないですか。


心に溜まった事が出来たら全部吐き出してしまえばスッキリしますよ。


話し相手がいない時には、僕で良かったらいつでも話し相手になります。」


「本当に!本当に話し相手になってくれますの!


嘘ではないのでしょうね。


もし嘘だったら承知しませんわよ」


「いつでも結構です。僕で良かったら。」


「敬一郎さんに、そんなに言っていただくと気が楽になったようですわ。


気が滅入った時には敬一郎さんのお宅に伺いますわ」


「いつでもおいで下さい。いつも家に居ますから」


と、私は優しく律子に答えた。


律子は敬一郎の言葉が心の底から嬉しかった。


敬一郎は律子の事をどう思っているかは分からないが、律子は以前から敬一郎に好意を持っていた。


律子が婚期を過ぎたこの歳になるまで結婚しないでいるということに関しては、半分以上は敬一郎に原因があった。


敬一郎が何故今の今まで独り身でいるのか、律子にはどうしても解りかねていた。


「ねぇ、敬一郎さん。


敬一郎さんはどうして独身でいるの。


私には敬一郎さんが一人でいる事が分からないわ」


と、律子はニコニコ顔で言った。


「相手がいない。ただそれだけの理由だよ。


それに僕は一人前でないから」


「そんな事はないわよ。


敬一郎さんは、女の私から見れば女性に好かれるタイプだわ」


「ありがとう。君だけだよ褒めてくれるのは。」


「本当のことを言ったまでだわ。


 好きな人はいないの?」


「好きな人って?」


「敬一郎さんが心の中で、結婚してもいいなぁ!と思っている女性よ」


「僕も男だから心に思っている女性はいることはいる」


律子は敬一郎のその言葉を聞いた瞬間、内心しまった!と思った。


でも、もう後の祭りである。


「敬一郎さんが好きな女性ってどんな人かしら、美しい人でしょうね」


「心も美しいよ」


「その女性と比べると、私なんか足元にも及ばないでしょうね」


「そんな事はない。同一人物だよ」


「・・・・・?」


「わからない?君と同一人物と言ったのさ」


「・・・・・・?」


「君のことなのさ」


「まぁ!!!」


と、大きな声を発した。


律子自身の事だったのである。


律子は驚いた。


そして、敬一郎が思っていたのは自分だとハッキリ解ると顔が真っ赤になり、目の前にいる敬一郎をまともに見られなくなってしまった。


「どうやら、わかったようだね。」


「はい。」


「ありがとう。」


「でも、どうして私なんかを?」


「理由?強いて言えば君が人間らしいから。」


律子は胸の高鳴りを覚えた。


涙が出そうになるのを、じっと堪えて、今紛れもなく幸福であった。


敬一郎に対する想いは、予期しなかった今日のこの日に叶えられたのである。


それから、しばらくして敬一郎は


「あまり永く居ては仕事の邪魔になるから、これで今日は失礼します」


と言って、店を出た。


店を出る時、律子は明るく恥ずかしそうな小さな声で、二、三歩歩き出した敬一郎の後ろ姿に


「近いうちに、また来て下さいね!


 待っています!!


 必ず来て下さい!敬一郎さん!」と言った。


敬一郎は、その言葉を身体いっぱいで受け止め、

一度振り返り、顔をほころばせ大きく顔を立てに振り、ドアを開け外に出た。

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