第5話:虐待が生む負の産物 ③

 現在は多くの人が“社会に適合しているか?”や“きちんと教養があるか?”などを自己基準でかつ自分のものさしで測る傾向にある。


 そこで少しでも“自分と違っている”や“何でこんなことが出来ないの?”といった自分軸での相手に対する評価を低くする、自分の立場を強めることで、“自分の評価を高くしたい”という心理や“自分の方が社会的に評価は高い”など自分にフォーカスを当てて物事を判断することで自己精神を保っている人もかなり見かけてきた。


 その他にも“社会型虐待”(社会との価値観に適合するように子供の学習機会や特定の人物の伝記などを子供の意思にかかわらず読ませて、その価値観を子供に植え付けようとする)や“エリート型虐待”(主に派閥や教育熱心な家庭の子供が多く暮らしている地域などで見られる虐待で、有名進学校やエリートを輩出している学校などに親の意思で子供に進学を強要する・“○○はこうならなくてはいけない”と勝手に目標を決めて、その掲げた目標を達成させるために親の価値観や主観で教育方針を作る)など子供の意思を尊重するのではなく、大人の意思を尊重させ、子供を自分たちの思い通りに育てようとすることで成長過程において周囲に“○○さんところのお子さんは○○に進学されたのですね。すごいです”などと自分の実績を褒めてもらえるという達成感を味わってしまうと、この連鎖から抜けられなくなる。


 その結果、第1子に対して行ってきたことを褒められたことで第2子・第3子と同じように子育てを行い、また褒めてもらいたいという感情が芽生えていくことになる。


 しかし、第1子で上手くいったからといって、第2子・第3子も同じように上手くいくとは限らない。


 なぜなら、子供というのは個別価値観が異なっており、全員が同じ性格にはならないし、物事を捉える視点や成長速度も1人1人違っていることから兄や姉の行為や所作など真似出来そうなことを取捨選択し、そこから自分の判断で体験や経験を組み合わせていくからだ。


 そのため、兄や姉が良い学校に行ったからといっても同じ学校に進学するとは限らないし、入れるとも限らない。


 今の社会において“学歴社会”は少しずつ薄れてきたとはいってもまだ根強く残っており、別の呼称を付けたとしても以前の名残が見え隠れしている。


 そのような社会情勢が虐待やネグレクトなどを引き起こす社会的要因の1つになっているようにこれまでのニュース報道を見ているときやニュース記事を読んでいる時に強く感じる。

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