第3話 咲き初めし頃
「この国は滅ぶぞ!儂を大統領に選ばなかったことを、核ミサイルの雨の中で悔いるがいい!」
口角泡を飛ばして際限無く絶叫する男性は、頑丈な扉によって、不要な刺激に溢れる俗世から隔絶された。とはいえ、扉越しでもある程度は聞こえてくるし、小窓から様子を窺うこともできる。ナースステーションからは彼の音声だけでなく映像もモニタリング可能である。彼は、重度の躁状態だと判断されたため、入院していただいた上で、精神科の重症患者用の個室である保護室、その三号室に隔離することとなったのだ。
これで、三つ存在する保護室が全て埋まってしまった。ただ、現時点でそのことを憂慮したところで致し方無い。
私は、三号室に隔離された患者の入院中の主治医として、彼の家族に今後の治療方針を説明すべく、面接室へと走った。
「ミイラじゃ!ミイラじゃ!ミイラの祟りじゃ〜!」
保護室の二号室からは、別の患者の声も漏れ聞こえていたが、私は、その声を振り切るように走ったのである。
「沢村先生、今回もまたお世話になります。お手数をお掛けして、誠に申し訳ございません」
面接室のドアをノックしてから入室したところ、私はいきなり、患者の妻によって、プロのお辞儀を見せつけられた。
保護室の患者は、かつて三期に亘って、京都府の府議会議員を務めていたのだ。選挙運動のたびに夫の隣で頭を下げていたであろう彼女のお辞儀には、それ相応の風格が漂っていた。
「これはご丁寧に。けど、お顔を上げてください。今回の入院は二年ぶりです。二年間はご自宅で頑張らはったんですよ。ご本人も……そして、奥様も」
患者だけではなく、患者を支える家族のメンタルにも配慮は必要だ。彼女の家族としての助力は労うべきだろう。
彼が患っているのは
夫婦で協力して築き上げてきた実績が過去の物となってしまったのである。
夫人に着席を勧めると、彼女はハンドバッグからハンカチを取り出して、目や鼻に当てがった。
元府議は、発症した時点では現職で、一方の私は、その当時は未だ中学生でしかなかった。過去のカルテを見る限り、元府議は、療養生活に入ってからも、病状は一進一退だった。とにかく躁状態と鬱状態がくるくると入れ替わり、処方薬の調整が難しいタイプだったようだ。普段は自宅に程近いメンタルクリニックに通い、入院が必要なほど不調を来すと、ここ京都市立医科大学附属病院に紹介されるようになった。その後、入退院を繰り返して、一年の半分以上を入院して過ごしたこともある。それがこの二年間はなんとか自宅で生活できていたのである。
私が彼の主治医となったのは、二年前の入院時が初めてで、今回もまた担当することになったのだ。
「躁状態が悪化しているため、一時的にお薬の量は増やさざるを得ません。ただ、ご主人は腎臓の機能に多少の問題があるため、泌尿器科にもコンサルタントしながら薬の調整を進めたいと思います。前回の入院時に効果のあった
まずは、大声での暴言がトーンダウンして、保護室ではなく一般の病室で過ごせるレベルを目指しましょう。日本が大統領制ではないことも思い出していただければ幸いですね」
説明が一段落して、ふと見遣ると、夫人は、いつしか母が娘を見守るような穏やかな笑みを浮かべていた。
「二年前に初めてお会いした時には、こないな若い女医さんに、暴言も暴力も出る失礼な男をお任せしてええもんかと思いましたけど……今となっては心から頼りにさせていただいてます。うちの息子とお見合いしていただきたいくらいやわ」
夫人が背負っていた悲壮感が和らいだのは良いことだ。しかしながら、「頼り」の方向性が錯綜を極めているのではあるまいか?
私は、白衣の襟元から、ペンダントを引っ張り出して見せた。ペンダントトップは結婚指輪だ。
医師は、頻繁に手指消毒を行わなければならない職種であるため、結婚指輪を身に付けるにも一工夫を要するのだ。
「二年前は独身だったんですが、実は私、結婚したんです」
夫人は、狐につままれたような顔をした。私の姓は元から沢村だ。結婚に際して男性の側が改姓することだってあるのだと思い至るのに時間が掛かったらしい。
「それはおめでとうございます。ご両親もさぞやお喜びのことと存じます」
ごく一般的な祝いの言葉を述べた後、夫人は、慌てて私の顔色を窺った。
私の父もまた精神科医で、かつては元府議の主治医を務めていた。しかし、まるでミイラ取りがミイラになるかのように、父も双極性障害を発症して、医師の仕事から退いたのである。
もちろん、双極性障害は感染症ではない。担当患者と同じ病を発症したなんて、単なる偶然に過ぎないのだ。一方で、双極性障害には、多少の遺伝性が存在するらしい。
「父も真摯に療養しております。ただ、医師には守秘義務がございますので、具体的には申し上げられません」
「ええ、ええ、夫をよろしくお願い申し上げます」
夫人は引き際を察して、会話を切り上げてくれた。
私の父は、近年、病状が落ち着けば、古い知り合いの伝手を頼って、医師としてアルバイトに従事している。そして、病状が悪化すれば、かつての勤務先であるこの病院で過ごすのだ。今現在は、保護室の二号室に隔離されている。
父の今回の入院に付き添うため、私は、小学校の同窓会を当日にキャンセルせざるを得なかったのだ。
父が双極性障害だと診断されたのは、かつて、製薬会社の接待を受けて花街での宴に参加した際、「悩める舞妓を救うために心中する」などと大騒ぎしたことがきっかけだった。
父は気付いていなかったらしいが、その舞妓は娘の私と同い年、そればかりか、私の小学校時代の同級生だったのである。舞妓としての名は蒼早登——本名は
父が発症した当時、私は未だ医師でも医学生ですらもなく、医学部志望の高校生に過ぎなかった。母は、父が精神科の閉鎖病棟に入院していた間、父との面会に私を伴うことは無かった。
私は、夜の眠りが浅くなり、父の夢を見るようになった。殺風景な一室で、アクリル板越しに、父と面会する夢だ。私がどんな言葉を投げ掛けても、父には届かないようで、父は一方的に、蒼早登の女性美を生々しい言葉で褒め称えて舌舐めずりするばかりだった。
私が泣きたくなった頃、父の顔に、赤い花が咲いた。
さすがは夢の中だ。父を養分とするかのように、赤い彼岸花が次々と咲いて、ついには彼の全身を埋め尽くしたのである。
最初は夢の中だけだった。だが、その後暫く、私の学業成績は伸び悩んだ。
成績表を見て泣きたくなった時、私の視界の片隅に、一輪の彼岸花が咲いた。
私は時折、不安が高じたりすると、彼岸花の白昼夢を見るようになったのだ。
実は、透にプロポーズされた日、海辺の墓地に立っていた時にも、私が眺めていた青い海面には、随所に赤い彼岸花が咲き乱れて、醜い斑模様を織り成していたのだった。
病者は、ある種の彼岸にいる。声すら届かぬ彼岸にいる。
彼らは、病が鎮火したなら、此岸に戻ることもある。
けれども、何度かそれを繰り返すうちに、誰しもテロメアが、寿命が尽きるのだ。
死後に渡るという彼岸なんて実在するのだろうか?
せめて楽園が存在するようにと、透は祈っているようだ。
私も祈ればいいのだろうか……
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