第4話 鮮血の赤
夜間当直勤務中であっても、まず確実に仮眠を取れる労働環境のことを、業界用語で「寝当直」と呼ぶ。しかし、大学病院では、それは望むべくも無い。
しかし、私にしてみれば、電子カルテと睨めっこしていれば、父のことを考え過ぎずに済むのである。
夜中に患者の入院を引き受けてほしいという依頼の電話があった。京都市に隣接する宇治市内の精神科病院——
「いつも大変お世話になっております。こちら、翠麗……」
「あ、透?そういうのはええから。ただ、先に言わせてもらうと、こっちの保護室は全部埋まってるで」
向こうの当直医は夫だった。彼は、私とは違って、大学の医局から片足ぶんくらい足抜けして、関連病院に勤務しているのだった。
「そう、ただ、僕にも言わせてほしい。患者は十七才女性。彼氏に別れ話を切り出したところ、その彼氏に無理矢理覚醒剤を投与されたということで、パトカーでうちを受診した」
「どういう彼氏や!」
「半グレってやつらしいよ」
そういう輩は宇治にも棲息しているらしい。緑豊かで茶畑が広がる土地柄なのだから、覚醒系の物質が欲しいなら、名物の玉露のカフェインでも摂取しておけばいいものを。
「患者は、彼氏が運転する走行中の車から飛び降りて、交番に駆け込んだ。犯罪者ではなく、傷害事件の被害者だという扱いだから、そこは安心してほしい」
「走行中の車から?よう逃げ切れたなぁ……怪我は?」
話を聞く限り、患者の行動面には、覚醒剤の影響が窺えた。しかし、精神科専門の病院では手に余るほどの外傷があるのなら、外科などありとあらゆる科が揃っている大学病院に依頼するのも道理だ。
「宇治の夜は闇が深いからね、患者は男を撒くことができたらしい。怪我はかすり傷程度だよ。自分の足で交番に駆け込んだわけだし、ついさっき、僕の膝窩を抉るようなローキックを貰っちゃったんだけど、想定外に痛くてダウンしそう」
透は、泣き言まで淡々と口にする。
京都市内の繁華街などと比べれば、宇治の界隈は、夜の訪れに抵抗などせず、素直に暗くなる。その闇に跋扈する悪党もいる一方で、今回は、夜の闇の深さが、少女が逃げ延びる隠れ蓑となったらしい。
ただし、覚醒剤の影響だろうが、少女は加害者へと転じつつある。
「患者は覚醒剤は初めてらしくてね、どんな状態に陥るか予想しきれないんだ。
現状、座って会話できるかと思えば、脈絡も無く暴れ出す。それはともかく、
覚醒剤の影響は、心臓に及ぶこともある。上室性頻拍という不整脈は、放置するわけにはいかない部類だ。しかし、透の勤務先にもあるというベラパミルは、上室性頻拍に対するオーソドックスな薬剤ではあるが、妊婦や妊娠している可能性のある女性には投与することを禁止されているのだ。患者にはさっきまで彼氏がいたのだから、透としては、循環器内科やなんなら産婦人科にも判断を仰げる大学病院に送りたいのだろう。
「そやけど、覚醒剤やし、暴れてるんやろ?保護室を確保しとかへんだらあかんやろし、最初に言うた通り、今はその保護室が空いてへんねん」
「お義父さんなんだろ?保護室に隔離されてる患者のうちの一人は」
透は、いきなり核心を突いた。当院の患者の情報が他院に筒抜けなのだとしたら、それは、守秘義務がなおざりだということになる。しかし、透は、患者の娘の夫として、つまり家族としてその病状を把握しているだけだ。
「どうだろう、お義父さんにこっちに転院してもらって、そっちの保護室を空けた上で、覚醒剤少女を受け入れてもらえない?うちは、保護室には空きがあるんだ。ただ、ベラパミルくらいしか無いんだよ」
父には、双極性障害以外には、特に持病は無い。「長生きするんじゃない?」と、よく悪口を言われている。現状、精神科専門の病院で療養することも可能だろう。
透の提案は随分とアクロバティックだった。だが、コロナ禍を切っ掛けとして、入院が必要な患者を一人でも多く受け入れるため、複数の病院が連携して、アクロバティックな病床のやりくりを行うことは珍しくはなくなっていた。
コロナ禍のピーク時には、元来隔離用である保護室が、コロナの入院患者の病室として転用されたこともあった。
「父の主治医に話を通させて」
父の主治医は、医学生時代からの父の同期で、今では私の上司、それも准教授だ。親族が主治医を務めると事態が拗れかねないからと、父の今回の入院も引き受けてくれたのだ。彼に断り無く話を進めるわけにはゆかない。
父は今でも、「かつては大学病院の医局で将来を嘱望されていた」ことをアイデンティティとしており、准教授と面接して、彼に「有り得たかもしれない自分の姿」を見ることで、回復の手掛かりとするようだ。もっとも、今回の入院初日に、父は、「俺なら教授戦に負けることなんぞなかったぞわれ」などと、地雷を踏み抜く暴言を吐いた。ベテランである准教授は、落ち着いた態度を崩さなかったが、もう少し薬で躁状態を落ち着けてからでなければ、いくら面接したところで治療効果は乏しいだろうと、主治医である彼と、娘である私の間で意見が一致したのだった。
つまるところ、父と覚醒剤少女のトレードは、あっさりと成立した。
「一人でも多くの患者さんに、適切な治療を受けてもらわないとね。
沢村先生のお父さんは、今後はずっと宇治病院のお世話になってもいいんじゃないかなぁ?」
電話の向こうで准教授が口にしたのは、彼の本音だったのだろう。
「愛しのミイラと我が王女に、神の祝福をぉお〜!」
父は、怪しさしか無いカルトの教祖のような物言いで、宇治へと搬送されていった。
「王女様!?はん、次代の保護室のファラオは、女王様かいな!」
陰口が私の背中を刺した。それは、父にお尻を触られたと申告していた看護師の声だった。
双極性障害には、多少の遺伝性があるようだ。「王女」から始まる台詞の意味するところは明らかだ。
患者に暴言を吐かれても、尻を触られても、あるいは、膝窩を抉るようなローキックを貰っても、医療従事者は、やるべき仕事はやらねばならない。しかし、それは当然ストレスフルで、心の底に汚泥じみた何かが溜まってゆくのだった。
そして、その汚泥がまた、私の眼前に彼岸花を咲かせる養分となるのだ……
私の母は、小児科医だ。かつて、恋愛感情の赴くままに結婚した。父の伯母が双極性障害の患者だということすら知らないままに。父も父で、彼の家系には、概ね一世代に一人ほど、そういう患者が現れるのだということは伏せたままで結婚に至ったのだ。
現在、私の両親は、いわゆる卒婚の状態だ。彼らが連弾でピアノを演奏することはもう無い。
母は開業していたが、「私の城」と呼んでいたそのクリニックを、私が結婚した途端に、後継者を公募して譲渡してしまった。私も透も精神科医であって小児科医ではないので、継ぐわけにもゆかなかったのである。
「夢にまで見た楽隠居。優雅な一人暮らしよ」——そんな母の言葉が本音であることを
祈ることしか、私にはできなかった。
そして、祈るべく目を閉じると、ああ……網膜を焼き切らんばかりに彼岸花が咲き乱れるのだった。
その花の赤は、血の色にも似ている。動脈血のように鮮やかだった。
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