― 第20話 ― からかうのはおやめください

 なんとなく町の中心部に戻る気が起きず、イシュトヴァルトも同様だったのか、町外れをぐるっと回りこむように移動して詰め所を目指す。


「殿下、今日一日ありがとうございました。城へ戻ったらまず髪の色を落とさないと……」

「……ルカ」

「はい?」

「呼称が戻っているが?」

「ぅ……」


 うっかり、殿下と呼んでしまっていたとだいぶ前に気が付いてはいたのだ。しかし、もう街の中心地から逸れているし今更呼び直すのも気恥ずかしいとそのままにしていたのを、まさか指摘されるとは思っていなかった。


「ルカ?」

「…………」


 無言の抵抗でもって呼ぶ意思がないと応えてみるが、イシュトヴァルトは逆にその状況を楽しむような顔をしている。


「呼ばないと言うなら」

「ひぁ……っ?!」


 これはダメだ、危ない……と、またも選択肢を間違った認識をした直後、フワッと身体が引っ張られる感覚とともに、不意に視界が変わった。

 路地の壁の角に押し付けられるような形にされ、目の前にはイシュトヴァルトが立っており、当たり前だが逃げ先は塞がれている。


「呼ばざるをえない状況を作ればいいな……?」

「ちょ、殿……っ、」

「呼称」

「……っ……、」


 まつ毛の本数が数えられそうなほどに、綺麗な顔が近い。

 それだけで思考力はまともに保てそうにないのに、避けるのも許されない至近距離で、視線が交差する。

 これは町を訪れる際に取り決めた通り呼ばない限り、解放されることのない体勢である。


「どうした、ルカ」

「近いです……っ、せめてもう少し離れ……」

「断る」

「〜〜っ、」


 何を思ったのか、目の前にあるだろうルカの頭に触れ、そのまま髪を梳くように撫で始めたイシュトヴァルトは、手触りが気に入ったのか、何度も何度もそれを繰り返す。


「あの、撫でられて懐柔されるような子どもではありませんが……、?」

「……子どもとは思っていない」


(うぅ、ではなんでしょう……動物でも愛でているみたいな感じ、とか……?)


 イシュトヴァルトが動物を愛でる姿も想像しにくいが……。

 これは暫く好きなようにさせるべきかとなんとなく様子を見つつ、ルカはこの状況をどうしたものかと頭を悩ませていた。

 体格差もあり、ルカが多少抵抗してみたところでイシュトヴァルトはびくともしないだろう。

 まぁ、意地を張らずに名前を呼んでしまえば済むだけの話しではあるのだが、それはなんとなく癪なのである。


(きっと、本気で嫌がれば離してくれるのでしょうけれど……)


 いつもは無表情か、どちらかといえば機嫌の悪そうな表情をしているイシュトヴァルトが、今はどことなく上機嫌そうなのである。

 その気分を害してしまうのは、なんとなくもったいない気もするなと思う部分も多少はある。

 そんな事を考えている間に、イシュトヴァルトはすっと顔の横に流れていたルカの髪を一房掬いあげると、そのままその髪に口を寄せた。

 至近距離で披露されるその画になる様は、とてつもなく心臓に悪い。

(平常心を保つ難易度が高い……っ!)


「ルカ……城に着いたら、髪色は早く戻せ」

「ぅ、やっぱり変でした……?」

「違う……変ではない、似合っている。だが……」


 髪に触れながら、イシュトヴァルトはそのままルカの耳のあたりにその綺麗な指先を寄せていく。

 わずかに触れるか触れないかの感覚に背中がゾワゾワして、呼吸の仕方も忘れそうなところに、思いもよらないワードが降ってくる。


「……本来の髪色のお前の方が、好きだ」

「……っ、?!」


 ルカの柔らかな髪をそっと耳にかけながら、イシュトヴァルトは静かにそう呟く。

 長いまつ毛に覆われた伏し目がちの視線が少しだけ熱を持ち、優しく触れられた耳の辺りがじんわりと温かくなっていく。

 真意がわからず、これは一体どういうことだろうかと困惑するしかないルカは、なおも髪を弄ぶイシュトヴァルトにされるがままに身体を硬直させるしかないのだった。


(か、髪色の話よね……? 髪色が好きって話よね……!?)


 混乱したままどのぐらいそうしていただろうか。

 体感は長く感じたものの、実際はそこまで時間は経過していなかったと思われる。

 しばらく固まってしまったルカは、このままではいけないと、どうにかこうにか喉の奥から声を絞り出す。


「……イ……、」

「ん……」

「……イシュトさまが、そう言うのなら……すぐ、戻します……」


 この状況をこれ以上続けるのは自身の精神衛生上よくない気がして、ルカはようやく取り決めた呼称を呟いて白旗を上げた。

 だから離してと小さく告げると、イシュトヴァルトはわずかに満足気な表情を浮かべながら、あっさり身体を離して解放してくれる。


「あぁ」


 その何事もなかったかのような態度は、本当にルカに名前を呼ばせるためだけの行動だったようにも見えて、何が本心なのかますます良くわからなくなってしまうのだった。


「〜~っ、からかって楽しまないでくださいと申したはずです!!」

「お前が素直に呼ばないからだろう」

「それは、そうかもしれませんが……っ、!」


 納得は行かないものの、とりあえずイシュトヴァルトの機嫌がすこぶる良さそうなのでいいことにしたのだが、しかし、上がった体温と鼓動はすぐに戻らない。

 ルカは自分の頬に手をやりながら、既に歩きはじめているイシュトヴァルトを追い、数歩ほど遅れて後ろを付いて歩くのだった。


(うぅ、顔が熱い……)


 さすがに日が沈みかけると、気温も下がってくる。

 ちょうどいいことに、その冷えはじめた空気は妙に上がってしまった体温を戻すのに一役買ってくれた。

 詰め所に戻るころには平常心に戻っていたので、特に衛兵に不審がられるような何かはなかったように思う。

 預けていた馬を受け取ると、城に帰り着く頃にはすっかり周囲が夕焼け色に染まっているような時間帯だった。


「あ、ほら。夕日がとても綺麗ですね、明日も晴れそう」


 本当に丸一日、イシュトヴァルトは予定を開けてくれていたのだ。

 その分どこかに執務の皺寄せが行っているのだろうことを想像し、申し訳なさも湧くものの、素直にありがたいと思うことにする。

 城の門が開くと、待機していたらしいルーシャスが出迎えてくれた。


「おかえりなさいませ、殿下。ルカさま」

「ただいま帰りました。とても楽しかったです」

「それはよかったですね。何かあるだろうなとは思っておりましたが、まさかルカさまが単身でご解決なさるとは」

「ぇあ?! み、耳がお早いですね?!」


 まさかルーシャスが既に知っているとは思っていなかったが、よくよく考えればこの者はイシュトヴァルトの従者である。

 情報収集などは仕事のうちなのだろう。


「ではルカさま、馬はお預かりします。あとは侍女の方に引き継がせて頂いても?」

「もちろんです。殿下も一日ありがとうございました」


 改めてお礼を伝えるが、城に入ったせいもあるのか、イシュトヴァルトは視線を投げるだけで無言で主城の方へ去っていく。

 その背に一礼すると、ルカは待機していたシルフィと共にその場を後にした。

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