― 第5話 ― そんな話は聞いてません

(懐かしい、音がする……)


 カサリ、パサリと……軽い音を立てているのは恐らく書類を捲る音だろう。


 昔、まだ先代領主が健在だった頃。

 幼いルカは、遊んでほしい欲と執務中の先代の邪魔をしたくない気持ちが入り混ざり、よく執務室の机の下にかくれんぼ中と称して入り込んでいた。

 耳触りの良い書類を捲る音と、サインを書き込む羽ペンの筆記の音に眠気を誘われ、そのままその場で眠ってしまうこともあったのだが、そんなときは必ず、先代領主が苦笑しながら抱きあげて、ルカを寝室まで運んでくれた。


 ゆらゆらと運ばれる浮遊感に、時折目は覚めていたりもしたのだが、嬉しさもあって寝た振りを決め込んでいたものだ……。


 しかし、それにしては揺れが激しい。

 そもそも先代はもういないし、ルカは死んだはずでは……と、そこまで思い至った瞬間に急速に意識が覚醒する。


(……天井が、低い…………)


 パチリと目を開いてみれば、どうも狭いスペースに仰向けに寝かされているようであった。


(見慣れない内装の小部屋……いいえ、馬車の……中……?)


 ルカが領地で使用していた馬車ではない。

 窓の形も、シンプルながら威厳のある内装も、初めて目にする知らない物である。


「起きたのか」


 再びパサリと紙を捲る音と共に、静かな声音が車内に響く。

 反射的に顔を向けた対面の席に座っていたのは、書類に視線を落とした冷酷無慈悲の皇太子である。


「……っ……、?!」

(な……何故?!)


 ヒュッと喉を鳴らして悲鳴を飲み込んだルカには目もくれず、イシュトヴァルトは書類を片付ける手を止めない。

 流石に意識が戻ってなおも座面に横になったままでは不敬に当たるかと、慌てて身を起こそうとすると同時に、腹部に鈍痛を感じて小さく呻いた。


「……ぅぐ……っ、」

「横になったままでも構わないが」

「……ぃ、え……起きます……」

「……そうか」 


 そこでようやくイシュトヴァルトは手を止め、意外にもほんのわずかに気遣う素振りを見せた。


「鞘に納めたままだが、みぞおちをの辺りを突いた。痛むなら軍医を呼ぶ」

「お気遣いなく……イシュトヴァルト殿下が上手く加減してくださったので痛みはさほどありません……。違和感が強いだけで……」


 実際、痛みは最初の一瞬だけで、打たれた事による衝撃がまだ残っているような、そんな違和感だけがある状態だった。吐き気もないしルカ自身も大したことはないと思っている。

 どちらかといえば気になるのは今のこの状況についてなわけだが、イシュトヴァルトはといえば、問題なさそうだと判断した直後から再び書類整理に戻ってしまっている始末だ。

 おいそれと話しかけるわけにもいかず、見たところ書類の残りもそんなに枚数がないのを確認して、大人しく待つことにするしかないのだろうなと一度対話を諦めた。


(待つのはいいのだけれど……私がいる前で広げていて問題ない書類なのかしら……)


 手持ち無沙汰に観察してみる。

 移動中の時間を利用して執務をしているのだろうが、領主代行をしていたルカの経験上、晒すことのできない機密書類もあるのではないだろうか。

 ましてや彼は皇太子であり、領地の執務などを遥かに凌駕する、国の政に関わるものすらあると思われる。


(……それにしても、綺麗な人……)


 男性でありながら、目を引くようなその容姿は反則ではないだろうか?

 伏し目がちになっていることで長い睫毛が影を落とし、妙な色気を漂わせているせいか、見ているこちらが気恥ずかしくなる。


(今更ながら、あまりじっくりと観察しているのも宜しくはない気がしてきたわ……)


 気まずさに耐えきれず、仕方なく視線を窓の外に移動させた。

 馬車の揺れ具合を考えると、あまり舗装がされていない山道を通過しているところのようだ。周囲の植生はインレースよりもヴァルティアに寄っているように見える。


 時折響く野鳥の囀りはなんとものどかで、移動の揺れや馬車の軋み、馬の嘶きに耳を傾けていると、今置かれている状況をうっかり忘れてしまいそうになる。

 領主代行の執務に追われ、あまりゆっくりと外出することのなかったルカには、それなりに新鮮な環境ではあった。


 どのぐらいぼーっと外を眺めていただろうか……いつの間にか書類を捲くる音が止んでいる事に気がつく。


「……それで、何から聞きたい」


 慌てて視線を戻すと、残り数枚だった書類の処理がようやく終わったようだった。

 座面に深く腰掛けたイシュトヴァルトが足を組み直し、頬肘を付きながらルカを見据えている。

 見た目がいい分だけ、普通に考えれば傲慢そうに映るその姿勢にすら神がかった威厳が漂うのだが、今のルカには正直それを崇めるほどの心の余裕はない。


「えぇっと……そうですね、何から聞けばいいんでしょうね……?」


 人とは、極限まで混乱するとこんなにも思考力が落ちるものか……などと思ってしまった。

 質問に質問で返す形になったが、イシュトヴァルトに気分を害した様子見えない。どちらかといえば、混乱していても仕方がないと言わんばかりの顔で、ルカに状況を説いた。


「俺が勝った結果、後は好きにして構わないと言ったな」

「確かに、申し上げましたが……」

「これが好きにさせてもらった結果だ。昏倒させたお前を馬車に放り込んで、視察を中止して城への帰路についている」

「んん……、……っ?」


 いまいち端折り過ぎた説明に、ルカは思わず眉を寄せる。


(つまり、、?)


「……おそれながらイシュトヴァルト殿下。その、今の状況に至った経緯は理解出来たのですが、その行動を取るに至った殿下お考えの方をお教えいただけると大変助かるのですが」

「…………」


 ここに至るまでの事実は理解したものの、今の説明ではイシュトヴァルトの意図までは掴めない。

 敗戦国の貴族階級者などは、前国王派なら諸共に処刑されるか、新たな国王に忠誠を誓って許してもらい領地を減らしつつもなんとか取り入るか、金目の物を売り払って逃亡し、庶民として生活することを受け入れるかの三択ぐらいだろうが、その内のどれにも、今の経緯を聞く限りでは当てはまらない。


(他にあるとすれば、戦利品として奴隷や愛人にするために自国に連れ帰るという可能性……?)


 ただ、その可能性は低いのではないかとルカは思っている。

 なぜかというと、そういう扱い方をするのであれば、こんな上等な馬車に乗せる必要はなく、ましてや皇族と同乗するなど、本来はあり得ない事態だからだ。


「えっと……イシュトヴァルト殿下?」


 相変わらず返答がもらえないので再度促してみたところ、イシュトヴァルトは心底言い出したくないといった苦い表情を伴いながら、ようやく事情を打ち明けてくれる。


「父帝に、婚約者として据えてもよさそうな者がいれば連れ帰るようにと言われていた」

「……はい……?」


 とぼけたような声が出たのも仕方がないと思う。

 まさかの婚約者とは想定外だ。

 あまりの衝撃にルカは頭を抱えたくなった。


(いえ、待って……それでもまだ疑問が……)


 おずおずと挙手をすると、イシュトヴァルトは視線だけでその先を促す。


「……あの、お待ち下さい殿下。そういうお話でしたら、私のような者より、余程適任の方がいらっしゃったのではないですか、例えば……インレースの王女殿下とか……」


 確か、王女様の年齢はルカと同じくらいだったと記憶している。

 妃に据えるのは勿論のこと、前王派を抑える人質とするにしても王家の血を引いている者の方が役に立つはずだ。


「私はグレイシア領主の養女ですので、階級的には一応辺境伯にあたる貴族にはなりますが、爵位はたいして高くありませんし……」


 王宮は一夫多妻制が基本であり、妾にするという事ならそこまでおかしくはないのだが、婚約者として正式に発表するとなれば、それは結果的に本妻=正妃にするという事になるのだろう。

 インレースが属国になった時点で、元の爵位などあってないようなものなので、つまりもはや一般庶民と何ら変わりないルカを、大国ヴァルティアの皇太子の婚約者とするには些か……いや、かなり無理がありすぎるのである。


「ゆくゆくは皇太子妃となさるなら、私では役不足では? きっとヴァルティア皇帝陛下にもご納得いただけないかと思うのですが……」


 ただの戦利品として連れ帰り、愛人になれという話ならまだわかる……というより、むしろ状況が状況だけに年頃の娘を持つインレースの貴族の方からそうしてくれと願い出る可能性も高い。

 しかし、正式な婚約者となると、どう考えても立場的に王女以外の選択肢がないように思うのだ。

 そんなルカの思考を読み取ったのか、イシュトヴァルトは溜め息と共に補足の説明を付け加えた。


「ルカ・マグノリア・フェンリース。俺は、人質としての価値に関しては、さしたる興味はない。加えて、媚びを売るだけや、泣き喚くだけの存在はただひたすらに煩わしい。ヴァルティアは、実力主義を推している国であり、御しやすいとみれば利用され、邪魔と見れば容赦なく排除される。元王女の肩書があろうともそれは例外ではない。そんな中でお前を選び連れ帰るのは、俺の前で見せた度胸や矜持が、その環境でどれだけ通用するのか純粋に興味が湧いたからにすぎない」


 つまるところ、ルカの最期と思っての仕事内容が、この皇太子の興味を著しく惹いたということだった……。


 こうまで言われてしまえば、ルカにはもう何も言えるものがない。

 なんとも言えない気持ちになりながらも、ひとまず動揺したせいで崩れかけていた姿勢を正す。

 確かに、ひたすら甘やかされ、ぬるま湯に浸かるような生活をし続けていただろう王女殿下では、弱肉強食の世界であるらしいヴァルティアの後宮で、即座に潰されてしまうのだろう。


「まぁ、殿下が仰っている事は、私にもわからなくもないのですが……」


 ルカ自身、己の思考が世間一般の貴族令嬢らしからぬという事を重々理解している。

 令嬢とは柔順でお淑やかという基準で考えるのならば、どちらかといえば手合わせを願い出るよりも状況に泣いて怯えているほうが正しいのだろうし、今も恐れ怖がる方が普通の反応だと思うのだ。

 ルカがそうなれなれないのは、諸々これまでに抱えてきた人生の背景に原因があるのだが、今はそれを嘆き恨むべきではない。


「ならばこれ以上の説明は不要だな」

「……はい。ここで喚いたところで状況が変わるとも思えませんし、イシュトヴァルト殿下のご意向であるのならば、賭けに負けた私に拒否する権利はございませんから」

「聞き分けが良くて助かるが、この先のお前が受ける扱いはあまり良いとは言ってやれない。それこそ、普通の令嬢には耐えきれない環境だが?」

「そうでしょうね……まぁ、それはなるようにしかなりません」


 ともかく、十六年という歳月で終わるはずだったルカの人生は、どういうわけかまだ先へと繋がるらしいので、そうと決まったのなら前を向くのみである。

 起こってもいない事に対してあれやこれやを考えても仕方がないし、その時に考えれば良い。


「婚約者のお話し、謹んでお受けいたします」

「俺はお前に対して何をどうしろと言うつもりはないが……期待を裏切って早々に死んでくれるなよ」

「……善処いたします」


 そう一言告げて頭を下げたルカをついと眺めたイシュトヴァルトは、相変わらず無表情のまま、それ以上何も言う事はなくなった。

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