第14話 異世界、地球

 窓から吹き込む風が、白いレースのカーテンを揺らす。

 病室の片隅にあるベッドの上で眠っていたシェリルは、頭を撫でる暖かな感触で目を覚ました。

 微睡を払う猫のような声を上げながら、うっすらと空色の瞳が開かれる。

 そのまま数度瞬きを繰り返して目を慣らすと、ベッド脇に座っていた女性と視線が合う。


「……ごめんなさい、起こしてしまったかしら?」


 女性は申し訳なさそうに伸ばしていた腕を引っ込めた。

 黒いスーツを着た、真面目そうな面持ちの女性だ。

 彼女の膝の上には鞄。さらにその上には黒色のタブレット端末が置かれている。

 恰好や雰囲気こそ違うが、シェリルはその人物に見覚えがあった。


「……マキ、さん?」


 名前を呼ばれた女性――真希は、嬉しそうに微笑む。

 迷彩服を着ていた時とはずいぶん雰囲気が違って見えたが、どうやら当たりだったようだ。


「覚えていてくれたのね……そう、私は真希。市ヶ谷真希って言います。この国では真希が名前で市ヶ谷が苗字になるの……よろしくね、シェリルちゃん?」


 そう言って差し出された真希の手を、シェリルはおずおずと掴んだ。

 まるで警戒する猫のようなシェリルの挙動に、真希はおかしそうに笑みをこぼす。


「……怪我の具合はどうかしら? お医者さんからはほとんど治ってるって聞いているんだけど、どこか痛くは無い?」


 シェリルの怪我は、放置していれば数日で死んでいたような大怪我だった。

 そんな状態から完治に近い具合にまで復活させたのは、世界最先端の医療技術を利用したからなのだが、真希は今のところ、それに触れるつもりは無い。

 問われたシェリルは体をぺたぺたと触ると、その表情を驚きに染める。


「すごい……少しも痛まないです……!」


 傷が跡形もなく消えているのに衝撃を受ける。

 シェリルの知っている魔法では、こんなことは不可能だった。


「そう、良かったわ……ただ、念のためにあと数日は安静にしていなくちゃいけないの。退屈かもしれないけれど、我慢して頂戴ね」


 十分だった。

 傷跡を残さないという、これ以上ないほどの完璧な処置だ。

 それに目が覚めたときから思っていたことだが、ベッドの寝心地が異様に良い。

 これまでの孤児生活からは考えられないほどの厚待遇である。


「……いえ。ここまでして貰って、本当にありがとうございます。どうやってこの恩を返せばいいのか……」


 むろん、何の見返りも求められないなどとは思っていない。

 そんな都合の良いことなどあるはずが無いと、シェリルは知っていた。

 知っていたはずなのに、


「その想いだけで十分……ねえ、シェリルちゃん。私達は、何かをして欲しくてあなたを助けたわけじゃないの。助けを求められたから助けた、それだけなのよ……」


 返ってきた言葉は、シェリルにとって意外過ぎる、優しさに溢れたものだった。

 呆けたような表情になったシェリルの身体を、真希は優しく抱き寄せる。

 そして昔、年の離れた妹にやったのと同じ要領で頭を撫でてあげると、シェリルは目を瞑ってそれを受け入れた。

 少し経って、シェリルは落ち着いたように愁眉を開く。

 その様子を見て手を止めると、真希はシェリルの名を呼んだ。


「……?」


 呼ばれたシェリルは不思議そうに真希を見上げる。

 真希の表情は、先ほどまでとは違って真剣なものだった。


「……あのね、シェリルちゃん。これからシェリルちゃんにとって辛いことを話さなくちゃいけないの」


「辛い、こと……?」


 憂いを帯びた真希の表情に何かを感じたのか、シェリルも表情を引き締めて聞き返す。


「ええ、そうよ。あなたの未来を決める大事なお話――」


 真希がそこまで言うのと同時に、病室のブザーが鳴る。

 驚いたように身を固くするシェリルを安心させるように、「大丈夫よ」と言い含める。

 少しして、病室の外から「失礼するよ」という声が響き、ドアが開く。

 そこに立っていたのは、厳格そうな雰囲気を目一杯抑え込んだ、白髪の老人だった。


「朝比奈先生」


 真希にそう呼ばれた老人のフルネームは朝比奈博司あさひなひろし

 新世界現象の対策委員会会長を務める傑物だ。

 昨年古希を迎えたとは思えないほど姿勢がよく、しっかりとした足取りで歩み寄ると、真希の隣で膝をつく。

 緊張の余地を与えず、まるで最初からそこにいたと錯覚させるような、スムーズな足運びだった。


「初めまして、私は朝比奈博司というのだが……君の名前を聞いてもいいかな?」


 そう言って自然な笑みを浮かべる博司に、シェリルも警戒を解いて名乗る。


「シェリルと言います」


「シェリルというのか、良い名前だね」


 そう言って笑みを湛えながら頷く博司。

 実にスムーズな自己紹介だった。

 それを横で眺めていた真希は、大きなため息をついて、博司へジト目を向けた。


「泣かれなくて良かったですね、朝比奈先生。それとやっぱりおかしいので、いつもの先生に戻ってください。話を進めようにも違和感が凄すぎて話になりません」


 辛辣すぎる意見を述べる真希。

 だが彼女がそう言うのも仕方のないことだった。

 朝比奈博司は東洋の鬼で知られる武人である。

 その由来は本人の圧倒的な戦闘力も然ることながら、それ以上に顔と声が怖いのことにあった。


 その凶悪な面を博司が自覚し始めたのは、彼が将来の夢を幼稚舎の先生に据えた13の頃。テーマパークで迷子になった少年を発見したときである。

 きょろきょろと辺りを見渡す少年に声をかけた結果、泣かれた。それはもう盛大に。

 それ以来、子供に泣かれ続ける人生だった。

 だが、苦節60年にしてついにまともに子どもと会話ができた。

 その事実に内心で浮かれていたのだが、師弟の付き合いが長い真希からすれば気味が悪くてたまらない。


 この男、子どもの相手が好きなあまり、よく暴走するのである。

 今回も真希はその暴走に付き合わされたのだ。やたらとスムーズだったのはこの暴走によるシミュレーションを繰り返したからだった。


「くっ、そんなに言わんでもよかろうが馬鹿者……さて、妙なところを見せてすまぬな。本題に入るとしよう」


 そう言って咳ばらいをすると、普段の厳格な雰囲気が戻る。

 変化が激しすぎてシェリルは目を回しそうになった。


「早速だがシェリル君。君は今、どの国にいると思う?」


 突然の話題にシェリルはさらに混乱しそうになる。

 どの国と言われても、シェリルが逃げ込みダンジョン化した洞窟があった国は一つしかない。

 だから当然、


「ルヴニオン王国、ですか……?」


 と答える。

 シェリルが生まれて14年以上経つが、一度も国外へ出たことはない。

 そんなシェリルの回答に、博司と真希は何かを理解したように頷き合う。


「シェリルちゃん。私たちが住むこの世界にはね、ルヴニオン王国なんていう名前の国は存在しないの」


「は、い……? どういうこと、ですか?」


 何を言われたのか理解できないといった様子でシェリルは聞き返す。

 そんなシェリルに、博司が応じる。


「言葉通りの意味だ。ルヴニオン王国という名の国は、我らが母星、地球が誕生して以降一度たりとも存在していないのだ……つまり、どういうことか。それを話す前に一つ聞きたい。この国の名は日本というのだが、他にアメリカ、イギリス、中国、これらの国に聞き覚えは?」


「二ホン、アメリカ……聞いたこと、ありません……」


 以前、ギルドの資料室で世界の主要国家というものを見たことがある。その中に今言われた国名は存在しなかった。

 それを聞いた博司は断言するように、シェリルにとって衝撃の事実を語る。


「やはり……信じられないだろうが、シェリル君。君が今いるこの世界は君のいた世界とは違う……異世界、地球だ」


「……っ」


 声が、出なかった。

 ドクン、と心臓が大きく鼓動を打つ。

 でもどこか、納得のいく部分もあった。

 シェリルは視線をある場所に向ける。


(見ないふりはできない)


 病室の窓から見える、外の光景。

 晴れた昼間だからこそ、それははっきりと映った。

 空高くまで立ち上る、高層ビルが。


 それだけじゃない。

 病室は簡素に見えるが、継ぎ目などが一つも見られず、凄まじく高度な建築技術が用いられていることが分かる。

 シェリルのいた場所より明らかに優れた超文明の数々。

 改めて、納得がいったのだ。

 同時に、自らの置かれた状況がどれほど頼りないのかを悟った。


「これから私は、どうすれば……」


 気付けばそんな言葉が口をついて出る。

 うつむいて、頼りなさげに放たれた言葉。

 だがこれまでずっとシェリルの様子を見ていた博司は、心の底から感心していた。


(強いな、この娘……もう未来のことを考えておる)


 こんな事実を告げられたにもかかわらず、泣きも喚きもしない。

 それは、ただの中学生ほどの年齢でしかない少女が持っているような強さではなかった。


「……そのことで、私から提案があるのだ」


 博司から告げられた一言に、俯いていたシェリルは顔を上げる。


「提案……?」


 疑問を浮かべるシェリルに、博司は続ける。


「そうだ。現状、君が元の世界へ帰還できる可能性は極めて低い。なので君は、何も分からないないこの世界で生きる必要がある。ここまでは理解出来るね?」


「……はい」


 否もなくシェリルは頷く。


「人がこの世界で生きてゆくためには戸籍という身分証明が必要になってくる。君は異世界人という特殊な出自ゆえに、この世界での身分証を持っていない。つまり……極端な話をすると、君はこの世界で人とはみなされないのだ」


 脅しでも何でもない事実として、博司は告げる。

 異世界人など、新世界現象以降、混沌化した世界を研究する者たちにとって喉から手が出るほど欲しい存在だ。

 その使は計り知れない。

 存在が知られれば、あらゆる手を使ってでも獲得しようと動く組織は必ず出てくる。

 そうなった場合、後ろ盾も何もないただの少女では、どう足掻いても抗えないだろう。


「戸籍の重要性はわかりました。でもどうやってそれを……」


「そんなもの捏造に決まっている」


 シェリルの心配を吹き飛ばすほどに平然と言い放つ。


「案ずる必要はない。然るべき場所に話は通したうえ、すでに借の戸籍は作ってある。だが日本国籍を得るのは少々厄介なのだ。そのために君は私の子になる必要がある、これが先に言った提案だ」


 そこで一度言葉を区切り、そして続ける。


「……シェリル、君の意見を聞かせてくれ。今直ぐじゃなくても良い。退院するまでまだ時間はあるのでゆっくりと――ん?」


 考えなさい、と言おうと立ち上がった博司の服の裾を、シェリルは掴む。

 確かな決意をはらんだ瞳を前に、博司は目を見開く。

 そしてはっきりとした口調でこう言った。


「よろしく、お願いします」


 と。



◆◆◆



「退院おめでとうございます、朝比奈シェリルさん」


 あれから三日が経ち、今日が退院の日だ。

 その後すぐに戸籍の手続きがなされ、東欧系の日系ハーフという戸籍で、日本人としての人生をスタートさせている。

 持つべきコネは法務大臣だ。


「ありがとうございます」


 見送りに来たナースの女性に軽く挨拶を済ませて、病院の外へと踏み出す。

 そんなシェリルに、後からやってきた博司が声をかけた。


「行こうかシェリル。迎えがすぐそこで待っている」


 そう言って指差すのは、病院の入り口前に停車した白のセダン。

 一台ウン千万円はするほどの高級車である。

 二人が近付くと、後部座席が自動で開く。


「……凄い!」


 シェリルは未知の存在に目を輝かせた。

 おそるおそる乗り込むと、二つある一人掛けシートの奥側に座る。

 その心地良さに心が躍った。


「凄い凄い……!」


 退院して数分で凄い凄いBOTと化したシェリルを、博司と運転手の真希が微笑ましげに眺める。

 サラッと真希がいるのは、特別にシェリルの護衛へ任命されたからである。

 ここにはいないが同期の涼介も同じ任務を受けており、その上司である大倉二等陸佐の二人ともシェリルは面識があった。


 その後、一行は博司の家に向かって出発する。

 これからシェリルの家族となる人たちへ会いに行くのだ。

 動き出した車窓からの風景も気にはなるが、シェリルは自身の家族構成をおさらいすることにした。


(私を入れて八人家族だったはず。上からヒロお祖父さんとお祖母さん。それに父と母。兄が一人に姉が二人だったよね。姉の一人が私と同い年だったはずだけど、仲良く出来るかな……)


 近しい姉が気になったので、祖父となった博司に聞いてみることにした。


「ねえ、ヒロお祖父さん。新しく出来るお姉さんって、どんな人? 歳の近い方」


 隣のシートに座っていた祖父へそう問いかける。

 祖父は少し考えてから、こう答えた。


「家族の贔屓目抜きに真面目で優しい子だ……少々ヤンチャだが……まあ、悪い方の話ではないから安心しなさい」


 印象があまり定まらないが、この祖父が言うのなら大丈夫なのだろう。

 安心したように息を吐くと、祖父は面白そうに笑った。


「緊張しているか、シェリル?」


 そう問いかけられて、こくんと頷く。

 いくらシェリルでも、こんな経験は一度もしたことが無い。

 どんな反応をされるのかが、少しだけ怖かった。

 そんなシェリルの頭に、博司はポンと手を置く。

 昔からやけに頭を触られるが、シェリルはその理由がいまだに分かっていない。

 ただなんとなく気持ち良くて目をつむる。


「大丈夫だ。シェリルの事情はすでに家族皆へ話を通している。私達は新たな家族を受け入れる準備が出来ている……だから遠慮する必要は無いぞ? 何も今直ぐでなくて良いのだからな」


「ん……」


 凶悪な顔に精一杯笑みを浮かべてそう語ると、置いていた手でゆっくりと頭を撫でた。

 中学生の頃に、頭の撫で方の勉強をした博司の手つきはプロのそれである。

 もう一度こくりと頷いたのを最後に、シェリルは穏やかな寝息を立てて、眠り始めた。

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