第1話 ハローダンジョン

 さらさらと水の流れる音がする。


 冷たい微風が頬を撫で、冷え切った身体がピクリと震えた。

 硬くひんやりとした地面の感触と、顔をかすめる土埃に「けほっ」とむせたような咳を上げて、シェリルは目を覚ました。

 にぶった頭、ズキズキと痛む全身に顔をしかめながら両腕に力を込めて上体を起こす。


「んぅ……ここは……私は、確か……」


 眩暈めまいのする頭を片手で抑えながら、記憶を辿りつつ辺りを見回す。


 記憶違いでなければ真っ暗だったはずの洞窟は、壁に食い込んだ淡い緑に発光する石によって、少し先まで見通せるほどの明るさに様変わりしていた。

 また、この場所は緩やかな勾配の中間にある広場のようで、上方から流れ込む水の細流が小さく音を立てている。


「そうだっ……確か、ホブゴブリンにおそわれて、それで……」


 もやのかかったようだった頭が回転を始める。


 シェリルが生きているのはただの奇跡だった。

 ダンジョン化現象。

 それが、シェリルを救った奇跡の名だ。

 あの時発生した地震はただの地震ではなく、洞窟がダンジョン化したことによるものだった。

 ダンジョン化現象の説明としてよく挙げられるのが、領域内の破壊と再構築。

 ホブゴブリンが死んだのはこの破壊による落石で、偶然それに巻き込まれなかったシェリルが再構築の恩恵にあずかったのだった。


 もっとも、ホブゴブリンに襲われたショックで意識を飛ばしていたシェリルは、その身に起きた奇跡を理解していないが。


「体中痛いのに、傷は治ってる。不思議……でも良かった」


 そう言ってほっと息をつく。

 絶望的すぎる状況から気付けばここまで持ち直しているのだから分からないものである。

 とはいえ依然として状況は悪いまま。

 飲み水はなんとかなりそうだが、食料になりそうなものは見当たらない。

 それ以前にこの場所がどこなのか見当もつかなかった。


「何でか分からないけど、ダンジョンにいるのは確定」


 シェリルがそう確信するのには理由がある。

 近くの壁にあった光る石に指先で触れると、それは威嚇するように瞬く。


「やっぱり、緑光りょっこう結晶だ」


 緑光結晶は、文字通り緑色に光る石だ。

 光はダンジョン内でのみで発揮され、外に持ち出した途端に輝きを失うという。

 再びダンジョンに入っても光が戻ることは無い、そんな不思議な石だ。

 この緑光結晶は持ち出そうとすると激しく明滅し、魔物を呼び寄せるという性質を持っている。これを知らず犠牲になってしまった冒険者が続出したため、現在では緑光結晶の持ち出しが禁止されていた。子供でも知っている知識だった。


「危ないからやめよう、魔物が寄って来たら大変だ……それで、これからどうするかだけど……」


 最大の目標はダンジョンからの脱出だろう。

 だが現在位置が分からない以上、うかつに動いては体力を消耗するだけだ。疲れたところで凶悪な魔物と出くわせば先の二の舞になってしまう。それだけは避けたかった。今は生きることを最優先に考えるべきだ。

 となれば、取れる行動は限られてくる。


 喫緊の課題は水と食料、そして身を休めることのできる場所。

 このうち水は手に入りそうだった。足元の細流を辿っていけばいずれは源泉に出るであろうことが予測できるからだ。

 魔法で出しても良いが、それは最後の手段にしておく。

 いつどこで魔物が出現するか分からないのがダンジョン。魔力が節約できるのならそれに越したことは無い。


「できることから始めないと。まずは水の確保から」


 方針を決め立ち上がったシェリルは今更になってあることに気付く。


「服だけ治ってない、なんでっ……!」


 シェリルの恰好は、腹部と左腿から下が破けた傷だらけのワンピースただ一枚。

 破けた場所からは当然、白い肌が露出していた。

 だがシェリルにとって、肌が見えるか見えないかはどうでも良い。いや良くないが、長い孤児としての生活でその辺りの感覚などが年頃の少女のものと乖離かいりしていた。


 話を戻すと、シェリルにとって一番の問題はただただ動きにくい、これに尽きる。


「……う~……これもなんとかしないとね……」


 衣服問題の解決を頭の片隅に入れて出発することにする。

 勾配の緩い坂を上に向かって歩きながら考える。

 ずいぶん昔の記憶になるが、父が語った冒険譚ぼうけんたんの中にダンジョンに関するものがいくつかあった。


 ダンジョンとは何か。

 具体的に定義されているわけでは無いが、父が言うには、ダンジョン内は特殊な異空間であり、魔物や財宝が湧き出す場所とのこと。

 出現する魔物の強さはダンジョンによって異なるが、浅い階層ほど弱く、深くなるにつれて強くなるのは共通している。

 また、出現する魔物の強さに応じてダンジョン毎にランク分けがされており、最下位のGランクから最上位のSランクまで、計八つに区分けされている。

 ランクの基準は、出現する魔物のランクの平均値だ。


 シェリルが相性関係なく対応できるのはFランクの上位までである。

 ただしこれはメイン武器であるサーベルと魔法を十全に使えた場合の話で、武器を持たない今はFランク下位の魔物にも苦戦するだろう。

 仮にこのダンジョンがFランク以上であれば脱出までの道は非常に険しくなる。

 こればかりは生まれたてのダンジョンというものに期待するしかなかった。


 そして重要なのは次だ。

 ダンジョンにはドロップシステムと呼ばれる特殊なルールが存在する。

 通常、魔物をほふれば死骸がそのまま残るわけだが、ダンジョン内では違った現象が起きる。

 死骸は残らず、代わりにドロップアイテムと呼ばれる、撃破した魔物に関連するアイテムがその場に出現するのだ。


 ドロップアイテムは二種類存在し、確定ドロップの魔石と、確率ドロップの素材や道具、装備品に分けられる。

 注目すべきは確率ドロップの方で、出現率ごとにレアリティが設定されている。


 確率の高い順に、コモン、アンコモン、レア、エピック、レジェンド、ミソロジー、ゴッズの七階級に分類され、確率は階級の低い順に50%、20%、3%、0.05%――それ以上は不明だ。単純にデータが不足している。

 そもそも大半の魔物はエピック級のドロップ品までしか確認されておらず、上三つがドロップするような魔物はその多くが高ランクの化け物で、ドロップ率も通常とは違う場合がほとんど。

 なので大抵の冒険者はレア級を求めて狩りをする。

 エピック級などドロップした日には、それはもう大騒ぎだ。


 今、水以外でシェリルに必要なものは第一に食料、第二に身を休めることができる場所と衣服問題を解決できる何かだ。それらが集まってようやく安心して休息を取れる。

 そのためには、食料や衣服代わりになる物をドロップしそうな魔物を倒さねばならない。


「食べられそうな魔物がいると良いんだけど……っと、着いた」


 歩き出してからおよそ20分。

 思った以上に時間がかかったが、ようやく坂上さかうえに到着した。

 坂を上がった先にあったのは幅15メートル、深さは最深部で2メートルほどの、流れが穏やかな川だ。


「襲ってきそうな魔物はいないか……良かった」


 水辺だからと警戒していたが、杞憂だったよう。

 だが、突然魔物がやってくる可能性もあるので気は抜けない。

 シェリルは辺りを警戒しながら川へ近付いて行くと、水中に、あるものを見つけて目を輝かせる。視線の先にあったのは、剣のように鋭く長い口を持った魚だった。


「あれは、ブレードフィッシュ……今日の食料はお前だっ……!」


 ブレードフィッシュはFランク下位に位置する魚の魔物だ。

 だがこれは水中で戦った時の驚異度判定。


 その攻撃方法は長く鋭い口を活かした突進攻撃のみ。威力はEランク下位の魔物に匹敵するほど高いが、本体の耐久力がすこぶる低いため、魔法も使えるシェリルにとって文字通りの雑魚だった。

 何より、ブレードフィッシュはシェリルの故郷でもポピュラーな白身魚であり、焼き魚や煮魚にして日常的に食されている。


「これだけいれば、きっと一つはドロップするはず」


 集中し、魔力を練り上げる。

 右手を前に突き出して、強く念じた。

 望むのはもりをイメージした風の矢。


「風よ、我が敵を穿つ矢となれ、ウインドアロー」


 差し出されたてのひらに風が収束してゆき、薄い緑の矢が縁取ふちどられる。それは、続いて紡がれた魔法名とともに、水中を泳ぐブレードフィッシュ目掛けて勢いよく射出された。


 水の抵抗を少しも感じさせず命中した風の矢は、一撃でブレードフィッシュを光に返す。


「やった、命中! でも、ドロップ品は魔石だけ……むぅ、次」


 沈む魔石を残念そうに眺めると、次の魔法の準備を始める。

 先ほどと同じ要領で魔法を発動させ、またも一撃で仕留めると、今度は魔石以外に白い布のようなもので包まれた何かを落とした。それらは、ブレードフィッシュがまだ沢山いる川底へと沈んでいく。


「……もう少し処理してから取りに行こう」


 結局、危機感を覚えたブレードフィッシュたちが逃げ去るまで狩りは続いた。



◆◆◆



 緑光結晶に照らされて幻想的に揺れる川。

 そのほとりにある石の上には、ボロボロのワンピースが丁寧に折りたたまれた状態で置かれている。


 言うまでもなくシェリルのもので、彼女は今、傍の浅瀬にて一糸まとわぬ姿で水浴びをしていた。

 別にとち狂ったわけではない。

 川底へ沈んだドロップ品を服を濡らさずに取りに行くには、こうするほかなかったのだ。水浴びはそのついでである。

 それに、これでにおいも多少は抑えることができただろう。

 鼻の利く魔物が現れないうちに、臭い消しは済ませておきたかった。


 水浴びを終えたシェリルは、濡れてつやめく肌を惜しげもなくさらしながら、川から上がると、折りたたまれていたワンピースにそでを通す。


「やっぱり動きづらい」


 そんなことを呟きながら、ドロップ品の確認を行う。

 ドロップ品は全部で4個だった。倒したブレードフィッシュは12なので確率を考えると少々渋いか。

 それでも初めてのダンジョンで初めてのドロップ品だ。嬉しくないはずがない。

 シェリルは機嫌よく白い布を広げる。


「背身が二つ、腹身と尾身が一つずつ……今更だけど、調理器具なんて持ってなかったんだった……生で食べるのは怖いし、とりあえず一つにまとめておこう」


 布同士を結び合わせて巾着のように身を包むと、片手で持てるようになった。

 「よしっ」と言って立ち上がり、川へ向かって再び歩き出す。

 川の中にはいつの間にか逃げ去ったはずのブレードフィッシュが戻ってきていた。

 あと少し水浴びが長引いていれば危なかったかもしれない。


「やっぱり油断できない」


 考えてみれば、このブレードフィッシュはFランクの魔物だ。

 たまたま相性が良かったため一方的に倒すことが出来たが、その逆だってあり得たのだ。


 シェリルはそっと川辺に屈みこみ小さな両手で懸命に水を掬い上げると、それを口元へと運んだ。

 コクコクと小刻みに喉を鳴らして、その水を飲む。

 指の隙間からかなりの水がこぼれ落ちていたように見えたが、そんなことを気に留めた様子もなく「ぷはっ」と満足げに息を吐く。


「おいしい……たぶん、この水は安全。だけど魚はどうなんだろう……?」


 そう言って、川を泳ぐブレードフィッシュと岸に置かれた切り身を交互に見やり、「うーん」と考える。

 何となくだが、生で食べても問題無いような気はした。

 けれど、シェリル自身の常識がそれを邪魔する。


「本当に辛くなったら食べよう」


 結局そう結論付けると「んしょっ」と切り身の入った布袋を持ち上げ――瞬間、凄まじい悪寒を感じて、咄嗟とっさに近くにあった岩の影に身を隠した。


 ――今のは何?


 シェリルの心中は、そんな言葉で占められていた。

 全身の血が冷え渡って、動悸が高まる。

 今までに感じたことの無い、嫌な感覚だった。

 岩陰から、先ほど感じた悪寒の正体を探ると――いた。


 先ほどまでシェリルがいた場所から向かって左側の上流方向、その対岸に、身長5メートルほどはありそうな巨大な熊の魔物、ウォーベアがいた。

 ウォーベアは盛大に水しぶきを上げながら川を突き進み、


『グルルゥウウウウウウウッ!』


 と、咆哮を上げブレードフィッシュを素手で掴み上げると、その場でらいつく。そのまま一口で口の中に収めると、ほとんど咀嚼そしゃくせずに飲み込んでしまった。

 当然、一匹だけでは足りるはずもなく、逃げるブレードフィッシュを追いかけては喰らう。圧倒的な強者の狩りが、そこにはあった。


 シェリルはひどく混乱していた。

 ウォーベアはその巨体から繰り出される剛腕が持ち味の、Cランク中位の魔物だ。

 たとえシェリルが万全の状態だったとしても、瞬殺されるような相手だった。

 どうしようもないほどに圧倒的な格上。

 そんな化け物が、ごく普通に闊歩している。

 ならばこのダンジョンのランクは?

 低く見積もっても、Ⅾ。だが恐らくは、


「Cランク、ダンジョン……?」


 掠れるような声でそう漏らす。

 すると、それまで元気に食事をしていたウォーベアが急に動きを止め、辺りを警戒するように見渡す。

 シェリルは覗くのを止め、慌てて首を引っこめた。


 ――今のが聞こえていたの?


 内心を驚愕きょうがくが渦巻く。

 あれだけ大きな音を立てて暴れていたのにも関わらず、ほんのわずかな違和感を察知したのだろうか。


 結局、ウォーベアがシェリルを見つけることはなく、食事に満足したのか、対岸の先にある巨大な横穴へと消えて行った。

 しかしウォーベアが立ち去った後も、しばらくの間、シェリルはその場を動くことが出来なかった。

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