異世界少女の地球生活

和泉和人

第1章 異界の少女編

プロローグ

 ――9年前。


 時は神歴741年。

 大陸中央に位置する小国、ルヴニオン王国の王都ルヴナード。

 周囲を山脈に囲まれたこの地域は、夏は寒暖差が激しく、冬は豪雪地帯に分布される過酷な環境だ。

 そこに、ごく普通の一軒家で、慎ましやかながらも仲良く暮らす三人の親子がいた。

 父は鍛え上げられた肉体と精悍な顔立ちの美丈夫で、母はしなやかな体躯の美しく可愛らしい女性。

 そんな二人の娘もまた、非常に可愛らしく健康的な少女であった。


 それは穏やかな陽光が降りそそぐ、冬になる前のある日のことだった。


「ねえ、お父さんとお母さんはどこから来たの? 私ね、八百屋のおじさんに言われたんだ。私たちだけみんなと色が違うのは、遠い場所から来たからだって」


 と、空色の瞳で隣に座る母の顔を覗き込みながら、少女はそう尋ねた。

 三人が持つ白に近い明るい金髪――プラチナブロンドは、この王都ではまったくと言っていいほど見かけない色だ。それに近い色を持つ貴族はいるものの、当然のことながら三人は貴族などではない。

 ゆえに茶髪が大半を占めるルヴナードでは目立った。

 今年5歳になったばかりの少女は、そんな周囲から寄せられる奇異の視線が気になるのだろう。

 母は少し困ったように考える素振りを見せ、


「そうね……ここよりずっと寒い北の国から、かな……ほら、冬は辛いでしょう?」


 ややあって、そう答えた。

 それに追随するように、父も言う。


「そうだぞシェリル。あそこには夏ってのが無くてな、年中寒いのさ。そんだけ寒けりゃ、俺たち冒険者の獲物は少ない。だから、獲物が沢山いるこっちまで越して来たって訳だ」


「そうなんだ! ……でも、お父さんやお母さんみたいに冒険者じゃない人たちは、そんな辛い場所で平気なのかな……」


 シェリルと呼ばれた少女は、隣に座る父を心配そうに見上げる。

 そんな少女の頭に父はポンと手を乗せると、空色の視線を合わせた。


「……お前は良い子だ。確かにあそこはこっちよりずっと過酷な場所だ。作物は育たないし、港はずっと凍ったまま。だが俺たちのご先祖様は、そんな場所でも生きていける知恵を生み出したのさ。飢えることも、凍えることもない……昔の人ってのはすげぇんだぞ? だからそう心配するな」


 父はそう言って笑い、シェリルの頭を優しく撫でる。

 シェリルは嬉しそうに目を瞑ると、無邪気に微笑みを返した。

 5歳の少女にとって、父の話をすべて理解するのは難しかったが、それでも両親の故郷というものに漠然とした憧れを抱いた。

 だから、


「いつか私も、お父さんとお母さんの生まれた場所に行ってみたいな」


 そう言って、目を輝かせた。

 そんなシェリルの様子に少し焦ったような表情を浮かべながら、父は言う。


「っ……そうだな。シェリルが一人前になったと俺達に認められたなら、連れて行ってやる! そのためには……勉強をもっと頑張らないとな?」


 シェリルはそんな父の言葉に「えー」とむくれながらも、俄然やる気を出すのだった。


「そうだ! 次の仕事が終わったらシェリルには魔法を教えてあげる約束があったんだったわ。教科書をちゃんと作っておかないといけないわね」


 思い出したように言う母に、驚いた父が反応する。


「何、本当かシエンナ!? ならば俺も武術の鍛錬の仕方を教えてやんねえとな!」


 声を弾ませて父が立ち上がると、母シエンナもため息を吐きながら立ち上がる。


「もう、ベリル? 女の子に武術なんて似合わないわよ。身を守るためなら魔法で十分です」


 指先にぼわっと炎を出現させて、シエンナは言う。

 当然のように行われた高度な術。しかし父ベリルはそれに目もくれず、反論する。


「そんなことは無い! 男だろうが女だろうが、接近された時に何も出来ないようでは危険だ!」


 言い立てるベリルに、シエンナはすかさず言い返す。


「接近されて何もできないのはあなたの使う大剣術だって同じでしょう? ……それに、あなたに教えられるの?」


「も、もちろんだっ」


「あら、怪しいわね――」


 結局、娘の教育論議が白熱するあまり、シェリルをそっちのけで言い合いを始めてしまった二人。

 それが自分のために行われているものだと分かっているので止め辛い。

 シェリルはそんな両親の様子を困ったように、それでもどこか楽しげに眺めるのだった。


 両親と永遠の別れを期する、ほんの三日前の出来事だった。



◆◆◆



 ――9年後、神歴750年。


 暗い洞窟の中。

 凍えるほど寒くて、湿っていて、外の光が届かないほどには深いその場所に、一人の少女が、呻きながら横たわっている。


「はぁ、はぁ……」


 頬を赤くし、白くか細い喉を震わせ、少女は懸命に息を吐き続けていた。

 身にまとった粗末なあさの服はおびただしいほどの汗で濡れており、一目で発熱していることが分かる。


「くぅ……」


 少女は酷い有様だった。

 伸ばされたプラチナブロンドの髪は土をかぶったように汚れ、きめ細やかな白い肌は見る影もなくすすけている。

 仕立ての悪い麻製の服は、腹部から何かに切り裂かれた様な傷が走り、切り口には血がにじんでいて痛々しい。

 左腿には噛み付かれたような傷があり、そこから流れ落ちる血が、無防備にさらされた素足を伝っている。

 他にも、少女の華奢な体には数え切れないほどの傷があった。


 見るからに満身創痍。

 このまま放置していれば、あと数時間ほどで死んでしまうだろう。

 その前に、少女にここまでの怪我を負わせた獣が、匂いを嗅ぎつけて来るのが先か。

 先ほど少女を襲った獣の群れは、瀕死の重傷と引き換えに倒しきることができたが、仲間がいればもうじきここへやって来るだろう。

 そうなった時が、少女の最後である。

 そのとき。


 ――ザッ、ザッ、と。


 洞窟の入り口の方から、土を踏みしめる何者かの音が聞こえた。

 音の特徴からして二足歩行。

 どうやら、少女を襲った獣ではなさそうだ。

 足音は徐々に迫って来る。

 少なくとも、少女よりかは大きい。

 それはちょうど、少女の父親くらいの人間から発せられるような足音で。

 少女はわずかな希望に縋るように、痛む体をそちらへ向けた。


 そこには、


『グッギャァアアアアアアアアッ!』


 緑色の肌をした筋骨隆々の化け物――ホブゴブリンが、歓喜の雄叫びを上げていた。

 みにくい顔でよだれを撒き散らしながら、ホブゴブリンは狂ったように喜びの舞を踊る。

 それもそのはず。

 夜を越すために偶然立ち寄った洞窟に手負いの、それも極上の獲物がいたのだから。ホブゴブリンにとって、まさに幸運の極みである。


 反対に少女の顔は、恐怖と絶望に染まっていた。

 傷だらけで動けない自分は、その化け物ホブゴブリンに抗う術がない。

 立ち上がる体力もなければ武器も持っていない。

 そもそも武器を持った万全の状態でも勝てるかどうか分からない。そんな相手だ。


 終わった。

 ゴブリン種に襲われた女がどうなるのか、それを知らない者はいない。

 自分はこれから死ぬより辛い目に会い、そして無様ぶざまなぶり殺されるのだろう。

 少女の脳内を、絶望が支配する。


 こんなことなら逃げなければ良かった。

 人身売買を生業とする連中に捕らえられ、押し込められた馬車の中で娼館送りだと言われた時、絶対に逃げ出してやると強くちかった。

 そして実際に、移動中の隙を突いて逃げ出すことに成功する。

 上手くいったと思った。

 脱走は完璧だったはずだ。

 馬車の揺れから自分がどの辺りにいるのか大まかな把握はできていたし、戦闘にも少しばかり心得があった。

 なのに――


「――どうして」


 体中が痛くてたまらない。

 十体を超える魔獣の群れに襲われるなど想像すらしていなかった。

 決死の覚悟で挑み、何とか倒せたがこのザマである。


 迫り来るホブゴブリンには、何の抵抗もして見せない少女が、さぞ滑稽に映っているだろう。

 少女とホブゴブリンとの間合いは精々10メートル。その程度の距離、あって無いようなものである。


 ザッ、ザッ、と。

 音を立てて歩み寄る存在を感じながら、少女は嘆く。


 (ああ、なんで)

 

 ──残り7メートル。


 (1人でずっと頑張ってきたのに……っ)


 ──残り5メートル。


 (殴られて、馬鹿にされて、それでもずっと……)


 ──残り3メートル。


 (死にたくない)


 ──残り1メートル。


 (こんなところで、死にたくないよっ――!?)


 心の叫びが響く。

 悲痛な叫びだ。

 今すぐこの状況から抜け出したい。

 なのに、体が動かない。


「どう……して……! ――ひぅっ!?」


 筋張った腕が迫り、喉から息を無理やり止めたような声が発せられる。


「ゲギャギャッ――!」


 気色の悪い声。

 醜くだらしない笑みを浮かべ、伸ばされた手が少女の肩に食い込む。

 それと同時に、鋭い爪が肩口へと食い込み、じんわりと赤い雫が滴り落ちた。

 ホブゴブリンは、嫌悪感と痛みに叫ぶ少女を期待して、醜悪な笑みをより濃くする。

 しかし、期待に反して少女が声を上げることは無かった。

 否、できなかった。

 たび重なる衝撃に、少女は意識を失っていたのだ。

 身体も限界だったのだろう。少女は糸が切れたように眠っていた。


 そんな少女の様子をつまらなさそうに眺めていたホブゴブリンは、突如、名案を思いついたかように顔を歪ませる。

 おもむろに拳を握りこむと、それを振りかぶり。

 そして死なない程度に勢い付けた拳を、少女めがけて振り下ろした――その時だった。


『ズォオオオオオオオオオオオオォン!」


 咆哮のような轟音とともに、洞窟内が大きく揺れ始めた。


『ギギィッ!?』


 ホブゴブリンは、あと数センチで命中しそうな位置にあった拳を慌てて引き抜き、咄嗟に少女から大きく距離を取ると、心底焦ったように忙しなく辺りを見回す。

 間抜けに見えるが、その反応も仕方の無いことだ。

 この時起きていた揺れは、震度7レベルの大地震。

 地盤が安定するこの地域では、震度1の地震すら経験したことの無い者ばかり。目の前のホブゴブリンも、その例に漏れない。


 ホブゴブリンは立っていられないと判断したのか、洞窟の地面に這いつくばると、怯えたように震え出す。

 先ほどとは打って変わって、実に情けない姿だ。

 揺れはまだ、収まる気配がない。

 そして、そうこうしているうちに事態は急変する。


『グギィ? ギッ、ギギャァァアアアアアアアアア――!?』

 

 突然、ひび割れるような破砕音を立てて、天井から巨大な岩が、ホブゴブリン目掛けて降って来たのだった。

 揺れに耐えながら這いつくばっていたホブゴブリンは成すすべなく下敷きになり、トマトのように潰れて死んだ。


 ホブゴブリンから離れていた少女は多少土煙を被っただけで済んだが、依然として目を覚ます様子はない。

 揺れの収まらない真っ暗な空洞に、ぐったりと横たわる少女――シェリルの姿だけがあった。

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