第53話 日歴123年 イズミ 下
イズミがその標的に選んだのは、王城だった。見つかったとはいえ、前に一度侵入に成功している。
イズミは決意したその日の夜に、前回と同じく裏山に侵入した。前とは事情が違う。イズミは誰にも見られないように細心の注意を払った。
そして、庭に入ったとき。人影が見えて、イズミは木の陰に身をひそめた。その人物は長椅子に腰を掛けてぼんやりと空を眺めていた。イズミはすぐにそれが誰かを悟った。
ギオザ様……。
ギオザはイズミに気づいていないらしい。イズミはばくばくと心臓を荒立たせながら、息を殺して身をひそめ続けた。そしてしばらく時が経ち……。
それは突然のことだった。
ギオザの隣から何か小さな影が飛び出したかと思うと、まっすぐにイズミのもとへ向かってきたのだ。
ギオザはそれを追うように振り返り、ついにイズミの姿を視認したのだった。
飛び出してきた小さな影、もとい黒猫は、イズミの膝に頭をこすりつけている。
地面に膝をつくイズミと、しゃんと背を伸ばして立つ
イズミはこの状況に混乱しながらも、『見つかってしまった』という事実だけは理解した。
「お前は……」
「……」
イズミは、何も言うことができず、ただ体を固まらせていた。
「花の季節じゃないが……何の用だ」
ギオザの全てを見通すような瞳に捕らえられ、イズミは言葉を飲み込んだ。
何故かはわからないが、この人に嘘をついても無駄だ、そうはっきりと感じたのである。
「……盗みを働きに来ました」
馬鹿正直なその言葉に、ギオザは不意をつかれた。
沈黙が場を支配する中、それを打ち消すように、にゃあ、と猫が鳴く。
「無駄だ。
王城の警備がそんなに甘いわけはない。冷静に考えればわかることだが、追い詰められたイズミに、そんなことを考える余裕はなかった。
「さっさと帰れ」
ギオザはそう言って踵を返す。今度もギオザはイズミを見逃すつもりらしい。寛大な王子だ。
イズミはギオザの後ろ姿が遠ざかっていくのを呆然と見つめた。
もうここにいても仕方がない。帰るほかない。それはわかっていたが……。
「……帰れません」
イズミはそう声を絞り出していた。家で待っているのは、病に苦しむ妹と、精神を病んだ叔母。
2人を救えるのは自分しかいない。手ぶらで帰るわけにはいかないのだ。
ギオザは立ち止まると、再びイズミに向き直った。
「何故、盗みを?」
「……妹が、病気で、叔母が寝たきりで……こうでもしないと……」
イズミは言葉を詰まらせながら説明する。
「大変だな」
イズミの言葉を最後まで聞いたギオザはそう言った。
その声は淡々としていたが、イズミはその中に、心配するような気配を確かに感じ取った。
「大変……」
ぐっと目頭が熱くなる。大変、そう大変だったのだ。
両親が死んだ時、イズミはまだ10歳だった。
それでも、幼い妹を前に、イズミは養育者にならざるをえなかった。悲しみに暮れる暇もなく、ただひたすら今日まで過ごしてきた。
イズミは堰を切ったようにぽろぽろと涙を流した。
頬から滴った雫が黒猫の頭に落ちる。黒猫は不思議そうに、まん丸い金色の瞳をイズミへ向けた。
泣き続けるイズミの前まで来たギオザは、じっと考えてから言葉を放った。
「金が欲しいなら、割のいい仕事を紹介してやる」
「仕事……?」
イズミは涙に濡れた目でギオザを見上げた。
「
それからことはとんとん拍子に進み、イズミは弱冠15歳にして、平民でありながらも、ギオザの紹介で城の使用人となったのだった。
ギオザの計らいで給与も前借りさせてもらい、アリサの薬代と叔母さんの診察代もすぐに工面することができた。しばらくは自宅から城に通い、叔母さんの体調がだいぶ安定してからは、城に住み込みで働くようになった。
最初は雑用係だったイズミも、その勤勉さが評価され、数年後にはギオザの側近という立ち位置に落ち着いた。
妹は大きくなって体調を崩すことも減ったし、叔母さんも今ではすっかり元気になって、甥に頼りきりになるわけにはいかないと精力的に働いている。家に帰ることはなかなかできなくても、イズミは幸せだった。
何より、ギオザに仕えることであの日の恩を返したかった。
しかし……。
日歴122年秋月40日。城下町が放火されたあの日。
混乱の中で、イズミは一通の手紙を受け取った。その中身は……。
『妹は預かった。危害を与えられたくなければ、下記の場所に来い。他言したら、妹の命はない』
最後には城下町の外れの住所が書かれていた。
イズミはすぐに自宅に向かった。しかし、やはりそこにアリサの姿はなかった。
「『お兄ちゃん見に行く』って張り切って出かけて行ったよ」
そんな叔母さんの言葉に、イズミは拳を握りしめた。
妹が狙われることを想定していなかった、自分の責任だ。
アリサの身を案じながら、イズミは指定された場所へ向かった。そこは廃墟で、周囲に人の気配はなかった。
警戒しながら建物の扉を開けると。
「話がちがっ……!」
男の叫び声が聞こえ、その直後に鈍い音が響いた。
イズミは一瞬立ち止まり、外套の下に隠した短剣に手を添えた。ギオザの側近として、イズミもある程度の戦闘術は身に着けていた。ツァイリーについてからも、常に武器は持ち歩いている。
しかし、中に何人いるのかわからない上に、アリサが人質にとられている。イズミは短剣から手を離して歩みを進めた。
目の前に広がる光景にイズミは息をのんだ。部屋の中には3人男がいた。
そして、そのうちの一人、アサム王国軍の隊服を身に着けた男は、壁にもたれかかる態勢で、死んでいた。
「……お前がギオザの側近か?」
体格の大きい男がイズミに気づいた。
「妹はどこだ」
男は何かを放り投げた。白い布で包まれたそれは、床に落ちた衝撃で、中のものがはらりと零れた。
「……!」
イズミはそれが何かを理解すると体を強張らせた。
自分より色素が薄い、髪の毛。
「生きてはいるぜ」
「……何が目的だ」
男はにやりと笑った。
「俺たちの言う通りに動け」
その日から、イズミは、男たちの指示通りに動いた。殺された男はおそらく、行方不明になっているという入国審査兵だ。自分が指示に反すれば、いとも簡単にアリサに危害を与えるだろう。
その事実は、イズミにとって筆舌に尽くしがたい苦しみであった。
正直にすべてを話してしまおうか。ギオザ様なら、あの日のようにまた、助けてくれるかもしれない。
何度もそう思った。
しかし、城は自らが招き入れた刺客が潜んでいて、どこで誰が聞いているかわからない。それに、アリサの顔を思い浮かべると、どうしても踏み切ることができなかった。
そして、ついにその時が来てしまった。
ギオザ様が刺されたのだ。
いつかはこうなると、わかっていたはずなのに、動揺した。
見ないようにしていた未来が、現実のものして迫ってきた。
このままでは、ギオザ様が死んでしまう。
実害を与えた男はアザミ様が倒したらしいが、自分は知っている。この城に潜んでいる刺客は一人ではないこと。
「どうか、ギオザ様をよろしくお願いします」
矛盾している。それでも、口が勝手に動いていた。
ギオザ様は恩人で、一生をかけて仕えたいと、本気で思っていた。妹を人質にとられ、散々彼を裏切ってもなお、それは変わらなかった。
「わかった。イズミも気をつけろよ」
そう言って、ギオザを背負って駆けていくツァイリーを目に焼き付けながら、イズミは呟いた。
「申し訳ありません、アザミ様……」
軽々と10人を超える男達を倒してしまった。
この人は本当に強い。1年、側にいて何度もそう思った。目を眇めてしまいたくなるくらい、まぶしい人。
だから、期待してしまった。あなたならどうにかしてくれるんじゃないか、と。どんな絶望的な状況でも、ギオザ様を救い出してくれるんじゃないか、と。
「なんでギオザを裏切った……!」
ほら、優しい。こんなことになっても、まだ私を信じようとしてくださる。
「……理由は問題にはなりません」
そう、どんな理由であろうと、許してはいけないのだ。もう取り返しのつかない場所まで来てしまった。
外には数百人もの敵。たとえこの人でも、無事でいられるわけがない。
「アザミ様、あなたを巻き込んでしまいました」
あなたをここへ連れてきてしまったのは私だ。
この人は謝罪など求めていないだろう。それでも……。
顔を上げた時、アザミ様の後ろに男が立っているのが見えた。その手に光るものを認識した瞬間。身体が勝手に動いていた。
「アザミ様!!」
身体の中心に感じる焼けるような熱。意識と反して倒れていく身体。
「イズミ! しっかりしろ!」
あたたかい何かが傷を覆う。視界いっぱいに広がるアザミ様の顔は歪んでいる。
あなたにそんな顔をさせたかったわけじゃないのに。
「お前、なんで……!」
感じる。自分を生かすものが失われていく。
きっともう、自分は助からない。
「アザミ様……私は」
今にも泣きそうなアザミ様の頬に手を伸ばす。
「あなたに生きていてほしい」
生きて、支えてほしい。
自分はもうここにはいられない。どうか、あの人を……。
その日、王子時代からギオザ・ルイ・アサムを支えた側近イズミは、26歳という若さでこの世を去った。
その後の爆発によって遺体の損傷は激しかったが、死因は腹部を刺されたことによる失血死とみられている。
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