第52話 日歴123年 イズミ 上
「おにいちゃん、このお花、かわいいね」
妹の小さい手が指し示すのは、絵本の中に描かれた桃色の花である。イズミはその花を見て、「そうだね」と相づちをうった。
8つ下のまだ幼い妹が目を輝かせて絵を見つめている。
「アリサはお花が好きなの?」
「うん! 大好き!」
元気の良い返事に、イズミは思わず笑った。
「おにいちゃん?」
アリサが不思議そうにイズミを見つめる。なんで笑われているのかわからなかったのだ。
「アリサ、もうすぐ5才の誕生日だね。何がほしい?」
兄の言葉にアリサは浮足立った。
「このお花! ほんもののお花みてみたい!」
「わかった。楽しみにしてて」
イズミは「やったー!」と喜ぶアリサの頭を撫でた。
アリサは体が弱く、家の中で過ごすことが多い。3年前に両親を亡くしたイズミは母の姉にあたる叔母さんと3人で暮らしていた。叔母さんは優しい人だが、自分たちを養うために仕事に明け暮れていて、家にいる時間はほとんどなかった。なので、家のことは基本的にすべてイズミがこなし、日中はアリサと2人で過ごしていた。
「桃色で、こんな花、知りませんか?」
イズミは挿絵の写しを持って、行きつけの青果屋の店主に聞いた。
「うーん、わからないなあ」
「そうですか……」
あれから花についての情報を集めているが、知っている人は見つからなかった。花屋にも行ったが、似たような色、形はあっても同じものはない。
絵の中の花だ、もしかしたら実在しないものなのかもしれない。
しかし、イズミは諦めることができなかった。まだほんの小さいころに両親を亡くし、病がちで、たくさんの我慢をさせている。そんな妹が望んだものを、なんとしてでも用意してあげたかった。
『ああその花ねえ、ここらへんにはないよ。アサムの気候じゃ滅多に咲かないのさ。腕利きの庭師でもついてる豪邸じゃないとお目にかかれない……そういえば、王城付きの庭師がそんな話をしていたな』
元庭師のおじいさんからそんな話を聞いたイズミは、アリサの誕生日当日、王城の裏山に足を踏み入れていた。この場所は進入禁止だ。ばれたらどうなるかわからない。
しかし、ここは普段から人気が無く、行って帰ってくるだけであれば見つからないのでは、とイズミは楽観的に考えていた。王城の花を拝借しようだなんて、自分でも大それたことをしていると思うが、妹を落胆させたくないという思いが勝った。
イズミの作戦は順調に進み、誰にも見つかることなく王城の庭までたどり着いた。
イズミは身をひそめながら花を探す。遠目だが桃色の花が見えて、あれだろうかと目を凝らす。
あれが目的の花だったとしても、開けた場所に咲いているので、取りに行ったら誰かに見られる可能性が高い。花を取りに行く方法を考えていた、その時。
「何をしている?」
声をかけられた。
イズミは体を揺らして声の主の方へ向き直る。
「ギオザ様……」
そこに立っていたのは、艶やかな黒髪に意志の強そうな瞳を持ったこの国の王子、ギオザ・ルイ・アサムその人だった。
「……申し訳ありません!」
イズミは咄嗟に深く頭を下げて謝った。
まさか、王子に見つかるとは思っていなかった。これから自分はどうなってしまうのか、という不安が頭を支配する。
「何をしているのか、と聞いている」
「……ここに咲いているという花を探していました。妹の誕生日に贈りたいと思い……二心はございません。どうか、ご容赦ください」
「花?」
イズミは頭を下げたまま、返答する。
「はい。桃色で、薄い花弁が多く重なっている花です。このあたりでは、ここにしか咲いていないという話を聞き……」
「そこにいろ」
王子がイズミの言葉を遮る。
「はい……」
自分の前から王子が立ち去った気配を感じたイズミは、そっと顔を上げた。誰かほかの人を呼びに行ったのだろうか。
当然だ、自分は侵入者……。
「え……」
イズミは思わず呆けた声を出した。
王子が桃色の花を手に戻ってきたのだ。
「見つかったら面倒だ。早く持って帰れ」
そう言って王子はイズミに花を差し出した。
「ありがとうございます……」
王子はイズミが花を受け取ると、踵を返して立ち去っていく。イズミは何が起こったのか、なかなか理解できなかった。
他でもない王子が、城の庭に勝手に入った自分を、罰するどころか、助けてくれた。
イズミは手の内にある花を見つめた。片手じゃ収まらない本数の花が、すべて美しく咲いている。もしかしたら綺麗に咲いているものを選んで摘んできてくれたのかもしれない。そう思うと、イズミは自然と笑みがこぼれたのだった。
その後、イズミは無事に誰に見つかることもなく帰宅し、アリサに花を渡した。彼女は飛んで喜び、数本は押し花にして、今も大切にしまわれている
アリサの5歳の誕生日。あの日のことはずっと忘れない。
それから2年後。イズミとアリサを養うために身を粉にして働いていた叔母さんが倒れた。過労である。叔母さんは寝たきりの生活を余儀なくされた。
イズミは、叔母さんの看病と、まだ7歳で病弱なアリサの世話に加えて、唯一の働き手として、十分な睡眠もとれないような日々を過ごしていた。それでも、イズミ一人の収入では、3人の最低限の生活費を賄うのでやっとだった。叔母さんやアリサの医療費に回せる金はない。
イズミは病に苦しむ叔母さんを医者に見せてやりたいと、自分にかける金を最低限にして、少しずつ資金を貯めていた。
そしてもうすぐ医者に見せられるといったある日。アリサが流行病にかかってしまった。
流行病は、数日安静にすれば回復する軽度なものだったが、元来体の弱いアリサは回復の兆しを見せず、日に日に弱っていった。
流行病の薬は出回っていたが、イズミが貯めていた金では到底買える額ではなかった。
イズミは部屋の中に立ち尽くしていた。
ベッドには叔母さんとアリサがそれぞれ寝ている。アリサは苦しそうに荒い呼吸を繰り返し、額にたくさんの汗を浮かべていた。叔母さんは最近、一層精神が不安定で、起きているときは懺悔の言葉ばかり繰り返している。
イズミは隈のできた目で、じっとアリサを見つめた。
このままでは死んでしまう。
金を稼いで、栄養のある食事をとらせて、医者に見せなければ。でも、仕事をしている間に何かあったらどうする?
2人には自分しかいない。
仕事をしていると看病ができない。看病をしていると仕事ができない。でも、仕事をしないと2人は……。
イズミは目を瞑って深呼吸した。
ここ最近ずっと考えていた。
「それはやってはならない」と何度も打ち消していた。
でも、決めた。
他に方法も思いつかない。生死がかかっているのだ。
『盗みに入ろう』と。
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