第37話 日歴103年 リズガードとセイラ 下
練習に明け暮れて時間はあっという間に過ぎ、本番が始まった。毎日2回、観客を前に演技をする。
役者、裏方、監督、観客、たくさんの人が一体となる劇は、リズガードに確かな達成感を与えた。
そして、ついに最終日がやってきた。
休む間もない毎日にリズガードは疲れ果てていたが、有終の美を飾るために身を奮い立たせた。留学開始から今日で150日目。シャオレー座には残り30日滞在するが、1回目のオーディションで受かった彼は2回目のオーディションには参加しなかったため、劇に出るのはこれで最後になる。
「随分気張ってるわね」
開演直前、舞台袖でセイラとリズガードは待機していた。いつもより肩の力が入っているリズガードをみかねたセイラが声をかけたのだった。
「最後だから」
「あたしも最後よ。でも普段通りやり遂げるわ」
「俺は劇に出るのが最後だ」
リズガードの返事に、セイラは視線を舞台に向けた。
「……あんた、留学生なんだっけ。どこの国から?」
「アサム」
「いいわねえ、あたしも行ってみたかったわ」
リズガードはその言葉を受けて、セイラがアサムの街を闊歩している姿を想像した。きっと誰も彼もが彼女をよく見ようとして周りには人が群がることだろう。
演技を見なくたって、その姿を見て忌憚のない人物像を知れば彼女のファンになるはずだ。
「行けばいいだろ。あんたなら歓迎される」
「行けないわよ。あたしの忙しさ舐めてるでしょ」
セイラはリズガードに向けてニッと笑みを浮かべた。
「舐めてない」
リズガードは話しているうちに緊張が解けていくのを感じた。
「あたしは行けないから、帰ったらあんたがあたしの素晴らしさを伝えなさいよ」
その言葉を聞き終えると同時に、開演のブザーが鳴った。2人は定位置に移動し、幕が開くのを待った。
そして、それが2人の最後の会話になった。
順調に劇は進んでいき、クライマックスが近づいていた。
セイラが演じる主人公アガネーが、新しい女王として認められ、冠を手にする。そして自らの勝利を宣言し、皆と杯を交わすシーン。
「私の勝ちだ。私は光となる。国民をあまねく照らし、永遠に失われることはない。そんな光に」
そのセリフの後、アガネーが杯を空にしたら、そこからは宴である。ほとんどの役が出てきて、乾杯し、えんやわんやと盛り上がる。息子役のリズガードも参加者の1人として、自分の出番を待っていた。
『だから私についてきてくれ』
アガネーが杯を空にしてから続くはずの言葉が聞こえない。
リズガード含め、役者たちは違和感に気づいた。これで30回目の公演だ。何か違いがあればすぐに気づく。
セイラに限ってセリフを忘れるなんてことはない。皆が不安に思い始めた時。
どんっ、と鈍い音がした。
役者も観客も、息を呑んだ。
「セイラ……?」
真っ赤なドレスに身を包んだセイラ・マーガレットが、舞台上で倒れたのである。
その瞬間、リズガードはまるで時が止まったかのように感じた。
まず舞台上の役者が彼女に駆け寄り、揺すったり声をかけたりした。観客も異変に気がつきざわつき始めた。セイラが呼びかけにも反応しないことを確かめると、迅速に医療部隊が彼女を担架で運んで行った。
幕が閉じられ、劇の責任者が観客に説明を始めた。
誰かが「毒だ」と呟いた。
リズガードはその日眠れない夜を過ごした。
セイラが倒れたのは杯に入っていた毒のせいらしい。
舞台裏に外部の人間は入れないので、内部の者の犯行である可能性が高い。誰が毒を入れたかもわからないし、他に誰かが狙われる可能性もあるので、リズガード含め舞台に関わった人たちには自宅で待機するように指示が出ていた。
そしてその翌日。リズガードは無情な事実を知った。
セイラ・マーガレットは死んだ、と。
唯一の救いだったのは、彼女が悶え苦しんで死んだのではないということだった。舞台で倒れたあの時にはすでに息がなく、蘇生を試みたがそれも叶わず、彼女は冷たくなってしまった。
トップスターの死の影響は大きく、リズガードと同様ファンだった練習生は大きなショックを受け、公演中に主役が亡くなるという事件を起こしてしまったシャオレー座は休業を余儀なくされた。
他国からの留学生であるリズガードは、殺人が起きた危険な場所にいさせるわけにはいかないと、すぐに帰国の手続きがとられた。
そして帰国の前日、リズガードは自室で『朱色のアガネー』の台本を開き、心ここに在らずといった状態で、ベッドに腰掛けていた。
リズガードはなかなか現実が受け入れられなかった。
あの瞬間まで、セイラは生き生きと輝いていたのだ。舞台の上だけじゃない。自信家で人気者で美しくて。好きなものは好き、嫌いなものは嫌いと言い切れる強さがある人だった。
きっとこれからもっとたくさんの人に愛されて、たくさんの役を演じて、その輝きをもっともっと磨いていくのだろうと思っていた。
そんな彼女がもうこの世にいないなんて、あの声がもう聞けないなんて、信じられない。信じたくない。
リズガードは彼女との最後の会話を思い出していた。
「あたしは行けないから、帰ったらあんたが……」
リズガードはセイラの言葉を反芻する。忘れないように。
「あたしの素晴らしさを伝えなさいよ」
違う、とリズガードは思った。目を瞑り、彼女の姿をありありと思い浮かべた。セイラの声はもっと張りがあって、隅々から自信が溢れているようで……。
リズガードは目を開けて、立ち上がると、あの時自分が見たセイラの姿を再現するように、背筋をピンと伸ばし、前を見据えた。
リズガードは彼女の視線の先にいたはずの自分の姿をも想像し、少し揶揄うように笑った。
『「あたしは行けないから、帰ったらあんたがあたしの素晴らしさを伝えなさいよ」』
リズガードは自分の声とセイラの声が重なったように感じた。
その時、リズガードはセイラがもうこの世にいないことをまざまざと感じた。
それと同時に、気づいた。彼女を演じることが、彼女を生かし続ける唯一の方法なのだと。
そして帰国後。リズガードが放った一声は両親一同を大いに驚かせたのだった。
「久しぶり。なに変な顔してんの。今更あたしの美しさに感動してるのかしら」
口調が大きく変わっていたのである。
母はあまりの変わりように最初どうにも慣れなかったが、リズガードが劇に出演していたという話は知っているので、そういう役を演じて、その話し方に馴染んでしまったのだろうと見当をつけた。
母はリズガードの口の悪さを心配していたので、少し変わってはいるが、もとよりも丁寧な話し方を身につけたことを悪くは思わなかった。
女性のような口調に難色を示す者もいたが、リズガードは公の場でもそれを貫き通し、少し経つと受け入れられてそれが普通になった。
今では、この話し方が染みついている。たまに戻ってしまうこともあるが。
リズガードは挿絵から手を退かすと、本を閉じた。引き出しの中に本をしまい、ぬるくなってしまった茶を飲む。
あれからずっと、リズガードは憧れのセイラを演じ続けている。それが彼女を生かし続ける方法だからだ。そして、彼女と最後に交わした言葉を実現する方法だとも思っている。
セイラを演じる自分が好かれるということは、セイラが好かれているということなのだ。
あれからもう19年。リズガードは、あの時のセイラの年齢を超えてしまった。
杯に毒を入れた犯人はまだ捕まっていないと聞いているが、シャオレー座は数十日の休業を経たのち復活し、今でも当時と変わらず世界最高峰の劇団として人気を博している。
リズガードは、薬師シイラとどこで会ったのだろうかと考えるも、結局わからず仕舞いだった。
ここまで思い出せないということは、すれ違った程度なのか、あるいは観客の1人だったのかもしれない。
もしも、シャオレー座の練習生だったのならば、久しぶりにセイラの話をしてみたい、とリズガードは思ったのだった。
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