第23話 魔女、黄昏②

 霧魔の生態は、いまだにはっきりとは解明されていない。

 わかっているのは、人間を含めた地上にいるすべての生き物が染まる可能性があるということ。ある日突然染まる者もいれば、何年もかけて少しずつ染まっていく者もいる。一説には感染症の一種であるともいわれ、葉巻はそれを予防する手段のひとつだった。そうはいっても下町にいる闇医者の知り合いだという偏屈の博士とやらが融通してくれる、効いているのかどうかもわからない代物だ。

「―― なんだって?」

 紫煙をくゆらせながら、テオは幼馴染みの言葉に眉をひそめた。

「冗談…… じゃ、ないよな」

「だったらいいけどね」

 同じように口から煙を吐き出してリンダは言った。それから数秒の間、考えるようなそぶりをして口を開く。

「もし何かあったら、お願いしてもいいかな。あの子のこと」

「…… なんだよ、改まって」

 霧魔と直接渡り合えば、魔に染まる危険性は高まるだろうと言われている。それは自警団として集まって行動している以上は誰もがわかっていることだった。

「俺はお前とちがって身軽だから、まあいいけど、それくらい」

 黙ってしまった幼馴染にテオは繕うように続けた。

「しかし、リンダが捨て犬を拾うような奴だったとはね」

「ほんとにねえ」



 自分でまったく気がついていないということはなかった。だって馬鹿じゃない。気づけば全身は血塗れで、目の前には霧魔の残骸があった。それが意味するところを、はっきりと認識するのが怖ろしいだけで。

 ノルベルトはさらさらと崩れてきた砂を砂山の頂上に戻してぎゅっと押さえ込んだ。アルヴァは連れていかれてしまったので、中身はからっぽだ。しばらくしゃがみこんだままぼうっとしていると、「こんなところにいた」夕日を背中に受けながら、リンダが階段を降りてきた。

「何をしてたの?」

「…… アルヴァの墓を作ってた。…… けど、ちゃんとした作り方を俺知らないから、ただの砂の山になっちゃった」

「…………」

 リンダが何か言うより先に、ノルベルトは続けた。

「父さんも母さんも、俺が殺したんだ。全然覚えてないけど、多分そうだと思う。俺、馬鹿だからさ。あの日も別に、母さんのためとかじゃなくて、薬草を採ってきたらふたりが褒めてくれると思ったんだよ」

 リンダは何も言わない。ノルベルトはゆっくりと立ち上がった。

「背が伸びたね」

「…… テオにも言われた」

「もう肩車できないねえ」

「できてもすんな、ばかリンダ」

 リンダは、ふ、とかすかな吐息のようなため息にも似た笑い声をもらした。

「…… そろそろ剣の振り方を教えようかって、テオと話してたとこ」

「剣は好きじゃない。…… 生き物を殺すための道具じゃんか、あんなの」

「人を守るために使えばいい」

 ノルベルトに重ねるようにリンダは言った。

「…… そうすれば、それがあんたが両親を殺した理由になる。…… 帰ろう。じきに日が暮れる」

 燃えるような夕日の逆光で、リンダがどんな顔で話していたのかよくわからなかった。



 十六歳。上背がテオを完全に追い抜いた頃、ノルベルトは騎士の試験に合格した。もともと体格に恵まれていたせいもあってか剣の扱いに関しては同期より頭一つ抜けていたが、下町育ちというただ一点において、ノルベルトはもっぱら揶揄の対象であった。

「―― それまで! 勝者、ノルベルト・バウアー!」

 その日、若手の騎士を集めて親善試合が行われていた。歳上の騎士たちがそろって面白くないというような顔をしているのは別に、ノルベルトだけが原因ではない。

「それまで!」

 剣が地面に落ちる音とともに、審判役の声が響き渡る。

「勝者、ヒルデガルド・アイブラー!」

 一目で見てわかるハンデを背負いながら、彼女は次々と試合相手を打ち取り勝ち進んでいた。たった今負けたのは、若手の中でも一番の剛力の者で、やれ手を抜いてやったのだとか言っているのが聞こえるが単純な技量の差は明らかだった。

 審判役に呼び出されて、ノルベルトは前に出た。正面ではヒルデガルドが待ち構えている。まだ先ほどの試合の余韻か、肩で息をととのえている。少しくらい休ませてやればいいのになと思うが、順調に勝ち進まれては面白くないのだろう。彼女が優勝するよりは、体格のいい新人が優勝したという方がまだ彼らには納得いくのかもしれない。

 合図とともに、ノルベルトとヒルデガルドは剣を組み合わせた。が、力が明らかに弱い。力より技量でとかそういう話以前の問題だ。疲労―― だけじゃない。一度離れる。もう一度受ける。弱い。

 その時、ヒルデガルドの体が傾いだ。ノルベルトは彼女の剣を受け流すようにして、彼女の体ごと後ろに倒れた。仰向けになったノルベルトの顔の横に、訓練用の剣が突き刺さる。ちょうど、はたから見ればノルベルトがヒルデガルドに押し負けたように見える形になった。

「………… っそ、それまで!」

 審判役があわてて声を上げ、戸惑いがちにヒルデガルドの勝利を告げた。彼女は優勝したというのに特別嬉しそうな顔をするでもなく訓練場を出ていった。先輩の騎士たちが面白くなさそうにしているのが見える。ノルベルトはそれを倒れた姿勢のまま、世界がさかさまになった状態でぼんやりと眺めていた。



 訓練場を出て宿舎と外壁の間をぐるりとなぞるように歩いていくと、探していた人物はいた。

「どーも、医務室から差し入れです」

 外壁に隠れるようにしてしゃがみこんでいた彼女に声をかけると、さも嫌そうに眉間に皺を寄せられる。

「要らない。そのまま戻れ」

「せっかく苦労して医務室から持ってきたのに?」

 ノルベルトの言葉に、ヒルデガルドは信じられないという顔をした。

「盗んできたのか?」

「人聞き悪いな。―― あれ、どうやったらいいんだ、これ」

「盗んできたものをそうやって…… 馬鹿、違う、先に湿布薬を出して――」

 手当てを始めようとするも手つきのおぼつかないノルベルトに痺れを切らしたのか、ヒルデガルドはあれこれ指示を出し始めた。彼女に言われたとおりにやってどうにか手当てを済ませると、ヒルデガルドは恨みがましく呟いた。

「こんなところを誰かに見られたら何を言われるかわからない。彼らの都合のいいように真実を捻じ曲げて、それをさも事実であるかのように広められる」

 ノルベルトははあ、と呆けたように言った。

「つってももうやっちゃったしなあ、文字通り手取り足取り」

 言い終えるなりヒルデガルドにきっと睨みつけられる。ノルベルトが居心地悪そうにしていると、どこかから呼ぶ声がした。

「ヒルデちゃーん!」

 足音が確実に近づいてくるのを感じて、ノルベルトは急いで立ち上がった。

「あ、おい!」

「それ戻しといて」

 ノルベルトが宿舎の陰に姿を消すと同時にシャルロッテがヒルデガルドの前に姿を現す。

「やっと見つけた――って、また怪我してるし……! これ自分でやったの? 平気?」

「いや、自分で…… というか……。それより、お前は早く授業に戻った方がいい」

「授業どころじゃないよ、今。下町で霧魔が出たって、騒ぎになってる。授業は自習。訓練生は宿舎から出るなって」

 シャルロッテが発した台詞に、ノルベルトは考えるより前に走り出していた。



 ノルベルトは宿舎を抜け出した。宿舎外への持ち出しを原則禁止されている対霧魔用の真剣を盗んで下町まで走った。嫌な予感がした。

 路地からうめく声が聞こえた。

「マスター?」

 ノルベルトはその姿を認めると駆け寄って体を見分した。あちこち擦りむいてはいるが大きな怪我はなさそうだった。

「霧魔はどこ」

「いや…… いや、今テオたちが相手をしてるはずだ。お前はすぐに私と安全な場所に――」

 横合いからびゅっと何かが飛び出してきた。

 犬よりは二回りほど大きな、獣のような霧魔だ。ずいぶん興奮していて、その牙は血に塗れている。ノルベルトは剣を抜いた。

「ノルベルト、待ちなさい!」

 一閃。

 霧魔は一太刀でその場に倒れ込んだ。抵抗らしい抵抗はなかった。さっきまでの興奮具合から考えると妙だった。違和感についてじっくり考えるより先に、ノルベルトの腕をマスターが触った。そして、告げられる言葉に、ノルベルトは息を呑んだ。



 すっかり日も落ちた頃、ノルベルトが宿舎へ戻ってくるのが見えた。

「どこに行っていたんだ、今まで…… いや、だいたいわかるが……」

 ヒルデガルドはノルベルトに近づくと目を見開いた。

「―― お前、血まみれじゃないか……! それにその剣……」

 足を引きずりつつ追ってくる同期の姿が目に入っていないかのように宿舎の方へと戻っていくノルベルトは、その途中でどさりと地面に倒れ伏した。

「おい、しっかりしろ! おい!」



 そのままノルベルトは高熱を出して三日三晩寝込んだ。

「あ、おきた」

 ふっと目が覚めると同時に上から声が聞こえて、ノルベルトは体を起こした。

「残念だったな、アイブラー女史じゃなくて」

 そこにいた長髪をだらしなく伸ばしっぱなしにした男は、たしか同期の―― リヒャルト・キールストラといったか――。彼は言いながら、ベッド横の椅子に腰を下ろした。

「もう三日も寝ずに看病してるから、いい加減寝ろってアッセルに連行されたところ」

「…………」

「教官、死ぬほどキレてたぜ。目が覚めたら熱下がってなくても連れて来いってさ」

「―― はは、きっつ」

「どうせならもうちょい寝てれば?」

「そーする」

 キールストラが水の入った桶を持って部屋を出るのと同時に、ノルベルトはベッドに倒れ込んだ。

『そうすれば、それがあんたが両親を殺した理由になる』

 だってリンダが言ったんだ。

 だから……

「~~~~~~ッ」

 心のどっかで、リンダは大丈夫だと思っていた。

 あの頃の俺はできないことばかりで、できることばかりになるであろう大人というものにひどく焦がれていたように思う。できる、と、できない、に綺麗に区分けされた世界で守られていた俺は、できる、の先に、やる、と、やらない、があるとは夢にも思っていなかったわけで。

 要するに俺は、リンダを、

(―― 母さん)

 彼女を、ころした。

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