第22話 魔女、黄昏①

(八)魔女、黄昏


 少年は息を切らしながら夕日に染まる路地を走っていた。歳の頃は七つか八つ。貧民街の子どもらしく手足は瘦せ細り、服もおよそ上等とは言えない。少年は時々背後を振り返っては、追っ手の姿を確認する。大人が通るには狭すぎる隙間を抜けて物陰に入る。少年は息を吐きながらにやりと笑みを浮かべた。どうだ、その辺のつまらない大人なんかより俺の方が賢くてすばしっこい。俺の勝ちだ。勝ち誇った笑みとともに懐に入れておいたパンを取り出したその時、

「こら、待ちなさい」

 背後から首根っこをつかまれて、少年はめいっぱい恨みがましく振り返った。

「ノビー、盗むのはいけないことだって教えたでしょう」

「俺もその呼び方はやめてくれってずっと言ってるよ、リンダ」

 リンダと呼ばれた女は、少年が隠れていた木箱をひょいと乗り越えた。

「あんたが私のことをお母さんって呼べたらね。ほら、さっさと立つ、パンは返す」

「なんでさ」

 少年はリンダの言葉に不服そうに声を上げた。

「リンダ、マスターんとこは自分の家だと思っていいって言ったじゃんか。なんで自分の家にあったパン食ったら駄目なの?」

「お店の物を勝手に持ってきたら盗んだのと一緒。置いてもらってるマスターに迷惑かけたらだめ」

「じゃあ、世話になってない奴からなら盗ってもいいわけ?」

 大通りへと足を向けたリンダの後ろについて行きながら、少年は続けた。

「みーんなやってることだよ。リンダやマスターがいくら真面目にやってたってさ。損するよ、そんなんじゃ」

「やけに絡むね、今日は」

「だってリンダ――」

 今日の大通りはずいぶん人が多い。少年がちらちらとすれ違う人々の上着やズボンのポケットを眺めていると、ふいに下から持ち上げられた。

「お―― 下ろせよ!」

「だめでーす」

 ノルベルトだって別に軽くはない。それなのに軽々持ち上げられたばかりか肩の上に乗せられたせいで通行人からの視線を一気に集めてしまい、ノルベルトは赤面した。

「リンダ!」

「下ろしてほしかったらお母さんって呼んでみな、ほら!」

「呼ばねーよ、ばか!」



 偉大なるバスティアン皇帝を戴く城のふもと、城下街のさらに下、街ともいえぬ、寂れた地域の片隅にその店はあった。看板は薄汚れ、椅子にもテーブルにも傷がついているが、夜になると酒を呑む者たちでパンパンになる。夕暮れ、少しずつ人が入り始めた店内に二人が入ると、カウンターにたった壮年の男が柔和な笑みを浮かべた。

「おかえり。リンダ、ノルベルト。店が混み合う前に食べてしまいなさい」

 リンダははあい、と返事をして、てきぱきと自分とノルベルトの食事の準備をしてカウンターに並べた。野菜くずの入ったスープと、この店でマスターが焼いたパン。両親を亡くして、その日食べるものすらなくて下町をさまよっていたころに比べたらごちそうだ。ノルベルトとリンダが並んで座ると、常連らしき男がリンダに話しかけてくる。

(―― 今なら)

 ノルベルトはリンダとマスターに見られないよう気にしながらパンをいくらかちぎってポケットに入れた。食べるふりをしながら、それを何度か繰り返した。

 翌朝、ノルベルトは遊びに行くふりをして店を出た。店とは反対側の下町のはずれ、人々がいらないものを置き捨てる場所。その奥の奥へとノルベルトは入っていくと、がらくたの隙間から猫が出てくる。ノルベルトはほっと安堵の笑みを浮かべ、ポケットに隠したパンを差し出した。

「元気だったか? 昨日は来れなくてごめんな」

 ノルベルトの言うことがわかっているのかいないのか、猫は一心にパンくずをむさぼっている。背中に手を伸ばしてみても、嫌がる様子がないのでしばらく撫でていると頭上からふっと噴き出すような声がしてノルベルトは反射的に顔を上げた。

「―― 付けてきたのかよ」

「いや、ごめん、まさか逢引中とは思わなかったもんだから」

 リンダはにやにやと笑いながら、がらくただらけでほとんどその役目をはたしていない階段を降りてきた。

「今までの盗みはみんなこの子のため?」

「説教なら聞きたくない」

「じゃあ、交換条件」

 しかめ面をするノルベルトに、リンダは人差し指を立てる。

「私の話を聞く代わりに、その子うちに連れといで」

「…… そんなの」

「じゃなきゃあんた、いつまでも自分の食事を減らしてその子に持ってくでしょう」

 ノルベルトは口ごもった。リンダは猫を持ち上げると、地べたに腰を下ろし猫をそのまま膝に乗せた。

「…… 私の知り合いの話だけどね」

 リンダはぽつりぽつりと話し出した。

「そいつもいつまでも盗み癖が治らなくてさ。自分のためだ、誰かのためだって言いながらやめられなかったんだけど―― まあ、そうでもしないと生きてけなかったってのもあるけどね、結局やめられなくて、病気の母親が、りんごを食べたいって言ったんだよ。当然そんな金はないから、その辺のひとから財布をくすねた。でもそれは、その人が病気の家族のために必死に汗水垂らして稼いだなけなしのお金で、その人の家族はそれからすぐに亡くなっちゃった。そいつの母親も、次の年にすぐ死んだけどね」

 そこまで話してリンダは黙った。

「………… 説教は、嫌だって言った」

「そうだね」

 リンダは言うと、ごめんと苦笑いをした。

「帰ろうか、ノビー」

「…… やめろって、その呼び方」

「あんたが私をお母さんって呼べたらね」



 下町の路地で死にかけていた薄汚い子どもを、その女はどういう気まぐれか拾い上げて手当までしてそばに置いた。

 この頃、先の魔王大戦で親を亡くした浮浪児は大陸じゅうに山ほどいて、ノルベルトはその中のひとりだった。さみしいとか悲しいとか言っている暇はなくて、生きていくのにただ必死だった。―― いや、というよりは、実感がなかったのかもしれない。両親が死んだとき、つまりは、ノルベルトの住んでいた村が霧魔によって滅ぼされたとき、ノルベルトは大人たちに口酸っぱく入るのを禁じられていた山に入っていた。病で長らく床に伏した母に、なんにでも効くと噂の薬草を飲ませてやりたくて。目的のものを手に入れて戻ったとき、村は、村にあったはずの命はみな食い尽くされて、がらんどうの村を見ていると、妖の類に惑わされているかのようでさえあった。

 両親の遺体は、なかった。


 ノルベルトは十三になった。

 あてがわれている狭い屋根裏の部屋は日当たりだけはよく、朝になるとノルベルトの顔に太陽の光が差し込んでくる。

 隣に猫のアルヴァが乗ってきた。あれからここで飼うことを許された猫で、いつも夜出かけて朝に帰ってくるので、日の出を意味する古代語からアルヴァと呼んでいる。マスターが名付けた。寝台から起き上がって店の方へ下りていくと、ついさっきまで客が呑んだくれていたであろうテーブルを片付けているマスターの後ろ姿が目に入る。

「マスター、それくらいは俺がやるから少し寝なよ。いつもの時間になったら起こしに行くからさ」

「ああ、助かるよ」

「やさしーい」

 それじゃあお言葉に甘えて、とマスターが前掛けを外すと、カウンター席でリンダが茶化すような笑みを浮かべて言った。

「私にはそんなこと言ってくれたことないのに」

「リンダはテオ達と一緒になって呑んだくれてただけだろ」

「残念、ついさっき帰ってきたとこで珍しく素面だよ」

 リンダは言いながら、椅子から立ち上がった。

「また出るのかい」

「うん、でもすぐに戻るよ」

 じゃあね、とリンダはノルベルトの頭をかきまぜて店を出ていった。店に客が入る頃には寝室に追いやられるせいで、ここ数年の間にすっかり朝の店内清掃がノルベルトの仕事になった。

 リンダはたいてい、夕暮れに出かけては夜中に帰っているようだった。そうして店で呑んでいる酔っ払いのなかに入っていくか、そうじゃなければ朝方になってようやく帰ってくる。なにをしているのかと問えば仕事とだけ返ってきて、それ以上追及するのがなんとなくはばかられて、ノルベルトは彼女に関して深く知ろうとするのをやめた。

 重たい瓶の入った箱を持ち上げられるようになった。自分でもかなり店の役に立てるようになったと思うのだが、営業中の店には入れてもらえず早いうちに寝かされる。理由はわかる。この地域は霧魔がいやに活発で、夜になると彼らが行動を始めるからだ。

 霧魔は、あのときに山ほど見ているはずなのだが、どうも記憶がおぼろげだ。

「…… アルヴァ?」

 アルヴァが屋根裏の窓から降りてきて、ノルベルトは眉をひそめた。いまならぐっすり寝ているはずの時間なのに。呼吸が荒い。よく見ると、目も充血していて、足取りもふらついている。なにかおかしい。

 そう思うのと同時に、路地の奥からぞろぞろと犬猫があふれてくる。

 次に気がついた時には、足元に肉塊が転がっていた。

「ノルベルト! ノビー! しっかりして!」

 肩を強く揺さぶられ、どうにか目の前にいる人間の顔だけは認知する。

「…… 顔が血塗れだよ、リンダ」

「あんたのが汚れてる。…… これ――」

「リンダ、そっちはどうだ?」

 リンダが何か言いかけると同時に、表の道から誰かがやってきた。男は地面に転がった残骸を見るや軽快に口笛を吹く。

「さすが。これくらいなら朝飯前ってわけだ。向こうもあらかた片付いたから血を洗い流して一応葉巻を吸っておけよ、ノルベルトは俺が医局に連れてくから」

「いや、これは私じゃなくて………… なんでもない。そうだね、頼むよ」

 こちらを一瞥してから逡巡したのち、リンダは道を戻っていった。血だまりの前で呆けたように立ちつくすノルベルトに、男は不審そうに眉をひそめながら肩を叩いた。

「おい、平気か? ノルベルト、俺が誰かわかるか?」

「子どもん時からリンダのことが好きだけど全然相手にされてないテオ」

「元気じゃねえかよ。ほら、行くぞ」

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