第19話 ケンタウロスの心臓④


「前はこうではなかった。狩猟をし、木の実をかじり、時折木彫り細工をエルフやらに売って生活していた頃はまだ穏やかだった。少し前に、天使と名乗る者が来て言ったんだ。均衡が崩れた、と。それからだ。やけに喉が渇くようになった」

 ケイロンはぽつりぽつりと話し始めた。

「魔力が枯渇していたんだ。食べるしかなくなった―― 人間を」

 彼の口調はどこか、釈明するかのようでもあった。

「私はそれを拒否した。兄はそれを許さなかった。共存よりも淘汰を選んだのだな……。自分にも他人にも厳しいひとだったから。エルフをはじめとする他の種族との交流もなくなったいま、兄はもう生きた人間の血の匂い以外はわからなくなってしまった」

「…… 協力っていうのは、そういうことか」

 ケイロンが話し終えるとともにラフは言った。

「あの天使とやらはあんたとグルってわけか」

「あの方が現れたのはつい最近でした。人間のほとんど入らないこの森に、多数の人間を救うためならと連れてきてくれた。四人もいれば、兄を捕らえることも容易いでしょう」

「俺が、嫌だと言ったら?」

「力ずくでも」

 ラフが周囲に目をやりながら言うと、ケイロンは薄く笑んだ。その笑みは、ひどく思いつめたようでもあった。

「あなたは丸腰だ。魔術を使って逃げようにも限界がある。騎士殿のその足では逃げ切るなど到底できようもないし、彼女を捨てて逃げるということを、あなたはきっとしない」

「…………」

 きっぱりと言われて、ラフは黙った。

(君はその子を捨てて逃げたりはしない。そうだね?)

 そんなことはない。

 俺は冷酷な人間だ。

 ラフはつとめて冷静に、周囲を観察し、それからヒルデガルドを横目で見た。

「どれだけ走れる?」

「必要なだけ。ノルベルトたちと合流するまでは耐えてみせる」

「話が早くて助かるよ、騎士様」

 ラフが言うやいなや、ケイロンの視界から二人が消えた。



「…… 俺たちも食うつもりなのか」

 ベルが問うと、彼はいいや、と首を振った。

「先ほど申した通り。俺はただ待っている。たったひとりの、弟を。―― しかし……」

 王は、徐々に濃くなっていく霧のなか、仲間の集う背後を見ないまま言った。

「彼らは限界のようだ」



 霧が濃くなっている。もう少しとしないうちに隣に立つ人間の姿すらわからなくなりそうだ。

「―― ベル!」

 前方にそれらしい姿を認めて、ラフは声を上げた。

「すまん、追われてる」

「同じく」

 一旦逃げて、どこかへ隠れてから策を練り直せればいいのだが、周囲を覆う霧がそれを許さない。ヒルデガルドの顔色も、いいとは言えない。自身もひどい顔をしていることだろう。とっくに終わった過去を思い出して、ぐだぐだと考えている暇などないのに。ジークリンデもさっきのことでショックを受けているようだし、自分がしっかりしなければ――。

 ひゅ、と何かが風を切る音がした。え、とジークリンデの不意をつかれたような声がした。続いて、誰かのうめく声が聞こえ、それがラフのものだと気づいた次の瞬間には、体が倒れ込んできた。

「―――― ラフくん」

 心臓の音が大きく、早くなっていくのがわかる。

「ラフくん!」

 ラフの脇腹には深々と矢が突き刺さっていた。とさりとジークリンデの膝が地面に崩れ落ちる。見るからに動揺しているのが見て取れるが、どうにかしてやる余裕はベルにもない。その時、横合いからがしりと腕をつかまれる。

「しっかりしろ。立つんだ」

 強く、はっきりとした声が辺りに響いた。

「ふたりとも剣をもて」

 すらりと剣を抜く音がした。

「いいか。四人で生きてここを出るんだ。絶対に」

 ケンタウロスの群れが迫ってくる。負傷者二名に、魔物との戦闘に慣れていない者が一人。かえって冷静になれた。俺はやれる。あの時の方がよほど、絶望的だった。

 ベルが剣を抜いた瞬間、ケンタウロスたちが迫ってくるのとは逆の方向から馬のひづめの音がした。矢が飛んでくる。矢尻は的確にケンタウロスらの胸を捕らえた。

「兄上」

「おかえり。ケイロン。俺の弟」

 兄弟は対峙した。



『困ったものだ、ケイロン様にも』

『弓を引くどころか、虫も殺せぬときた』

『困ったものだ』

『まったくだ』

 陰口はいつものことで、近頃はもはや隠そうともしなくなってきた。構わずケイロンが近くを通りすぎていくと、兄が声をかけてくる。

『気にするなよ。機嫌の悪い父上に当たられて鬱憤が溜まっているのだ、やつらは』

『いつものことです』

 ケイロンは言った。

『父上の機嫌が良くないのもそもそも私のせいだし、何も間違ったことは言っていない。否定も反発もしようがありません』

『父上の機嫌が悪いのはこのあいだから森をうろつく人間が後を絶たないからだ。身体頑健なるケンタウロスの心臓が万病に効くと―― まったく、馬鹿馬鹿しい。人間たちが考えそうなことよ』

『…… おととい物資を運んできたエルフたちもそんなことを話していました。なんでも、病が流行っているようで死者が何人も――』

『そのようなこと、我々の知ったことではない。どうもお前は哀れみの心をもちすぎきらいがある。少しは冷酷になれ。俺や父上に何かあった時、この森を守るのはお前なのだぞ』

『やめてください、そのような―― 兄上?』

 兄の体がふらつく。少しとしないうちに、ケイロン自身もめまいがして思わず近くの樹木にもたれかかった。


 それから、崩壊はすぐだった。


「―― おいで、ケイロン」

 ケイロンは槍を突き出した。

 兄王はそれを抱き締めるかのように受け入れた。愛する弟に貫かれたというのに、このうえなく安らかな顔だった。

 彼はきっと、弟にこうされるのをずっと待っていたのだろう。魔に染まり狂ってからずっと、微かに残った正気のなかで、唯一の希望を。この世でもっとも信頼していた彼を。たったひとりの弟を。

 槍が彼の中心に深々と突き刺さる。するとたちまち、彼の体は砂のように消え失せ、心臓だけがごとりと地面に落ちた。

 ―― それは、ケンタウロスの心臓。

「人間の血肉は、マナが豊富な代わりに、口にすればするほど正気を失うようだった。意気地なしの落ちこぼれが、こんなところで役に立つとは思わなかった……」

 ケイロンは呟くと、つい今ほど兄の体に突き立てた槍を自身の喉元にあてた。しかしその手は意志に反して震え、狙いが定まらない。そうしている間にも、体は魔の領域へと変わっていく。

「手を貸そう」

 ベルが立ち上がり、先ほど抜き放ったまま宙に浮いていた剣を再び構え直した。

「見なくてもいい、ジークリンデ」

 呼吸さえ忘れていた部下の頭を、ヒルデガルドが抱え込んだ。

 剣が振り下ろされる。


『見なくていい、ジーク』

 覚えているのは自分より大きな手と、背中と、

『見ちゃだめだ。俺がいいって言うまでここにいるんだ』

 うっすらと涙をためた、灰色の瞳。


 騎士の仲間たちの声が聞こえてくる。

 ジークリンデが再び顔を上げた時、霧はもうすっかり晴れ渡っていた。

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