第16話 ケンタウロスの心臓①
(六)ケンタウロスの心臓
ノルベルトは息を切らしながら路地に入り込み、追っ手の様子をうかがった。王都から離れて騎士団が手出ししづらかろうとギルドの総本山であるこの街までやってきたのに、どういうわけか数個の小隊が何かを探して街を練り歩いている。それが自分なのか、それともほかの誰か、あるいは何かなのかはわからない。ノルベルトは注意深く辺りを見回しながら足を進めるが、その足取りは自分でもわかるほど覚束ない。騎士団の寮を抜け出してからもう半月は飲まず食わずで、いい加減何か口に入れないとまずい。路地の角を曲がると、人と人が至近距離で会話しているのが見えた。会話していた人物がこちらを向く。明らかに自分が邪魔をしたのがわかるが、体が限界を迎えたらしくノルベルトはずるずるとその場に座り込んだ。
『おいおい』
金色の髪をした、ノルベルトとそう変わらない体格と齢の男がやや焦った様子で近づいてくる。
『おーい、こんなとこで寝るなよ』
お兄さーん、と遠くで呼ぶ声がする。
子どもの頃、王都の下町で暮らしていた時には、飢餓に路上で倒れたことが何度もある。今こうして無事で生きているのが不思議なくらいに。
下町で育ったノルベルトにとって、ヒルデガルドはひときわ眩しい。河原でみつけた、傷ひとつない綺麗な光る小石みたいに。あの頃は秘密の場所なんてなかったから、必死の想いでポケットに押し込んでいた。
「―― ルト………… ノルベルト」
声がして、ベルはゆるゆると瞼を開けた。
「おい。―― 平気か?」
傍らでは、鎧を脱いだ軽装姿のヒルデガルドが心配そうにこちらを見つめていた。彼女の肩越しには、深い霧が先ほどと変わらない様子である。
「…… ああ…… うん、」
「かなりうなされていたが、やっぱりどこか怪我を……」
「してないよ」
ベルは立ち上がると、近くの木に引っかけていた自身の上着類を手に取りヒルデガルドに渡した。
「ほら、乾いた」
不思議そうな顔をするヒルデガルドにベルはあのなあ、と呆れたような声を出した。
「一応仮にも騎士団のいち隊長殿にそんな恰好させたのが知れたら俺が騎士団の奴らに殺される」
「こ、ころされはしないだろう。人命救助じゃないか、あれは……」
海でのことを思い出しつつ言うベルの後ろでヒルデガルドが気恥ずかしそうに目を逸らす。ベルは周囲を見回して、刻一刻と濃度を増す霧に顔をしかめた。
「あと若い奴らがお前のそのケンタウロスみたいな上半身見たら頭パニックになる」
「…… け…… ケンタウロスをばかにするな。現存する種族のなかでも人との共存を図る誇り高い種族だと学会でも――」
ヒルデガルドの言葉が途切れるとともに、二人は素早く木の陰に身を伏せた。と同時に、幾本かの槍と矢が飛んでくる。
「とらえたか」「外した」
複数の声が聞こえる。
「―― どこの何が誇り高い種族だって?」
明らかにこちらを害する目的で穿たれたそれらが飛んできた方向を見ながらベルが言うと、ヒルデガルドは馬鹿な、と呟いた。
「ここはケンタウロスの棲み処なんかじゃないはずだ……。少なくとも、国で登録されている目録には載っていない」
「登録されてようがなかろうが、ここを突破しなきゃ森を出られないのも事実だ」
ラフは無事だろうか。死んでこそいないと思うが、病み上がり同然の体で無理をしていないか心配だ。
茂みの向こう側をそっと窺うと、人間の上半身の下に、馬の胴体がつながった生き物が群れを成している。
「いたか?」
「おらぬ」「どこにもおらぬ」
辺りを注意深く観察しては、何かを探しているように見える。
「裏切者は始末せねば」「身内の不始末は我らの手で」
口々に言って頷きあう彼らの姿に、ベルは眉根を寄せた。
「私たちを探しているわけではなさそうだな」
「そう、きみたちじゃない」
突如背後から聞こえた、自身に同意するような声にヒルデガルドは思わず身をすくませた。驚きのあまり声を上げそうになった彼女を、ベルがすんでのところで制した。
「…… あんたは」
声の相手は、ベルの問いを待っていたかのようににこりと微笑み、長くうねる髪をたなびかせた。
「風は光り、火は猛り。其より出でしは儚き魂の香りなり。―― こんにちは。あるいは初めまして、この世界の人々。私は風を司る天使エンジュ。この世界を見守る者」
その姿かたちは男とも女とも言い切れず、薄くたたえられた微笑みは無垢な少女のそれにも、達観した翁のそれにも見えた。
「急いでいたとはいえ、乱暴にして悪かったね。ツワブキほどじゃないけど、スイセンもあれで強引なところがあるから」
「…………」
ベルはヒルデガルドが落ち着いたのを確認してから手を外し、エンジュに問いかけた。
「目的はなんだ? あんたらのおかげで離れ離れになった相棒と早く合流したいんだが」
それを聞くなり、エンジュはたちまち呆れた顔つきになる。
「わかった、わかった――。まったく、どこの世界に行っても人間てやつは皆せっかちでいけないな。なにもかも、すぐ行動に移したがる……。均衡が崩れるのも至極当然の話だな」
「均衡……?」
「わからないか? それだけの魔力を持ちながら―― いや」
眉をひそめたベルに、エンジュがぐいと近づいた。
「借り物か? それとも貸してるのか…… ああ、精神を貸して、魔力を借りてるのか」
成程、と勝手に得心したような笑みを浮かべるエンジュからベルは半歩下がり身を引いた。が、背後には茂みがあり下がることはできなかった。代わりに、困ったような顔でこちらを見るヒルデガルドと目が合う。しかしそれも一瞬で、ベルはすぐに天使に向き直った。
「…… 相棒の居場所を知ってるなら教えてくれ」
「まったく、なにがそんなに…… まあ、いい」
ベルの言葉に再び嘆息しかけたエンジュは、茂みの向こう側をちらと見た。
「ケンタウロスの心臓―― が、入用だろ?」
エンジュが意味深げに笑みを浮かべると同時にヒルデガルドの表情が険しくなる。
「ケンタウロスの、心臓だと……?」
ベルは少しの間黙った後、口を開く。
「―― それで、俺にどうしてほしいって?」
エンジュはしたり顔でにやっと笑みながら「何、簡単なことさ」と口にした。
「かの一族は今、内部で起こった紛争にてんやわんやでね。それ自体はどうということはないんだが、このまま南下されるとちょうど、地中にあるドワーフの棲み処の真上にぶちあたる。ドワーフってのは基本的にどの世界でもいなくなると相当厄介だ。この世界も例外じゃない。じゃあ、どうするかっていうと、ケンタウロスの中にいる魔に染まった裏切者を始末して、紛争を止めてほしいと、そういうわけさ。どっちにしろここを突破しないと森は抜けられぬし霧も晴れぬ。さらにはケンタウロスの心臓も手に入らないとくれば、応じない理由はないと思うが」
「…… その、厄介、というのは」
一通りの説明を終えたエンジュに、
「天使的に、ひいては天界的に、という意味で?」
とベルが問うと、エンジュは「そこが気になるのか?」と笑った。
「とは言ってもな―― さっき言った通りだ。私たちはあくまでもこの世界を見守る者。誰が困ると聞かれても、この世界が、としか答えようがない」
「…………」
「わかった。引き受けよう」
ベルが頷くより先に、ヒルデガルドがきっぱりと口にしてベルは思わずかつての仲間を振り返った。
「おい……」
「偶然、自分の身元を示す服を海で失くして自分の所属がわからなくなってしまっていたところだ。服が見つかるか、私の所属を知る者が私を見つけるまではわからないままでいいだろう」
「…… おまえって……」
「なんだ、不満か?」
なかば呆れぎみにベルが呟くと、ヒルデガルドは眉を寄せた。
「要らないのか、ケンタウロスの心臓とやらは」
「いや要るよ、要るけどさ……!」
ベルはヒルデガルドの言葉に重ねるように言った後、ぽつりと呟く。
「…… 頼むから、もっと自分を大切にしてくれよ」
「こっちのせりふだな。―― どうせ、あの男が必死になって探してでもいるんだろう。男であの美貌と魔術だ。どんな恐ろしくおぞましい術をと誰もが囁いているのが、嫌でも聞こえてくる。…… 私だって、あんな」
「それ以上言ったら嫌いになる」
遮るように言ったベルに別段驚いた様子もなく、ヒルデガルドはかすかな嗤い声を漏らした。
「………… これ以上嫌われる余地があったとは驚きだな」
すっかり言葉を返す気を失くしてしまったベルからヒルデガルドが目を逸らした頃、エンジュが声をかけてきた。
「相談は済んだかな? 済んだのなら、話を進めよう」
言うと、エンジュは霧の向こうに目をやった。
霧をわけるようにして、もやの中から何かがやってくる。
「―――― おや」
現れたそれは、およそケンタウロスとしてはふさわしくない、柔和な顔立ちをしていた。彼はエンジュの方を一瞥すると
「あなたがたが?」
と短く問うた。
「この世界の人間の中じゃ優秀さ」
「早く進めてくれ」
やや苛立った様子でベルが言えば、ケンタウロスが落ち着いた態度のまま言った。
「この方たちに説明は?」
「いや、まだだよ。本人からの方がわかりやすいかと思ってな」
エンジュの返答にケンタウロスはそうですか、と言って、少し黙ったあと再び口を開いた。
「…… 私はケイロンといいます。先日亡くなった一族の長は私の父にあたります。森の向こう側にいるのが私の兄――。私たちが今現在闘い、ここまでやっとのことで追いつめた相手です。お二人には兄を…… 父の形見を私から奪った憎きあの男を、打ち倒す手助けをしてほしいのです」
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