第15話 人魚の子守唄②
障害物がなくなった道を進もうとして、ラフはふと、足を止めた。ちょうど魔物を落とした辺りで何かが光っている。魔物が落ちていった衝撃でどこかへ散っていった蝙蝠たちは寄ってこないだろうと踏んで、ラフは指先に火を灯した。足飾りだ。金細工の中に宝石がひとつはめられていて、側面には文字が彫られている。
―― 親愛なるアムピトリーテへ。
「もう大丈夫だと思うわ。海の方へ行ったの。あのね、そこのところが海とつながっていて……」
「アムピトリーテ」
ラフは足飾りを差し出した。
「君のだ」
人魚はそれを不思議そうな顔で受け取ると、
「どうして……?」
と呟いた。
「…… 考えられるのはふたつだな。この道を通った時魔物に追われて落としたか、あるいは」
そのまま魔物に喰われたか。後者なら、他にも探せば持ち主の遺品があるかもしれない。
「もう少しこの辺りを探してみるか?」
言いながらラフは周囲を照らした。道はいくつかに分かれており、入り組んでいるように見える。案内がないと厳しそうだ。
「こっち」
進むべきか悩むラフの横を、アムピトリーテが通り過ぎた。
「平気か?」
「なにが?」
ラフに背を向けたまま、人魚は細くなったりうねったりしている小川を器用に進んでいく。しばらく歩くと、ふいにアムピトリーテが止まった。
「さっき話した、約束の話。本当はね、わかってるの。すっぽかされたんだってことくらい。馬鹿じゃないもの」
「…………」
「彼、多分今もどこかの海に出てるんだわ。夢中になって忘れてるんだと思うの。あのひとね、すごく大きな船に乗ってたのよ。ずっと向こうの海から来たから、ひょっとしたら人間さんとは別の大陸のひとかも」
「…… アムピトリーテ」
海を大型の霧魔が荒らすようになってから、西の大陸との貿易はすっかり途絶えた。それを決めた王から、もう幾度王が変わったか知れない。
「だってね、多分まだ二百年くらいしか経ってないのよ、もう少し待ってあげないとさすがに可哀想でしょ?」
「アムピトリーテ」
「だって!」
人魚が張り上げた声が、狭い洞窟内にこだました。
「だってまだ、少ししか経ってないのよ……」
切実な叫びにラフは表情を変えないままアムピトリーテに歩み寄り、水際に膝をついた。
「―― 二百年は、人が、生まれて、そして死ぬまでに、充分な時間だ」
アムピトリーテは、うつむいて黙り込んだ。ラフは、それをじっと見つめていた。
「うそよ…………」
人魚がつぶやいた。
「嘘よ、嘘よ! 嘘、嘘っ…………!」
それはもはや、海に棲む異種族の姿ではなかった。果てしなく伸びた尾は水中にとどまらず、ラフめがけて振り下ろされた。避けきれなかったラフの体は、洞窟の天井に叩きつけられる。ぐらつく視界の中で悪態を吐いた、その時だった。
先の方で明かりが灯った。かと思えば、煙幕弾が魔物へ向かって投げつけられ、ラフは顔を覆いながら明かりの方向へと駆けた。
「遅いんだよ、まったく」
「一旦街戻ってこんだけ数集めてやったんだぞ、ありがとうは?」
ランドールが冗談交じりに言うそばでは、確かに十数人の冒険者たちがドミニクの指揮に従って魔物を攻撃している。
「うーん…………
しばらくして、魔物の、ただの人魚だった頃と全く同じ、けれど悩ましげな声が響いた。
「甘いんだよね――――」
まどろむようにすら聞こえるほどの無力さで振り回された触手が的確に冒険者たちを攻撃した。
「陣形も指揮も攻撃も全部。そもそもさ、ひとの領域で戦ってるって意識、ある? 知らなかったならごめんね、ここって海から少し離れてるけど繋がってるのよ。地の利は完全にこっちなの」
「今のを避けられなかった奴は下がれ! 態勢を――」
「だからさぁ」
魔物は呆れたように言いながら残った者たちを一掃した。
「遅いのよね、全部が……。煙幕弾はまあまあ悪くなかったけど―― あら?」
人魚だった頃の面影を残したままの美しい顔が不思議そうに傾いだ。視線の先では、やっとのことで攻撃を避けた三人が息を切らしている。
「助かった」
「ああ」
短く礼を言うランドールに、ラフもまた短く答えた。
「人間さんと―― あ、そっちのひとたちも人間か―― ともかくあなたとふたりで話したいから片付けたのに、そういうことする?」
水辺では魔物が不満気な声を漏らしているのを横目で見ながら、ラフはドミニクに声をかけた。
「攻撃する隙が欲しい。頼めるか」
「人遣いが荒い。―― ランドの友達じゃなかったら見捨ててる」
ラフの苦々しい顔を尻目に、ランドールが行くぞ、と口にした。ドミニクが駆け出す。ランドールが弓をつがえる。
「人間さんならなんとかしてくれる気がしたんだけどな。人間さん、私と近い感じがしたから」
ドミニクが振り下ろした剣が、長い触手でいなされる。
「無力で、ひとりぼっちで、この世界に怯えて、そして呪ってる。―― ね、同じでしょ?」
ランドールの打ちこんだ矢が、振り払われ地面に落ちた。
「さっきだって、あなたひとりじゃあれを倒せないからどうにか苦肉の策で水の中に落としたんでしょ?」
攻撃をものともせず、アムピトリーテは話し続ける。再び触手へと切り込んだドミニクを、ようやく魔物は一瞥して、
「邪魔だわ、あなた」
「ドミニク!」
刃のごとく振り下ろされた触手が、ドミニクの体を鋭く切り裂いた。
「連れ出してもらうしかない。この奈落に望む手が差し伸べられるのを待ってるしかないの。ひたすらにね。私と同じ。みじめよね、ひとりじゃ自由に生きてくことすら――」
言葉の途中で魔物は、あ、と声を漏らした。
ラフの手にした長剣が、異形の中心を深々と刺し貫いていた。長剣から炎が燃え盛る。それは一瞬にして魔物を焼き尽くし、剣もろとも灰にして、海の中へ沈めた。背後からため息にも似た声が聞こえる。
「高かったんだぞ、その剣」
「弁償する。怪我は?」
恨み言に対しラフがそう言いながら手を差し伸べるとドミニクは平気だ、と答えて立ち上がった。ランドールは連れてきた仲間の点呼とともに怪我人の確認をしている。
「…… ベルとは会わなかったか?」
尋ねるとドミニクは怪訝な顔をして、
「見つかってないのか?」
と聞いてきた。ラフはああ、と頷き
「まあ大丈夫だとは思うけどな。あの天使たちも、あの時ばかりはこっちに危害を加えるような感じでもなかったし」
と答えた。
「結局何が目的だったんだ? あの天使とやらたちは」
ドミニクが素朴な疑問を呈したその時、水面が静かに揺れた。そちらを見ると、数名の人魚と思しき影が、水面から顔を出してじっとこちらを観察している。ランドールが集めた冒険者たち含め、一行は息を呑み、その姿に見惚れた。
「姉を退治してくださったのはあなたがたですか?」
濡れた髪に覆われた上半身の下には、確かに鱗がある。
「あんたたちは?」
「テティス」
ラフが問うと、一人がすぐに答えた。
「水底の国第一の姫アムピトリーテと血を同じくして生まれた者」
「同じく、ガラテア」「エウリュディケ」
残りの人魚が続けて名乗ると、テティスと名乗った人魚が前に出た。
「人間に肩入れしたばっかりにあんな姿になっていましたがアムピトリーテは私たちの父ネレウスの子たちの中でも一番の力の持ち主で、私たち―― 父ですら太刀打ちができずにいたので助かりました。父から私たちで何か助けになることがあればなんでもお受けするようにと言われています」
「なんでもって」
「なんでもはなんでもです」
訝しげな顔をするランドールに、今度はガラテアが答えた。
「人魚の肉でも、海底に沈む財宝でも、なんでも」
返答に顔をしかめ、馬鹿馬鹿しいとでも思ったのか仲間の方へ戻っていったランドールを横目にラフは口を開く。
「ひとつ聞いてもいいか?」
「なんでしょう」
ラフは仲間たちがいる方向に一瞬目をやり、そして声をひそめた。
「あんたたち人魚も霧魔になることがあるのか? つまり、アムピトリーテは元はあんたたちと同じ人魚で……」
「霧魔とはなんですか?」
人魚の返答に、ラフは言葉を失った。
「…… 知らないはずないだろう。現に、仲間が魔に染まっていたじゃないか」
「人魚はもともと、魔から出でたものですから」
「しかし、ここにいた魔物は元は人間だったんじゃないか?」
「アムピトリーテが肩入れしていた彼のことですか? あれは―― ああ、もしかして吸血鬼の話でしょうか。今はそう呼ぶのですね」
「吸……?」
首をひねるラフに、人魚も同じように首を傾げた。
「人間たちがやっていた、死んだ人間を使った研究の話ですよね? …… 大丈夫ですか?」
人魚の話を聞くや口を閉ざしてしまったラフを案じてか、テティスが言った。
「私、何か――」
「いや、霧魔は生きている人間がなるものだ。…… すまない、妙な話をしたな」
ラフは我に返って人魚に謝罪すると、再び口を開く。
「妙な話ついでに欲しいものがあるんだが、いいか」
「ええ。先ほど申し上げました通り、なんでもいたしますし、差し上げます」
淡々と無感情に返事をした人魚の前でラフはランドールらが集まっている場所を一瞥した後、
「人魚の鱗が欲しい」
と一息に言った。
「無理か?」
「いいえ。父から申しつかっていますので―― エウリュディケ」
テティスに促され、エウリュディケは自身の鱗を一枚剥ぎ取ってラフに手渡した。
「…… ありがとう。大事に使う」
ラフがエウリュディケの頭に手をのせ礼を言うと、人魚は一瞬驚いたような顔をしてみせた。
「では、私たちはこれで。このまままっすぐ進めば街道へ出られます」
街道を歩く道すがら、ラフは考え込んでいた。
死んだ竜。
魔物と化した人魚の姫。
アムピトリーテは、想い人の行方を知るやそうなったかに見えたが、仲間の人魚たちの言葉から推察するに魔物と化したのはもっと前だ。
ロジーナ座のヘラ。
ヨゼフの恋人ステラ。
彼らもきっと、長いこと人と魔の間を行き来していた。その意識を、おそらく人側に必死に保ちながら。
あの天使たちは何者なんだろうか。ツワブキ、スイセンなんて聖書でも見たことのない名だし、響きだっておそらくこの国のものではない。
この世界を統べる者、ではなくこの世界を見守る者……。
「おい、ラフ、どうすんだよ」
「…… どうって」
ふいに尋ねられてきょとんとしているとランドールが呆れたようにため息を吐いた。
「ベルのことだよ。落ちる直前にお前ができるだけ人集めて街道にいろって言うからてっきりベルもいるもんだと思ったのに」
「―― まあ、あいつなら放っといても死にゃあしないと思うけど、怪我でもしてたら次の仕事に支障が出るからな」
「お前って素直に心配とかできないの?」
ラフは苦々しく顔を歪めながら、
「ベルを回収しにいく」
と口にした。
「俺らも行くか?」
ドミニクの申し出に、ラフは「いや」と返しつつ装備を整えた。
「騎士がいたら集団だとかえって動きにくい。ひとりの方が楽だ」
「場所わかんのかよ」
「死んでなきゃな」
身を翻したラフの背にランドールが声をかけるが、ラフは片手を上げるのみで返した。
後ろから、唄う声が聴こえてくる。ひとたび耳を傾けてしまえば、たちまち心を奪われてしまいそうだった。
「…… 行くか」
ラフは、歩き出した。
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