第14話 人魚の子守唄①

(五)人魚の子守唄


 雨が降っている。この雨は昨日の晩から降り続けており、街の中心を流れる川も大変に荒れていた。

 ラフは目を開くと、心底不快そうに眉をひそめた。じっとりと汗ばむような湿気と雨音で、あまりよく眠れていない。頭をかきむしりながら体を起こすと、同衾していた相手も起き上がって背中にもたれてきた。

『もう行くから』

『こんな天気なのに? フケちゃえば?』

『無理』

 女を振り払いながら立ち上がり、ラフは手早く身支度を整えた。

『今日の日銭分くらい私が払うのに』

 ラフは部屋のドアに手をかけながら、はっと笑いとばした。

『悪趣味だな』



 街に出ると、雨のせいで一部冠水している道があるのか、騎士の姿がちらほらと見られた。道を通る者たちの中には、後ろめたいことでもあるのか顔を伏せたり路地に入り込んだりする者もいる。

 ラフは河辺に立った。橋の下では、濁った水が今にも溢れて街を侵食せんとしている。

『…………』

『やめてくんない?』

 ぼんやりと河の流れを見つめていると、横合いからそんな言葉が投げかけられた。あまりに唐突だったのでラフが顔を上げると、騎士の鎧で身を包んだ男が後ろに立っていた。

『いや、もし飛び込もうとしてるんならやめてくんないかなと思って。雨だし河は荒れてるし、死体探すのが大変だから』

 それは、自殺志願者を止める正義感溢れた騎士の姿ではおよそなかった。無気力なのとも、投げやりなのとも違って、またはその両方でもあるかのような、よどんだ瞳をラフはじっと見返す。

 それがなんだか妙におかしく思えてしまって、果てはふっと噴き出した。

『ははは、いや、確かにそうだ』

 そりゃそうだ、と笑い続けるラフを怪訝な顔で見てくる騎士に、ラフは続けた。

『じゃあ、今日は止めにしよう。騎士様の手を煩わせるのは本意じゃないしな』



 ―― 唇が冷たい。

 浮いたり沈んだりしていた意識のなか、ふいに訪れたひやりとした感覚にラフは目を開けた。

「あ、起きた。人間さん、ご機嫌はいかが?」

 眼前にあるむき出しの肌を、ラフは少しの間茫然と見つめてから視線を下に動かした。そこには水に濡れてきらめく鱗がある。人間のような上半身と、魚のような下半身は紛れもなく人魚と呼ばれるそれだ。

「全然起きないから心配したのよ。ねえ人間さん、あなたって大陸のひと? けっこう水を飲んでたみたいだから背中たくさん叩いちゃった。お空から人間が何人も降ってきた時にはびっくりしたわ。あっ、水は吐き出させたけど口と口を合わせたりなんてしてないから安心してね、ほら、人間と私たちって体温が違いすぎて人間の方が凍りついちゃうってよく言われてるじゃない? あ、それからね」

「人魚さん」

 息つく暇もなく話してくる人魚に、ラフが制止の意味を込めて呼ぶとかの種族はきょとんとした目で見つめ返した。

「私、人魚さんなんて名前じゃないわ」

「俺も人間さんなんて名前じゃない。意外かもしれないが」

 ラフは自身の身なりを確認しながら言った。服はあるが、腰に差していた短剣がない。海に落としたか。

「私アムピトリーテ。あなたは?」

「…… ラフ。俺はラフだ」

 ラフは一瞬言いよどんだのち、そう名乗った。

「なんだか発音しづらいわ。人間さんのままでいい?」

「…………」

「ねえ、どうして人間さんはお空から落ちてきたの?」

「話すと長くなる」

 奔放な性格らしい人魚に答えつつ、ラフはこれからどうするか思考を巡らせた。

「アロイシカの竜が死んだのと関係ある?」

「え?」

 人魚が半身を海の水につけたまま首を傾げて、ラフもまた眉根を寄せた。

「ほらちょうど、あなたが落ちてきた山―― ああ、今は別の名前で呼ばれてるのよね? 彼がいなくなったから海底じゃやれ鎮魂の儀式だなんだってつまんないったらないの。皆しんみりしてるわ。まあ私も悲しくないことはないけど。あの竜若かったし、勇者だか知らないけど討伐なんてされなきゃこんな――」

「アムピトリーテ」

 またしても話が止まらなくなってしまった人魚を遮るようにラフは言った。

「できれば山の麓へつながる街道へ出たいんだが、道を知らないか? 仲間と合流しなきゃならないんだ」

 アムピトリーテは話を遮られて不快に思ったふうもなく、視線を宙に巡らせた。

「それって、ちゃんとした道でなくてもいいの?」

「街道へ戻れさえすればなんでもいい。狭かろうが険しかろうが」

「ならあるわ。―― ちょっと待って」

 そう言うと、アムピトリーテは海の中へ戻っていった。水しぶきが残した波打つ水面を眺めるラフの視線の反対側から声がした。

「こっちよ」

 声の方へ行けばラフが身をかがめてようやく入れるくらいの小さな穴がある。洞窟のようで、ずっと先まで続いていそうだ。右端を川が流れている。

「ちょっと入り組んでるから、案内するわね」

「あ、いや――」

 それには及ばないとラフが断る隙もなくアムピトリーテは川を潜って先に行ってしまった。本当に海の中が暇なのか、それとも何か別の思惑があるのか――。勘ぐるラフに気づいているのかいないのか、アムピトリーテは奥の方からはやくとラフを呼んだ。

「暗いけど平気? 人間のひとたちって暗いとあんまり見えないでしょ。私たちは普段海の底にいるから慣れてるけど」

「ずいぶん詳しいな」

「まあねー」

 海の上のことにも、人間のことにもやけに詳しい気がして言うと人魚はあっけらかんと言った。

「ずっと海底にいる人の方が多いけど私は暇だし上の方が楽しいからよく来るわ。本当は人間と話しちゃいけないって掟で決まってるんだけど―― あっ、掟があるのも仲間以外に言ったら駄目なんだった」

「人間とはよく?」

「そんなに頻繁じゃないわ。そもそも人間たちって海にあんまり来ないし。ちょっと前に大きな船から落ちてきた人を助けたくらいね」

 話ながら進んでいる途中で、アムピトリーテがあっと声を上げた。行き止まりだ。大きな岩が崩れて通路を塞いでおり、通れないようになってしまっている。天使ツワブキが山を揺らしたのが原因だろうか?

 アムピトリーテは少し悩んで、水の中へ潜っていった。数分としないうちに戻ってきたかと思えば、

「ねえ、呼吸一時間くらい止められる?」

「無理」

 ラフが短く返すと、アムピトリーテはだよねえ、と岸に肘をついた。

「んー、どうしよ。もうすぐそこなのにな」

「ここ以外に道はないんだな?」

「ないよー、空が飛べれば別だけど」

 悩む人魚を横目にラフは周囲を調べることにした。

 夜目が利いてきたとはいえ暗いことには変わりないため、せいぜい大きな岩がそこに立ちはだかっていることと、そこが所々苔むしているということくらいしかわからない。火をつけて辺りを観察しようかとも思ったが、火に反応する魔物が集まってきたら厄介だ。ベルもいないうえに、ラフ一人でアムピトリーテを守りながら戦うのは相手によっては厳しい。ラフが下方をちらと見やると、同じようにこちらを見ていたアムピトリーテと目が合った。

「お役に立てなくてごめんね」

 さらりとした口調とは裏腹に、表情が先ほどよりも落ち込んでいるような気がしてラフはアムピトリーテの頭にぽんと手を置いた。

「十分助かってる」

 アムピトリーテに案内してもらわなければこの洞窟自体見つけられなかったであろうし、介抱してもらった相手を責めるつもりもないのでラフはそう返してから辺りの探索に戻った。と、後ろでアムピトリーテがふいに叫んだ。

「よくない! 軽々しくそういうの私よくないと思うよ人間さん!」

「は?」

「まあ、ちょっとならいいけど、すごくだめってわけじゃないけど、でもずっと待ってるひとがいるからなぁ私」

「いやなんの話――」

 その時、背後で何かが動く気配がしてラフは素早く振り返った。何か大きなものが、地面を這うような……。

「下がれ、アムピトリーテ!」

 大岩は、ぱらぱらと小石を落としながらラフの前に立ちはだかった。暗くてよく見えない。しかし、ラフが正面から単独で挑んでも勝ち目などないことは確かだ。どうする、と考えるラフへ向かって、巨漢が腕を勢いよく振り下ろしてきた。

「人間さん!」

 体躯に相当した太さと重みなのか、先ほどよりも大きな石が頭上から降ってきた。動きは鈍い。ラフはアムピトリーテ、とそばで心配そうな顔でこちらを見ていた人魚を呼んだ。

「その川は深いのか?」

「え、うん、それなりには……」

 アムピトリーテは戸惑いがちに答えた後、やがて得心したように笑みを浮かべ、自身は戦場から離れた。

「十分だと思うわ」

 ラフは微笑むと、詠唱もなく魔物の頭上に火を放った。蝙蝠が魔物に群がり、おろそかになった足元へ再び火を放てばたちまち地面が崩れ去る。大きな飛沫を上げて、巨体が水の中へ落ちていく。アムピトリーテが、行方を見届けるためか後を追っていった。

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