第13話 フェンリルの牙④
『うわ何? 何その顔?』
赤く腫れた同期の顔に驚いて言えば、キールストラがやや呆れたような笑みを浮かべながらマウラーの肩に手を置いた。
『いつもの喧嘩』
『ああ、フレーゲか』
よくやるな、と思いつつノルベルトはマウラーの顔をしげしげと眺めた。唇の端には血が滲んでいて、まあまあ激しくやりあったのだろう。それにしても、いつものこととはいえ小柄なマウラーに対して彼よりも頭ふたつ分は優に大きいフレーゲがここまでやるとは。流石にやりすぎなのではないかと思っていると、ちょうど医務室からフレーゲがシャルロッテと一緒に出てくるのが見えた。
『…………』
噂をすればなどと口にする間もなく、フレーゲの姿にノルベルトは言葉を失った。マウラーの倍、いや三倍はひどい。赤く腫れているどころか青痣になって、所々に引っ掻いた痕がある。
『発端は?』
いかに日頃から仲の悪い二人といえどここまでやりあうのは初めてだったので問うと、すぐさまマウラーが顔をしかめた。
『そいつが突っかかってきたに決まってるだろ』
『は?』
『ああ?』
純粋な疑問だったが、藪蛇だった。睨み合う二人を前に、ノルベルトは己の失態を恥じた。両隣ではキールストラが余計なことを、とでも言いたげな目で見てくる。
『もう、ふたりともいい加減にして。―― 睨み合うのも禁止!』
シャルロッテに間に入られて、マウラーが舌打ちしながらその場を去った。彼女に押されて、フレーゲも自室に戻っていく。
『何かあったのか?』
『何も』
『いつものヤツ』
フレーゲがシャルロッテに押されていった方向から入れ替わるようにしてやってきたヒルデガルドに、ノルベルトとキールストラが答えると彼女は得心したように頷き、それから呆れのため息を吐いた。
『まったく、仲良くしろとまでは言わないが、手が出るのはなんとかならないのか』
『女子ってあんま殴りあったりしないの?』
キールストラが素朴な疑問を呈して、ノルベルトはそんなことないだろ、と返した。
『下町の女たち普通にやりあってたよ。アイブラーなんか普通に男とも対等にやりあいそう』
『ああ、わかる。正直アイブラー相手なら男五人は欲しい』
『イエティくらいだったら素手で倒しそう』
『むしろイエティの方が逃げ――』
冷たい視線を感じて、二人は慌てて口を噤んだ。ヒルデガルドは冷淡な表情を変えないまま、二人に対して言った。
『…… 別に、事実に対して怒りはしない。一つ訂正するなら、イエティは先週の議会で天然保護対象として指定されたから倒すことはできない』
『あ、なる――』
『ただ己の身は守らねばならないから襲われそうになったらその場にいた役に立たない男を生贄にするくらいはするかもしれないが』
『ご、ごめんなさい』
『ゆるしてください』
淡々と言われた内容に慌てて男二人は謝るが、ヒルデガルドは変わらず冷たい視線を送ってくる。
『膝をついて赦しを乞え。人間に捕らえられて去勢された従順なフェンリルの声真似をしろ』
『ごめんだワン』
『ゆるしてワン』
もう、とシャルロッテは呆れたように、そしてほんの少し怒ったように頬を膨らませた。
『二人ってすぐヒルデちゃんのことそうやっていじめるよね。私何回もやめてって言ってるのに』
『ごめんごめん』
まったく悪びれた様子のない謝罪をするキールストラを一瞥してから、シャルロッテはノルベルトの方へ顔を向けた。
『伯爵にひどいこと言われたんでしょ? ヒルデちゃん、悩んでたんだからね』
『え、何、なんて言われたの』
『野良犬がうちの大事な娘に近寄るな、みたいなことをものすごく丁寧に言われた』
正直に答えると、キールストラはうわあ、と眉をひそめた。
『まあ、そりゃ夜な夜な悪い遊び教えてりゃあなあ……』
『私だってヒルデちゃんと夜遊びしたい……』
『いや遊んではないんだけど』
ていうか勝手についてきただけだし、と弁明してもなお、シャルロッテがじろりと睨んでくるので
『何がそんなに好きなんだよ、あいつの』
と聞けば、即答だった。
『優しいところ』
あまりにもまっすぐ目を見つめながら言われたのでノルベルトは思わず黙ってしまう。
『甘くて、脆くて、弱いから、必死にもがいてるとこ。だから、一緒にいたいって思うんだよ』
気づくとベッドの上だった。慣れた背中の感触に、宿舎に戻ってきたのだと知るや、ノルベルトは勢いよく起き上がった。荒い呼吸を整えながら、辺りを見回す。外は真っ暗で、部屋の中では同輩が数人、それぞれのベッドの上で眠っている。
ノルベルトは剣を片手に部屋を抜け出した。廊下をまっすぐ歩くと訓練場が目に入り、足を止めた。こぶしを握る。
…… 生きている。生かされている。―― なぜ?
後ろから聞こえてきた足音に、ノルベルトはすばやく振り返った。
「起きたのか、ノルベルト」
ヒルデガルドは、安心したように息をついて近づいてきた。
「…… シャルロッテたちのことは、ついさっき迎えにいけないかと申し出てきたところだ。吹雪にさらされたままではあまりにも可哀想だからな」
「―― へえ」
ノルベルトの口元には、無意識に嘲るような笑みが浮かんだ。
「お優しいことで。“ヒルデちゃん”は―― いや、用心深いのか。あいつらをちゃんと始末できたか、確認できてないもんな」
「な……」
ヒルデガルドは動揺し、少しの間言葉を失っていたがすぐに反論してきた。
「まさかお前まで私を疑っているのか、私は――」
「俺じゃないならほかにありえないだろ。キールストラが倒れる直前、俺は確かに剣を交わした。間違いない。騎士の剣だった」
「それは……」
「早く行けよ。俺のこと殺しそこねて、伯爵は怒ってんだろ」
「ノルベルト!」
踵を返したノルベルトの腕に、ヒルデガルドが取り付いてくる。
「本当なんだ、私は何も知らない。今、父に隠れて調べてるところなんだ、必ず真実を導き出すから、おねがいだ。お前に疑われるのはつらいんだ、なあ、ノル――」
ノルベルトは最後まで待たなかった。彼女の腕を振り払うと、ごめん、と小さな声で呟いた。
「今は誰のことも信じられない」
ひどい雨だった。視界すらも危うくさせるその光景は、つい先日の任務を思い出させた。
ノルベルトは眉をひそめた。雨で荒れ狂う河の上にかけられた橋に、男がひとり、どこか呆けた様子で立っている。ぼうっとしているためかそれとも雨音にすっかりまぎれてしまっているのか、男はノルベルトが近づいても気がつかない。
「やめてくんない?」
ノルベルトは声をかけた。
「いや、もし飛び込もうとしてるんならやめてくんないかなと思って」
するとようやく男はノルベルトに気がついたようで、雨に濡れた顔をこちらに向けた。雨水を滴らせるくすんだ金髪に、まさに今この時の雨空をそのまま映したような色の瞳はなかなかどうして官能的で、同時に寂しさをも感じさせた。彼に言い寄られたら世の中の大半の女性は、嫌な顔をしなさそうだ。
「…… 雨だし河は荒れてるし、死体探すのが大変だから」
続けて言うと男は一瞬呆けたような顔をした後、ふっと噴き出した。
「ははは、いや、確かにそうだ」
笑うと彼の顔は一転して少年のようになる。そりゃそうだ、と笑い続ける男をノルベルトは怪訝そうな顔をしながらも黙って見つめた。
「じゃあ、今日は止めにしよう。騎士様の手を煩わせるのは本意じゃないしな」
男は雨の中に消えていった。
ノルベルト=バウアーが騎士団を脱走したのは、それから間もなくのことだった。
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