第12話 フェンリルの牙③

「…… 下山しよう。なにか、悪いことが起こる前に。吹雪になれば本当にこの山から出られなくなる」

 ヒルデガルドが言って、キールストラがああ、と頷いた。

「俺もそれが良いと思う。…… フレーゲを呼んでくるよ」

「全員で行こう。一人にならない方がいい」

 そう言うと、ヒルデガルドは口を閉ざした。

「…… それから、悪いがシャルロッテを頼む。今はじっくり話し合っている時間もないし、あいつから確実に信用してもらえる証拠もない」

「今はまだ混乱してるんだろ。帰ったらちゃんと話してやれよ」

「ああ。…… すまない」

 らしくなくうなだれる彼女を前に、キールストラがひとつ息を吐いた。ノルベルトはシャルロッテの方へ歩いていくと、彼女を促した。

「バウアーはヒルデちゃんの様子、変だと思わない?」

「え?」

 不意に問いかけられたことに驚きつつも聞き返せば、シャルロッテは普段の彼女のイメージにそぐわない、自嘲的な笑みを浮かべた。

「思わないか。バウアー、ヒルデちゃんと仲良いもんね」

 冷たい風に乗って、どこかから甘い匂いが漂ってきた。何かがおかしい気がする。なにか…………

「―――― いや、お前ほどじゃないと思うけど……」

「フレーゲ、こっち来い」

 ヒルデガルドとともに前を歩いていたキールストラが声を張り上げ、崖の際にいた男を呼んだ。彼はどこかぼんやりとした様子で、熱に浮かされでもしているような顔で振り返った。体がこちらを向いた途端、四人とも息を呑んだ。シャルロッテが短く悲鳴を上げる。

「フレ…………」

 彼はもはや、意識すら朦朧としているようだった。左腕がもげ、顔の半分は血まみれで、耳も一部千切れていた。彼の足元では一面白銀だったはずの雪が、真赤に染まっている。

 誰かが彼の名をこぼすと同時に、男はゆっくりと崖下へと倒れていった。

「フレーゲ!」

 ヒルデガルドが我に返ったように叫びながら駆け寄った。崖下へと突っ込んでいきそうな勢いに、ノルベルトは急いで追いかけ彼女の腕をつかんだ。フレーゲはそのまま、音を立てて海の中へ吸い込まれていった。

 なかば呆然としながらそれを見つめる後ろで、シャルロッテがうっとえずく声がした。足元に目をやると、銀色の毛の塊がある。さっき追われたのより二回りほど小さいが、確かにフェンリルの子どもだ。

「…… 死んでるな。相討ちになったのか」

 キールストラが屈んで見分しながら言った。中身がいくらか飛び出していて、あまり見られたものではない。

「―― ん……?」

 隣に屈んで肉塊を調べるノルベルトの手に、硬い木板のようなものが触れた。先端には紐が括り付けられているそれには見覚えがある。

「通行証……?」

 背後から見ていたヒルデガルドが呟いた。血で汚れてはいるが、それは確かに、外部の人間―― 例えば商人などの、定期的に城へ入る必要がある者へ持たされる通行証だった。表面の汚れを指で拭うと、断片的にだが持ち主の名前が読み取れる。

「ヴィ…… ル、ダー…………」

「ヴィルダー教授の物か?」

「じゃあ教授は――」

 四人は黙った。天気は荒れ始め、周囲の状況も見えづらくなってきた。火など到底起こせそうもなく、近くにさっきのような洞穴もない。

「…… 少し前に」

「アッセル言うな!」

 口元を吐瀉物で濡らしたまま話し始めたシャルロッテを、キールストラが鋭く制した。それに構わず、シャルロッテは続けていく。

「マウラーとフレーゲが喧嘩したの。私とキールストラが仲裁した。でも余計に騒ぎが大きくなっちゃって」

 知っている。食堂での騒ぎだったので、騎士で知らない者はいない。

「結局四人とも罰を受けることになって、資料室の整理をした。…… その時、普段は入るなって言われてる奥の部屋に入ったの。最初に入ったのはあの二人だったけど、私もキールストラも止めなかった。そこで何を見たのか、ヒルデちゃんならわざわざ説明しなくてもわかってるよね」

 吹雪の勢いが増した。互いの顔が、より一層見えにくくなる。

「…… シャルロッテ。何度も言うが、私は何もしてないし、父や上官に何も言われていない。お前たちと同じように、ここへ来て、先遣隊のフォローにあたるように言われて来ただけだ」

「信じられるわけない。そんなこと。―― ヒルデちゃんは、お父さんのこと嫌いになれないもんね。フェンリル退治のついでに、組織の機密を知った扱いにくい、組織に従順じゃない奴らを始末しようって、そういう筋書きなんでしょ?」

 淡々と話すシャルロッテの前で、ヒルデガルドは違う、と否定した。

「本当に知らないんだ! シャルロッテ、頼むから私の話を……」

「私だって信じたいよ! 信じてたよ! ヒルデちゃんだけは味方でいてくれるって思ってた! でも違った! だって……」

「アッセル!」

 それは、制止ではなく警告だった。

 皮膚のひりつくような感覚に、ノルベルトは反射的に剣を引き抜いた。シャルロッテへと振り下ろされようかとしたものとノルベルトの剣が音を立てて組み合わさる。

(―― 剣?)

 それも、ノルベルトの―― ノルベルトたち騎士の持つ剣と、ちょうど同じような。馬鹿な、と頭の中で否定しつつもノルベルトの脳裏に嫌な考えが思い浮かぶ。それを打ち消そうにも、先ほどにもまして強く吹き付け始めた雪のせいで視界は判然としない。

「―― くっ」

 見失った。闇雲に振り回せば、仲間に当たりかねない。ノルベルトが一度剣を下げたその時だった。

 嫌な音がした。肉を切る音。どう、と体が雪に沈む。彼の体の下では、シャルロッテが呆然とそれを見ていた。

「あ…………」

 そして、なにが起きたのかを理解するや否や、彼女は発狂した。

(まさか、本当にいるのか?)

 マウラーの言っていた、裏切り者とやらが。

 ノルベルトの心臓が、寒さに見合わない速さでどくどくと脈打つ。だって、本当にいるとして。フェンリルにやられたマウラーやフレーゲはもちろん違う。たった今何者かに、それも剣でやられたキールストラも、彼にかばわれその下敷きになったシャルロッテも。そうなると、もう……。

「―― っ」

 深く考えるのは後だ。ノルベルトは狂ったように叫び続けるシャルロッテの腕を無理矢理につかんだ。同時に、反対側の腕を誰かがつかんでいた。その顔を見て、ノルベルトは目を見開く。向こうも同じことを思ったのか、彼女の方も一瞬驚いたような顔をする。が、シャルロッテの方に意識を向け、自ら動く様子がないことに痺れを切らしたのか、舌打ちしたのち手刀で彼女の首を打った。くたりと力を失った。

「…… 俺が」

 担ぐよと手を差し伸べるも、無言で親友を背負い込むヒルデガルドに、ノルベルトもまた黙って従うことにした。せめて、背負われたシャルロッテの背中を落ちないように後ろから支えておく。ヒルデガルドは、キールストラに目をやってからためらうように進みだした。

 一刻も早く下山しなければとは思うも、先ほどの何倍も威力を増した吹雪と、足元に重なっていく雪に思うように足が進まない。

 と、聞こえてくる不穏な音の響きに、二人は足を止めた。その、不穏かつ獰猛な鳴き声は、いくつかの方向から聞こえてくる。囲まれている。

「…… さっきの奴の親かもしれない」

 呟くと、ヒルデガルドがああ、と低く頷いた。

 急いで抜けようと頷きあって歩を進めるも、雪に足を取られてうまく進めない。対してフェンリルたちは、確実にこちらへ近づいてくる。吹雪の勢いもこれ以上ないほどかと思われた先ほどから、一層増してきている。もうほとんど先が見えない。

(―― え?)

 シャルロッテを背負う役を代わろうかとノルベルトが手を伸ばした、その瞬間だった。体を押された。それはけして強い力ではなかったが、思わぬ方向から、ふいにもたらされたものだったので。

「シャルロッテ!」

 足元が滑る。地面が、フェンリルの牙が、仲間が、遠のく。ノルベルトは、そこで意識を手放した。

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