第10話 フェンリルの牙①

(四)フェンリルの牙


「じゃあね、ノルベルト兄ちゃん!」「また遊んでよ!」

 赤かった空が少しずつ紺色へと変わろうとする頃、ノルベルトは夕陽を背に子どもたちに手を振った。彼らがそれぞれの家へと入るのを見届けてから騎士団の宿舎へ向かう。正門からは入らず、人気のない脇道に入り込み高い塀を難なく乗り越えたところで、ノルベルトは「げっ」と苦々しく顔を歪ませた。

「ノルベルト=バウアー。宿舎の門限を知らせる鐘はとっくに鳴り終わったはずだが?」

 塀の向こうで仁王立ちをする女、ヒルデガルド=アイブラーの姿にノルベルトは思わず視線をさまよわせる。

「あー…… ちょっと、急用?」

「こんな時間まで下町の子どもと遊ぶのがか」

「なんだ。知ってんのか」

 塀にまたがったまま呑気に言う男に、ヒルデガルドはわなわなとこぶしを震わせた。

「昼間巡回に出た時、宿の女将に聞いた。いいか、市民との交流は当然悪いことではない。しかし、本来与えられた仕事がおろそかになっては―― おい、聞いているのか」

 話の途中にもかかわらずよそ見をしている男を呼べば、彼はどういうわけか塀の向こうへ戻っていってしまう。

「おい――」

 もう門限だと言っているのにふらふらと歩いていく姿に渋面を作りつつ後を追う。ノルベルトが歩み寄ったすぐそばには、老婦人が買い物をしたあとなのかいくつかの紙袋を抱えている。その中のひとつが破れてしまったらしくノルベルトは一緒になって中身を拾ってやっていた。

「………… ノルベルト、半分貸せ。私も持つ」

 ヒルデガルドは少し悩んだ後、自らも紙袋を抱えて女性の家まで運んだ。

「どうもありがとう。助かりました。―― あら?」

 女性は荷物を置いたヒルデガルドを見て、ふと小首を傾げた。

「ごめんなさい、あなた、どこかでお会いしたかしら?」

「先々月の末に城で行われた、舞踏会で。私、アイブラーの娘のヒルデガルドです」

「ああ、そうだったのね。伯爵には夫がとてもお世話になって……。お父様によろしくお伝えくださいね」

「いえ、こちらこそ。教授には大変助けられていると父が申しておりました。―― ですが、その……」

 途中でヒルデガルドが口ごもると、夫人は察したのかいいのよ、と答えた。

「行方不明だなんだって、大げさなの。この前も三か月も経ってからけろっと帰ってきたんだもの。今回もそうだと思うわ」

 部屋のどこかからなにか、花のような甘い香りと香草のような爽やかな香りがする。

 何の匂いだろうかと首を傾げるノルベルトのすぐそばで、ばたばたと何かが落ちる音がした。振り返ると本が雪崩を起こしたようで、奥の部屋の薄く開いた扉の隙間から何冊かはみ出して見えた。無意識にノルベルトが本に手を伸ばすと、

「その部屋に入らないで!」

 つい先ほどまで穏やかだった夫人からは想像もつかない激しい声での拒否に、ノルベルトだけでなくヒルデガルドも驚いて目を見開いた。夫人は二人の反応に焦ったように、

「あ……、大きな声を出してごめんなさい。その部屋、夫の書斎なのよ。あの人そこを他人に触られるのがすごく嫌みたいで、私でも時々怒られるのよ。私があとで閉めておくから、そのままにしておいてちょうだいな」

と口にした。



「城で魔物の研究をしてらっしゃるヴィルダー教授の奥方様だよ」

 宿舎に戻ってからそれとなく尋ねると、ヒルデガルドはあっさりと教えてくれた。

「ひと月ほど前に現地調査に行ったきりまだ帰ってこない。小隊を捜索に向かわせたと聞くから、じきに戻ってくるとは思うんだが」

 そうは言いつつもヒルデガルドは不安そうな表情で唇を噛みしめた。彼女らしくない。

「お、どこにしけこんでたんだよ、凸凹コンビ」

 ノルベルトが問いかけようとするのと同時に同期の騎士がやってきて言った。

「なんか、教官がお前らのこと探してたぞ」



 ノルベルトとヒルデガルドを含めた六人は、とある雪原のそばにある村に到着した。指定された場所に馬を停め、ノルベルトはあらためて集められたメンバーを見た。

 短髪で、ノルベルト以上に大柄の男、ローマン=フレーゲ。

 男としては長く無造作に伸ばした髪を、上官に注意されない限りはそのままにしているのは、リヒャルト=キールストラ。

 小柄だが、隙のない佇まいで人を簡単には寄せ付けない雰囲気を醸す男の名は、マルセル=マウラー。

 そして最後に馬を停めた、シャルロッテ=アッセル。

 騎士団の中でも一割に満たない女性騎士のうちのひとりで、加えて騎士の中でも少数の平民の出だ。他のものは下級貴族の子息か、少なくとも裕福な商家の子どもであったが、シャルロッテはそのいずれでもなかった。

 対してヒルデガルドは古くから王室に仕える伯爵家の娘で、女同士であることを差し引いても育ちも何もかも違うヒルデガルドとシャルロッテが親友同士であるということには、誰も彼もが首をひねるばかりであった。

 シャルロッテは、ヒルデガルドの姿を認めるとすぐににっこりと微笑んでみせた。ヒルデガルドはそれに対し嬉しそうな顔をしつつも頷いてみせ、それから自分以外の五人を順に見ていった。

「全員そろっているな。では、これより任務の説明をする」

 言って、彼女は団服の内ポケットから折りたたんだ紙を取り出した。

「これから向かうのはこの先の雪原のさらに奥、フェンリルが棲まうとされる洞穴だ。このごろ近隣の住民を襲うという情報があったので、対処することとなった。対応するのは今ここにいる六人に加えて、先に向かった第六小隊と合流する。皆わかっているとは思うが、フェンリルは魔物の中でも特に凶暴なうえに、冬には彼らが繁殖期を迎えることを加味して慎重に対処すること。特に気をつけてほしいのは、フェンリルの牙。万が一噛まれたりなどした場合は迅速かつ正確な対処をすること」

 ヒルデガルドは一気に話してから顔を上げた。

「ここまでで何か質問は? ―― ないな」

 行くぞ、というヒルデガルドの声とともに、六人は村の先にある雪原へと向かった。それまでもはらはらと降り続けていた粉雪は、少し進んだところで吹雪へと変わった。ほとんど前が見えない中でたどり着いた洞穴へ入っていくと、シャルロッテが不安そうな表情のまま口を開いた。

「誰もいない……。ここで小隊の人たちと合流するはずだったんだよね」

 振り返り確認すれば、ヒルデガルドがああ、と頷いた。ノルベルトも洞穴の中をざっと見回すが、誰かがいたような形跡はない。

「もう少し待ってみよう。この吹雪だ、どこか別のところで待機しているのかもしれないし、こちらも吹雪の中を移動するのは危険だ」

 ヒルデガルドが言う後ろで、誰かがはっと笑った。五人が一斉に最後尾を振り返ると、男―― マルセル=マウラーは唇に浮かべた笑みを一層濃くした。

「待ってみよう、ね……。果たして本当に来るのかね」

「…… どういう意味だ」

 マウラーの言葉に眉をひそめたヒルデガルドが尋ねると、彼は続けた。

「いや、そもそも来てるのか? そこから怪しい話だと思うね、俺は。―― なあ、この中にいる裏切り者さん」

 ある者は息を呑み、ある者は信じられないという顔でマウラーを呆然と見つめ、またある者は仲間たちの顔を見た。と、同じように顔を上げたノルベルトとヒルデガルドの目が合う。しかし、ヒルデガルドはすぐに目を逸らしてしまった。

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