第9話 竜の巣③


 かの竜が生まれたのはおよそ二百年前、この山の頂上でのことだった。当時勃発していた魔王大戦では、彼の親竜は魔王軍に属していた。勇者に討たれ、必死の思いで落とした逆鱗。それが彼だった。

「意外だな。ツワブキがこの世界の生き物を気にするなんて」

 スイセンが言うと、ツワブキはふいとそっぽを向いた。

「人間なんぞに肩入れする誰かよりはましだ」

 ひどいな、とスイセンは苦笑しながら泉の中にたった一片、浮かぶ鱗を見つめた。

「楽しみ? 育つのが」

「楽しみになど、する間もなかろう。たった数百年の命だ」

「わざわざ戦場から拾ってきたくせに?」

「うるさい」

 からかいすぎたのが悪かったのか、ツワブキはそう言うと地中に体を沈めていってしまった。水中に入って追いかけようかと思ったが、やめておく。

 逆鱗は、真夏の空の色をしていた。彼の親とそっくり同じ色だ。もっと大きく育てば、より鮮やかに変わって、空を美しく舞うのだろう。

「早咲きの菫の色だな」

 ツワブキがそうつぶやいたので、古代語からあやかってイオンと呼ぶようになった。彼が大きくならないうちから、何人もの人間が現れては巣を荒らしていった。

 雨が降っていた。竜は逆鱗だったころとは比べ物にならないほど大きく成長していた。

 竜の尋常でない叫び声にツワブキとスイセンは地上に降り立った。金属が地面を擦る音が聞こえてくる。竜がいる、頂上の方ではない。もっと麓の方だった。

「―― 人間か?」

「うん。まだ子どもみたいだけど」

 気配を察してツワブキが地中から尋ねると、水面からそんな声が聞こえてきた。

「子どものわりには、ずいぶん大きい剣を持って……」

 スイセンは麓の様子を見るや、はっと目を見開いた。ツワブキの動きは早かった。相対する竜と子どもの間に入ると、竜を守るように前に立った。双方血と泥にまみれ、子どもの方はうつろな目をしていて、焦点が定まっていない。しかしその手には体に見合わない大剣がぶら下がっている。子どもが何の目的で傷つき、また傷つけたのか明白と思ったのか、ツワブキは厳しく子どもを睨みつけた。

「ツワブキ、待って」

 スイセンが制止するとともに、子どもの体がぐらりと傾いだ。水溜まりによって受け止められた体は擦り傷や切り傷だらけで、およそただ事ではない様子がうかがえた。

「可哀想に。こんなに小さい体で……」

「可哀想だと?」

 子どものそばにしゃがみこみながらスイセンが言うと、ツワブキは眉根を寄せた。

「愚かの間違いだろう。可哀想なのは人間たちの私欲でこんな目に遭う彼らの方だ」

「そうかもしれないけど…… でも、この子だってきっと噂を聞いて藁にもすがるような気持ちで必死の思いでここまで来たんだよ、たった一人で……。じゃなきゃ、こんなにやつれたりしないもの。―― この子、せめて頂上の泉の近くで休ませてあげたら駄目かな。あそこの泉は魔力の質がいいから少しでも休めば良くなるかも」

「…… 勝手にしろ。俺はイオンの手当てをしたら上に戻る」

 突き放すようではあったが一応は許可を得られたことにほっとしつつスイセンは子どもを頂上へと連れていった。ひととおり体の汚れを落とすと、少女だったことが判明する。黒いと思っていた髪は、赤みのある茶色をしていた。少女を泉のほとりに寝かせてから、スイセンも泉の中へ身を沈め眠りについた。

 翌朝、スイセンは周りの騒がしい音で目が覚めた。地上に出ると、騎士たちが竜を囲んでいる。スイセンが慌てて周囲を探すと、少女は眠った状態のまま騎士に保護されていた。昨夜よりは幾分よくなっていようが大きな怪我は目立ったままで、何が原因でそうなったか、人間たちの目から見れば明白だった。騎士たちは竜を囲み、弓をつがえ、術士を何人も控えさせている。

「ツワブキ! 来て、ツワブキっ!」

 頭が真っ白になる。昨日の判断が間違いだった? 気まぐれに人間なんかに情けをかけたから?

 見るからに満身創痍の竜の姿を見てなお、攻撃の手を緩める様子のない騎士たちの前へ、スイセンが今まさに飛び出そうとした時であった。竜の、イオンの周りの地面が突然ぼこりと隆起した。

「―― 待って、やめて! ツワブキ駄目だ!」

 かと思えば、大地はひび割れ、たちまち人間らを吞み込もうと口を開けた。騎士は、人間たちはみな、抗うことすらできないまま奈落の底へと落ちていく。スイセンはそれを、ただ呆然と見ていることしかできなかった。



「その時の怪我が原因でね。竜は本来ならあと数百年は生きられるはずだけど、イオンはもう、意識もあまりはっきりしていないみたいなんだ」

 穏やかな口調とは裏腹に、スイセンは水の縄で二人を強く締め上げた。

「だから、帰って、と言っている。ツワブキは怒ると怖くてね。僕一人じゃきっとどうにもできない。君にならわかるだろ? 僕の、このどこへ向けようもない気持ちが」

「…………」

 体を拘束されたまま、ランドールは黙り込んだ。

「それに、このままだと……」

「そこで何をしてる!」

 ジークリンデが鋭く叫ぶと、ランドールとドミニクは水の拘束から解放された。

「ランド!」

 ドミニクの声と同時に、二人は茂みの奥へと逃げ込んだ。

「あいつらは?」「上だ」

 頷きあって頂上へ足を向けた途端、竜の悲鳴が響き渡り、続いて空が一瞬力強く瞬いた。それからドン、と音がして水がランドールやドミニクの、そして山全体に降り注いだ。

「―― 雨? さっきの天使か?」

 ランドールが言うと、横でドミニクがいやと顔をぬぐいながら言った。

「これ、海水だぞ」

 そんなやりとりをするうち上から降り注ぐ水は止み、ふいに翳りはじめた空がゴロゴロと音を立てた。海が荒れるような音も聞こえてくる。

 それは、あまりにも突然だった。



「なんなんだ、これは……。竜はさっき死んだんじゃないのか」

「死んださ」

 目の前の光景に呆然としながらラフが呟くと、天使はそう返した。

「鳴らしているのは人魚たちだ。竜が死ぬと、ああして鳴き声を真似して海を荒らすんだ」

 やはり知らなかったか、とツワブキは嘆息しつつ言った。

「だから去れと再三申したというのに…… まあ、いい。いっそこれだけ多ければ奴も返ってやり易かろう」

「は?」

 それは、完全に不意打ちだった。つい先ほどのように、地面が滑り出す。降り注いだ水のせいで、抵抗がさっき以上に意味をなさない。海へ落ちる、と思ったその瞬間に腕を掴まれる。反射的に見上げて、そこにあった顔にラフは目を見開く。

「―― お前……」

 横を見れば、ベルの方はドミニクが掴まえている。

「よせ、落ちたいのか」

「カナヅチ野郎が死ぬとこ黙って見てるような冷徹人間じゃねえんだよ、俺は」

 そうは言いつつも、互いの手は濡れて滑り、ランドールの手は限界のようだった。

「…… ランド。――――、…………」

 ランドールが一瞬怯んだ隙に、ラフは手を振り払った。ほとんど同じタイミングで、ドミニクの手がベルから離れる。そして、ベルとラフの体は荒れ狂う海の中へ落ちていった。

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