12.言えないまま
「叶依ー、クラブ行くでー!」
放課後に現れた珠里亜は叫んだが、叶依は今日は帰ると言った。
「なんでー? クラブ行こうよ!」
「あかん、今日約束したから」
「ええええーっ。あかーんクラブー」
その会話を遠くから聞いていた海帆も、叶依がクラブに行かない理由を聞いてきた。
「だって今日……あの人来るから」
「あの人? 誰よ?」
「誰よって……スカウト」
「えーっ、叶依、決めたん?」
あれほど嫌だと言っていたのに、叶依は気付けばそうなっていた。史に助けられてから緑が叶依を待っていることはなくなったが、そのまま普通に生活を続けて良いのか、ずっと考えていた。自分でしばらく考えて、出した答えがそれだった。
「ていうことやから、じゃまた明日!」
「って、どーゆーことよー叶依ーっ!」
海帆と珠里亜が叶依を呼んでも、叶依は振り返らずにさっさと帰ってしまっていた。その日のうちに叶依はZippin‘Soundsと契約したらしく、しばらくクラブには出なかった。けれどそれは海帆にしか伝えられておらず、誰かが叶依の欠席を気にしても、海帆は何も言わなかった。それは叶依からの要望で、それぞれには折を見て話すと言っていた。
学期末の球技大会で伸尋が倒れたのは、ただの疲労ではなかった。知らないところで別の何かが働いて、伸尋が気付く由はなかった。伸尋の分身とも言えるものが見えない場所で光り輝き、それが実力以上の力を出したせいだった。伸尋は数時間後に目を覚ましたが、何かが輝くのを知っているのは彼ではなかった。
保健室の天井は水色のカーテンで小さく区切られ、見えるものは蛍光灯と時計だけだった。何も考えずにただ時の経過を待ち、あるときふと、誰かに会いたいと思った。
コンコン――カチャ
保健室のドアが開けられる音がした。伸尋は一つの可能性を考え、願いは叶わなかった。
「伸尋ー。大丈夫かー?」
やってきたは伸尋の予想通り、しかし期待はずれの史だった。
「うん……もうホームルーム終わったん?」
「さっき終わったとこ。みんなおまえの心配してるで。特にあいつが」
「え? あいつって……」
史は笑った。
「悪いな。あいつじゃなくて。あいつも忙しいからよ」
伸尋は何も言わなかった。
(あいつって……叶依……か?)
「あいつ、明日の準備で知原んとこ行ってたからさぁ。おまえ明日行くんか?」
「……明日って何?」
ベッドから体を起こして伸尋は聞いた。
「明日ホールでサマーコンサートあるやん。あれで全部終わった後にシメで叶依一人でやんねんて。おまえ知らんかった?」
「知らん……」
伸尋は首を横に振った。コーラス部が出るというのは思い出したが、叶依が大トリをするというのは知らなかった。
「そうかおまえ、あいつと知りあったん今年やからなぁ。俺、去年も同じクラスやったからちょっと聞いててんけどな……もうすぐZippin' SoundsからCD出してデビューするらしいで」
叶依のデビューが伸尋に伝わったのは、それが最初だった。史には早くに伝わっていたのに伸尋に伝わらなかったのはどうしてだろうか。
伸尋を連れて教室に戻った史は、すぐにクラブに行ってしまった。教室で出会った采も、やはりクラブへ飛んでいった。独り残された伸尋は帰り支度をしていた。友人が誰もいないのがかなり辛かった。
そこへ叶依が現れて、一緒に帰ることになってしまった。いや、伸尋は叶依と帰りたかった。そして叶依に自分の気持ちをわかってもらいたかったのに、叶依は何も気付いていなかった。叶依にとって伸尋は、単なる友人にすぎないようだ。学校を出て二人の家は反対方向になるが、伸尋は叶依を送って一緒にいる時間を増やした。なのに結局何も言えず、頑張っても叶依にはわかってもらえず、寮の前に着いたとき、叶依は普通に手を振った。
「あっ、叶依、あのさ──」
「ん? なに?」
「いや、……何でもない」
「何よー言いよーっ。自分から言っといて」
「いいから──ほんま。明日頑張れよ」
「もーっ、後悔しても知らんで、何か知らんけど」
言おうと思ったのに、言えなかった。いつの間にか史と海帆がくっついた、それも言おうと思ったのに、言えなかった。そのことを叶依が知っているのかはわからないが、とにかくどうにかして言いたかったのに、叶依は翌日に控えたコンサートの練習をすると言って、寮に入っていってしまった。
いつか史に、『叶依は鋭いが忙しいと鈍感になる』と聞いたことがあった。確かに史が海帆や叶依、それから采と遊んだときは全く忙しくなかったので鋭かったが、今はコンサートやデビューを控えてかなり忙しい時期に当たっていた。それに加えクラブの部長に毎日の家事とくると、これから先、叶依が自由時間をもてる日はほとんどない。
──おまえ、アホか?
夜、史から電話があって、帰りのことを伝えるとちょっと怒られた。
成績と運動神経は自信があるが、それ以外に関して自分は馬鹿だ、伸尋はわかっていた。わかっているのに変えられない、変えられないでチャンスを逃す、そんな自分が嫌いだった。
それからしばらく休暇があって、次に伸尋が叶依と顔を合わせたのは一学期の終業式だった。既に叶依はデビュー済みで、校内には巨大ポスターが至るところに貼られていた。
式が終わって放課後、伸尋は教室でいつものメンバーと話をしていたが、それはあまり好ましいものではなかった。叶依がコンサートをした日に大川緑が来て、『OCEAN TREEが叶依に会いたがっている』と言った。その話になっていて、伸尋は会話に入れなかった、というより、入りたくなかった。叶依のギターが上手いのは認めるしギターデュオのOCEAN TREEが叶依に会いたがるのも理解できるが、叶依がOCEAN TREEの一ファンだと知っている伸尋は、出来れば会わないでほしかった。
夏休み一日目には伸尋のバスケの試合があって、それには叶依と海帆、それから史が見に来ていた。それはもちろん史と海帆が『叶依を伸尋の気持ちに気付かせよう』として誘ったが、海帆がそれを言うまで、やはり叶依は気付いていなかった。
その帰り道にまた大川緑がいて、叶依がOCEAN TREEと会う日が決まったと言ったのは、叶依のマネージャー、塚本瑞穂だった。その場にいなかった伸尋には史が電話してきたが、何故か焦っていないことを伸尋は自分でもわかっていた。
──やっぱおまえ、アホやで。
「ほっといてくれよ。おまえ関係ないやろ」
──なんで焦らんねん? 自分のことやぞ。
「決まったって、十二月やろ? まだまだやん」
──お前なぁ……ほんま……何つーか……。
伸尋のその余裕がどこから出てくるのか、史は全くわからなかった。叶依がOCEAN TREEと三人で会うのは十二月だと聞いたが、その前に他の仕事で偶然会うことも否定できず、それが明日だということも考えられるのだ。
「それくらいわかるけど、俺も忙しいし……」
──なぁ、もう言えよ。すっきりすんで。叶依には海帆が言ってたし。
「は? 何て? 何言ったん?」
──何をって、おまえが叶依のこと好きやって言ってたで。後半始まってすぐ。
「嘘やろ……で、叶依……何て?」
──別に何も。『好きにはなってない』言うとったけど。
試合が終わったのはその後で、ぐったりしている伸尋のところに叶依が来た。その時はもう、叶依は知っていたのだ。横に座っていたのに何も言えず、別れ際に呼びとめたのに何も言えず、そのまま夜を迎えてしまった。
史との電話を切ってから、伸尋は大きなため息をついた。そして無意識に拳で壁を叩いたその音は階下にいる祖父母にも聞こえ、祖母のタヱ子は何事かと部屋までやって来た。もちろん伸尋は何でもないと笑ったが、伸尋が叶依と出会い、そしてその関係で躓いていることを、祖父母はどこかで理解していた。
ひとつ屋根の下で暮らしている祖父母とは血の繋がりがないことを、伸尋はまだ知らなかった。
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