9.自転車で

 放課後になるまで気づかなかったが、実は史も同じクラスだった。廊下で海帆と喋っていたら彼がやって来て、若崎伸尋とは小学校から一緒だと言っていた。前に遊びに行ったときにクラブで来なかったのは、伸尋だったらしい。彼は本当にすごい人で、采や史と一緒になれば学年一くらいの目立った集団になるだろうと叶依は思った。

 やがて時織と夜宵、それから珠里亜も現れて、時織が「若崎はライオンと呼ばれている」と言っていた。なぜか時織と夜宵は伸尋の顔だけ知っていて、良い人らしいという噂だった。けれど先ほどの教室でのことを考えると、叶依はどうしても引っかかった。

「はぁ……なーんか……忙しいわ」

「そういえば叶依、昨日またスカウト来たんやろ?」

 四月一日に都内で開かれていたアマチュアコンテストに出場した叶依は、また別のスカウトに出会った。これまでに出会った人たちと同じように叶依は断ったが、今回の人はまた来ると言って翌日に叶依の寮までやって来た。叶依がただ出場しただけなら来なかったかもしれないが、優勝したために来られてしまったようだ。

「良いって言ってんのに……しつこい」

「叶依、嫌なん?」

 聞いたのは夜宵だった。

「嫌って言うか……時間なくなりそうやん」

「でもさぁ、良いやん。やってみたら?」

 友人たちはみんなそう言うが、叶依には本当に時間がない。昨年末からはクラブの部長にもなって仕事も増え、更にそこに音楽の仕事が入るとどうなるのか、考えたくもなかった。それを言うとスカウトは「学校がある間は勉強の邪魔にならない程度で良い」と言っていたが、そもそも叶依は自分がどうしてギターをしているのかもイマイチわかっていなかった。

「どこのスカウトなん?」

「ジッピン。Zippin‘Sounds。OCEAN TREEのところ」

「えーめっちゃ良いやん。やりーよやってみたら?

 確かにOCEAN TREEは人気があるが、他には何もなかった。彼らに会う可能性は高まるが、叶依にとっては自分で自由に使える時間がなくなるマイナス面のほうが大きく感じられ、そこに入って行く気にはなれなかった。


 正門を出て四人と分かれて叶依は一人になり、そこから寮までは近かった。

「叶依ちゃーん」

 誰かに呼ばれたのであたりを見回すと、知っている顔があった。嫌いではないが好きでもない。会いたくないことはないが望んで会いたくもない。予想はしていたが外れてほしかった。叶依を呼んだのは大川緑、Zippin‘のスカウトだった。

「大川さん……こんにちは」

 コンテストの日から毎日、叶依は大川緑に会っていた。叶依は初日に断っていたのに、それでも緑は毎日会いに来た。そこまでして叶依を手に入れたいのだろうか。考えると、ちょっと恐かった。

 叶依はそのまま寮に入ろうとしたが、

「考えてくれた?」

 緑は笑っていた。叶依に契約してもらう事を望んでいた。

「だからそれは──」

 何回も断った。それは緑もわかっているはずだ。何回来ても追い返していたのに、まだわからないのか。確かに叶依はギターが上手いのかもしれない。けれどそれは趣味でしかなく、仕事にしようと思ったことはない。

「帰ってください」

「決めてくれたら帰るわ。サインしてくれたら」

 あまりに強引すぎる緑に、叶依は腹が立ってきた。すぐに諦めてくれれば考え直しても良いが、そう言われるとサインする気になれるはずがない。無視してこのまま部屋に入っても緑が追って来ることはわかっていた。学校に引き返しても行く場所がなく、かと言って綾子のところに行っても仕方がない。

 そのとき、

「あっ、叶依っ、ちょっと来い!」

 何故か史が超スピードで自転車をこいでやって来た。何があったのかはわからないが、すごい顔をしている。叶依の友人の身に何かあったのだろうか。

「えっ、来いって、何?」

「いいから乗れ、早く! あ、すみません、こいつ連れてきます! 早く乗れ!」

「ちょ……何よ? って、あーっ!」

 叶依がちゃんと乗る前に史は再びこぎ始め、叶依は彼につかまっているしかなかった。


 自転車の後ろに叶依を乗せた史はしばらく街中を走っていたが、叶依は落ちないように必死だったのでどこを走っているのかはわからなかった。ただわかるのは人が歩いているということだけで、それが誰なのかは全くわからない。

「ふ、史、どこ……うえっ」

 史が急ブレーキを掛けて止まったので叶依は顔を打ってしまった。

「何よ急に……イッタ……」

 自転車から降りて顔をあげると、そこは公園だった。

「おまえ、助けてもらって感謝しろよ」

「え?」

「叶依、またスカウトおったん?」

「えっ、海帆? 何してんの?」

「何って、さっき珠里亜たちと分かれたら史おって、叶依の話してたんやん。それで毎日スカウト来て困ってるって言ったら、史、ちょっと様子みてくるって……」

「行ったらほんまに困ってるからビックリしたわ」

「あ……そうなんや……ありがとう」

 本気で嬉しかった。史は緑に怒ってすごい顔になっていたらしい。

「でも、帰られへん……」

「今日うち泊まり。あとで寮母さんとこ行って荷物もらって来るから」

 その日、叶依は海帆の家に泊まることにした。寮の前に緑がいるかいないかは、史が帰りに確認してそれから連絡をくれると言っていた。しばらく三人で喋ってからまず史が帰り、叶依と海帆は海帆の家に行った。史に連絡をもらったときはまだ緑がいたらしいが、彼女は海帆を知らないので問題はないだろうと史が言った。

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