7.最初の春休み

 二学期も終わって三学期になった頃、叶依の成績はとても良いとは言えなくなっていた。この高校でやっていけているので悪くはないが、懇談で綾子に来てもらったとき、田礼は「数学かなり悪いですねぇ」と言っていた。

「あああ……勉強せなあかんわ」

 懇談が終わってから、叶依は綾子と歩きながら一人で嘆いていた。春に花を咲かせていた桜の木は今は何もなく、ただ細い枝だけが無数に伸びていた。枯れて落ちた葉は北風に吹かれてどこか遠くへ飛ばされた。

「田礼先生あんなこと言ってたけど、そんなに悪くないよ」

「ほんまに?」

「うん。数学は悪いかも知れんけど、他の教科は頑張ってるやん。クラブでも頑張ってるって知原先生言ってたし」

「そうかなぁ。でも、ほんま田礼キライや」

 田礼が叶依の髪を注意することは無くなったが、それでも叶依は田礼が嫌いだった。叶依が数学が嫌いだとわかってから、よく田礼は叶依をいじめた。そして大抵は田礼が勝っていたが、ごくたまに叶依が勝ったとき、特に采に教えてもらって完璧に正解を言ったときは、田礼はまた幼くなるのだった。

「嫌い言うたかて言っても、それは仕方ないわ。数学あかんでもギターで頑張ったらいいやん。人生いつ何があるかわかれへんし、長いかも知れんし、短いかも知れんやん。やりたいことあるうちにやっとき」

「うん……」

 今の綾子の言葉に叶依は変な引っかかりを覚えたが、あまり気にはならなかった。確かに人生はいつ何があるかわからないし、最悪の場合、明日はないということも考えられる。綾子の言うことを叶依は素直に受け止め、田礼や勉強のことなんかで悩むのはやめにした。同じ時間を使うなら、もっと有効利用したかった。


 三月になって学年末試験も終わり、とうとう一年九組が終わるときがきた。けれど高校生活が終わるのではなくまだ二年間残っているので特に何もなかった、あることを除いては。

 いつものように早く登校した叶依は、朝から落ち着かなかった。学校で行事があるわけでもなく、三月ではあるがホワイトデーでもなく、その前に叶依にそんな相手はおらず、史や采にも何もしていない。いつの間にか采も叶依や海帆と仲良くなっていたので彼らはちょっとだけ期待しているようではあったが。

「かぁーなぁーえぇーおぉーちぃーつっーけぇー」

「ちょっと、やめ、珠里、ちょ、どけぇーっ!」

 叶依がちょっとだけいつもに増して力を入れたら、珠里亜は飛んで壁にぶつかった。その間に海帆も登校したが、やはりテンションがいつもと違っていた。変だった。

「ああああ……海帆、持ってきた?」

「うん、叶依は? あ、それ?」

 二人とも鞄の中から手のひらサイズの箱を取り出したが、叶依のは海帆の半分ほどの大きさだった。けれどそれはお互いにわかっていたようで、中身が何なのかも知っている。

「とりあえず……落ち着こ。落ち着かな──」

 ガタッ!

 叶依に飛ばされていた珠里亜が戻ってきて、仕返しに叶依をいじめに来た。

「ちょっともーっ! やめいよ珠里亜ーっ!」

「へへへーん。わーいわーい。もうすぐ巻ちゃんと離れられるぅー。叶依はまた巻ちゃんのクラスになるぅー。そんで珠里亜、お姫様になるぅー。らりらるーられーららろりー♪」

 珠里亜が踊りながら歌う謎の歌に叶依が言葉を失っているとき、史が登校した。そしてもちろん珠里亜の歌を聞いていたが、珠里亜が歌い終わってもコメントは無かった。

「……あっ、そうや史っ! 海帆……」

「あ!」

「なに?」

「はいこれ、あげる」

 叶依と海帆は、今日持ってきたものを史に差し出した。

「今日、誕生日やろ?」

「ええっ……くれんの?」

 史に誕生日プレゼントをあげようというのは叶依が言い出したことだった。いつか珠里亜と三人で放課後のグラウンドを歩いていたとき、叶依は史に贈る曲を考えていた。海帆にはまだ話していなかったが、彼女は料理が上手いのでお菓子を作ってもらおうと考えていた。

「おーっ! ケーキや! んでこのCD何?」

「フミクリ・フミクラ」

「は?」

 やっぱり叶依はおかしい。

「タイトルないねんけど……大分前に私がグラウンド歩いたときあったやん。あんとき作った曲」

「えっ、俺に? マジで? うわ……ほんまありがとう。良い友達持ったわー俺」

 帰り道、叶依と海帆は史と、ではなく、珠里亜と夜宵、それから時織と歩いていた。五人は一緒に遊んだことは無かったが学校では仲がよく、三学期になってからよく一緒に行動するようになった。

「一年終わったなぁ。来月もう二年になんねんで」

「ほんま早いわ。珠里亜もなぁー変わったしなぁー」

 時織と叶依が話している前で、珠里亜はひとり鞄の重みを利用してくるくる回っていた。

「どぉぅわぁーっち!」

 珠里亜は叶依に鞄をぶつけようとしていたが、上手く叶依が避けたので当たることは無かった。そのかわり横を歩いていた先生に当たりそうになり、先生は笑っていた。

「珠ー里亜ー、あれ、パンチやで」

「ええっ、パンチ?」

 帽子を被っていたのでわからなかったが、五人の横を歩いていた範池葉亜真は英語教師だった。田礼とも結構仲がよく、それでいて体育祭や球技大会で自分のクラスが対決になったときはよく燃えていた。

「当たらんで良かったなぁ」

 当たっていても特に問題は無いだろうが、嫌なのは嫌だ。

 他の四人と帰る方向が違う叶依は、正門前で一人になった。そこに立つ桜の木はまだ花を咲かせてはいないものの、やがて来る暖かい春を待つように既に芽はついていた。春休みになってもクラブはあるので、叶依はよく学校へ行った。クラブのないときにも近いので遊びに行き、よく知原といろんな話をした。


 けれどその春休みが後に大事件の火になることなど、知原はもちろん、叶依自身も思っていなかった。

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