2.隣の男の子

 翌朝、叶依は三十分くらい前には登校した。まだ始業式には早いので他学年の生徒はほとんどおらず、見るのはまだ中学生の顔をした新入生ばかりだ。

 教室に入って、叶依はしばらく生徒手帳をめくっていた。最初に校訓があって、学園歌、生徒心得、行事予定表と続いている。

「あっ、おはよう!」

「ん? あー、おはよう」

 登校して来たのは海帆で、彼女は自分の席に荷物を置くと叶依のところにやってきた。二人はしばらく自己紹介みたいな話をして、それから高校生活に関する話へと移っていった。海帆の家は高校から近いらしく、歩いてすぐだと言っていた。電車通学する生徒もいたが、このクラスは徒歩の生徒が多いらしい。

 叶依はどのクラブに入るのかと聞かれたが、まだ決めていないと答えた。

「海帆はクラブ決めた?」

「うん。とりあえずコーラス部にしよっかなぁと思ってんねんけど、クラブ紹介見てから決める」

「ふーん……コーラス部か……知原先生やなぁ」

「……誰それ?」

「ここの音楽の先生。私、昔からここの音楽室で遊んでてんけど、良い先生やで」

 それからしばらくして予鈴が鳴って、本鈴と同時に田礼が入ってきた。最初から遅刻する生徒はいないようで、田礼は全員出席なのを喜んでいた。やっぱりその顔は幼い。

 その日はまず自己紹介をさせられた。田礼は「後ろと前とどっちからするか」と、海帆と叶依にじゃんけんをさせた。負けたほうが先になるので、それぞれの近くに座っている生徒は『勝ってくれ』と頼んでいた。お互いに友人である叶依と海帆は勝つべきか負けるべきかわからなかったが、叶依が勝った。

 ほとんどの生徒は名前と出身地、それから趣味などを言って終わりだったが、中には一発芸をする生徒もいた。最初にそういうことをやっておくほうが印象に残されやすく、後に友人も増えるのだ。けれど、叶依はそういうことはせず、ほとんどの生徒と同じように、「若咲叶依です。えっと……寮に入ってます。クラブは考え中です」と言って終わりだった。

 その休み時間、叶依は近くの席の生徒とも知り合ったが、やはり海帆との会話が中心だった。

「なぁ叶依、コーラス部入ろうよ」

「え~……」

「じゃ、見学だけ! 入っても適当に歌ってたらいけるし」

「うーん……」

 顧問が知原なので嫌ではないが、そう簡単には決められない。

「どうしよっかなぁ……歌より楽器のほうが好きやからなぁ」

 そしてまたチャイムが鳴って、お昼までの時間は校内見学になっていた。教室のある本館の三階に職員室があり、五階が講堂。そして体育館が二つと、西館、東館、そしてグラウンド。ついでにゴミ捨て場にも連れて行かれたが、隣にある職員用自転車置き場に子供用の椅子がつけられている自転車が一つだけあった。子持ちの先生がいるのだろう。

 昼休みも、叶依は海帆と喋っていると、

「そういえばワカナって俺らと年一緒やねんなぁ」

 近くで喋っていた男子生徒が叶依のほうを向いて言った。

「え? ワカナって……あっ、あーっ! この顔知ってる!」

 叶依はその男子生徒を知っていた。

「入学式のとき私の横に座ってた!」

 担任紹介のときに声を漏らした男子生徒だった。

「入学式……あー、あれおまえやったん」

「叶依、この人と知り合い?」

「ううん。知らん」

 叶依は彼と入学式場で出会ったが、話したのは今日が初めてだ。

「でも俺はお前知ってるでー。ワカナやろ?」

 ワカナというのが自分のことを指すことを叶依は知っていた。

 若咲叶依、若叶、わかかな、言いにくいので略してワカナ。

「ワカナ……なんで知ってんの? ていうか名前教えてよ」

「俺か? 俺、深沢史ふかざわふみ。駅ビルのコンビニでバイトしてんねん」

「駅ビルのコンビニ……あーっ、あそこ!」

「わかった? たまにおまえ広場でおるやろ」

「あーそれで知ってんか……そうか……」

 叶依と史は普通に会話をしていたが、その内容を海帆は理解出来ていない。

「……どういうことなん?」

「あれっ、おまえあのこと言ってなかったん?」

 叶依が普通の高校生ではないことに海帆も気付いただろうか。けれどまだ叶依が黙っているので、何も知らない海帆に史が勝手に喋りだした。


 叶依は小さい頃からギターをやっていて、一年ほど前から隣町の駅ビル内の広場で弾くようになっていた。なかなか上手いので足を止める人も多く、やがて叶依はワカナという名前で呼ばれるようになった。たまにちゃんとしたホールで弾いたりスカウトされることもあるが、音楽業界には入らずにあくまで趣味でやっている。史はその駅を使うことが多く、今春から広場前のコンビニでバイトを始めた。叶依はよくそのコンビニで買い物をしていた。


「ふーん……じゃギター部とか入れば?」

「それがないんよなぁ」

「作れば?」

 まだそこに残っていた史が笑っていた。

「作ればって……コーラス部入ろっかなぁ。知原先生やし」

 午後からのクラブ紹介のとき、コーラス部は知原の指揮で何か歌っていた。叶依はまだ入部を決めかねていたが、放課後に海帆と一緒にもう一度見学した。音楽室にはやはり知原がいて、見学の生徒も何人かいた。

「あっ、そうや叶依ちゃん、準備室からギター出してきて」

「え? なんで?」

 その場所を叶依は知っているが、ここで弾くとは言っていない。

「私が弾くから。たまにギターの音入れるときもあるのよ」

 よくわからないままにも叶依は準備室に入って一本出してきた。叶依がいつも使っていたものだ。

 叶依が知原にギターを渡していたとき、

「あれ? ワカナやん!」

 上級生の中に『ワカナ』を知っている生徒がいた。もちろん知原もそのことを知っているので、話は早い。叶依はギターを弾けと言われた。

「えーっ……でも今日、爪伸びてるし……」

 普段ならギターを弾きやすいように爪はきちんと切っているが、確かに今日は伸びたままだった。それを確認した知原は弦が傷んではいけないからと諦めたが、やはり叶依に入部を迫っていた。他に良いクラブがなかったしコーラス部も嫌いではないので、叶依は海帆と一緒にコーラス部への入部を決めた。

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