第3話

 葉花ようかは目を開けた。木漏れ日が下草を照らし、獣道がよく見えた。

 いつの間にか眠っていたようだ。三日三晩探し歩いて、ようやくあの獣を見つけたのだが、いい加減、疲労もピークであったのだろう。目を瞑ってしばらくすると泥のように眠ってしまった。

 太陽は燦々と輝いており、森の奥までよく見えた。もうあの獣はだいぶ遠くへと行ってしまったのだろう。 

「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。主はわたしを青草の原に休ませ憩いの水のほとりに伴い魂を生き返らせてくださる。」

 獣道の向こう側から誰かが近づいて来る。葉花は山刀を握り身を伏せる。奴なら殺す。他の者ならやり過ごす。

「主は御名にふさわしくわたしを正しい道に導かれる。」

 ガサガサ、ガサガサと大きな音をたててそいつは近づいて来ていた。何か歌っているが、はっきりとは聞こえない。一つだけ言える事はあった。奴の足音ではない。

「死の陰の谷を行くときもわたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖それが私を力づける。」

 近づいてきたのは又三郎であった。楽しそうに南蛮の詩を唄っている。葉花は立ち上がり又三郎を迎えた。又三郎の片手にはあの獣の生首が掴まれている。

「葉花さん。私も射撃術を身に着けてはいるんですよ。獣ぐらいは何時でも狩れます。あなたの力がなくともね。」

「知っていますよ、又三郎さん。」

 葉花は、名もなく親もなく、山の中では血の味意外の記憶はなかった。周りは皆、獣とかわりなく、また獣同然であった。

「洋太を喰ったのはこれか?」

「そいつです。」

「ならば、首だけを持ち帰るか。流石に二体を持ち帰れるほどの体力はないし。」

 赤児の葉花は、踏み殺されないように、怯えながら木の根の陰で丸まっていた。山の獣に囲まれて、襲われるのも時間の問題であった。

 そこへ又三郎はやってきた。血を啜る獣が跋扈するこの森より濃い血の匂いを纏って。最も深い絶望の底から、葉花の世界を血まみれにして、葉花に名前を与えた。

「葉花さん。お主が自ら山へと帰って行ったのだ。ならば、獣へ戻ったと思われても仕方あるまい。さすれば、堺家当主としてはお主を撃たねばな。」

「あなたに拾われたあの日から、私は又三郎さんの羊です。又三郎さんが望むのならば、この血、この肉、差し出す事に何ら躊躇いはありません。しかし、洋太の肉を無惨に放置しておくことだけはできないのです。あの獣の肉の始末をしたのなら必ずやこの首を又三郎さんに差し出します。」

「そう真面目に捉えるな。冗談だよ。これ以上、私がお前の不在に耐えられない。だから、帰ってきて欲しいのだ。」

 又三郎は日を背負い葉花を見下ろしていた。影が覆う中で双眸だけは怪しく光り葉花を捉えて離さない。

 葉花の背中をヌメッとした汗が濡らす。山刀の柄を握りかえす。又三郎との距離は十数歩。又三郎は山刀を装備しているようには見えない。

「しかし、あいつを解体しなければな。手伝ってもらえんか。」

「えぇ、すぐにそちらへ向かいます。」

 葉花は立ち上がり、先へ行く又三郎の後について行った。


「二人で山の中を歩いていると、昔を思い出すな。始めて出会ったのは何年前だったかな。」

 と、又三郎は言った。足取り軽く前に進む彼の背を葉花は睨んでついていく。

「もう二十年以上前のことですね。戦が終わった年だったと思います。」

「あの日は戦場から帰ってきた日の事だったな。懐かしい。今でも夢に見るよ。あの日ほどこの森を美しいと思った日はない。」

 血の匂いが徐々に濃くなっていく。洋太を喰ったあいつはすぐそこにいるのだろう。

 藪をかき分けると少し空いた場所に出た。そこは血まみれの死骸が散乱していた。

 一つ、二つ、三つ、四つ。頭が吹き飛び、首が斬られ、腹に山刀が刺さり、足に罠が掛かったそれぞれの獣だった残骸がそこにはあった。

 明らかに食べるつもりがない殺し方だった。血抜きもされていない。内蔵を狙って撃たれた跡。まともな肉はほとんど残っていないだろう。彼らは殺すために殺されたのだ。

「洋太の無念もこれで晴れただろうか。」

 又三郎は葉花にたずねた。振り返り葉花を見据えている。手に持っていたはずの生首が消えていた。

「洋太がこのようなことを望んでいたとは思えません。」

「それはお主が洋太のことを知らんからだ。堺家の者は血を好む。生き血を啜られた洋太は幸せだったかも知れぬ。」

「何を仰っているのですか……。」

 又三郎が興奮しながら語り続ける。

「鉄砲も人殺しの道具だ。葉花さんも身に沁みてわかっているだろう。獲物を狩る。それは自身をも殺す。引き金を引く一瞬に味わうその興奮を、洋太も本能で理解していたのだ。だから、他のことに目もくれず鉄砲に夢中だったのだ。」

 葉花は山刀を握りなおした。我が子を侮辱されて黙っているつもりはなかった。

「そもそも、葉花さん。君も我々と同じような者だろう。洋太が殺されたことが悔しいのではない。洋太が自分以外に喰われたことが許せないのだ。」

 又三郎まで十歩ほどの距離がある。首を跳ねるには丁度良い間合いだ。

「私はね、葉花さんに喰われるのならば本望だよ。残さず食べてくれ。」

 又三郎は獣に刺さった山刀を引き抜いた。

「ただね。私も葉花さんを食べたいのだ。出会ってから今日まで想い続けていた。葉花に喰われたい。葉花を喰いたい。相反する欲求だが、今日、どちらかは満たされる。」

 葉花は又三郎が言い終える前に踏み込んだ。又三郎はかろうじてそれを防ぐ。二人はもみくちゃになりながら藪の中へと入っていった。

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