灰色キノコの群れ(3)

 キッチンの時計の秒針が歪んだ気がした。動いたのか動いていないのか、よく分からなくなるあの現象だ。時刻は二十時を指しており、僕はこの時間になるとコーヒーを淹れる決まりがある。元々は深夜まで及ぶ作業時の眠気覚ましとして飲むようになったのが始まりだった。カチカチと音を立てる秒針に耳を立て、細かく挽いたコーヒー豆をフィルターに入れていく。お湯を入れ、蒸らされた豆がモコモコと膨らむのをじっと見つめていた。コーヒーの香ばしい匂いがゆっくりと立ってくる。匂いを堪能していると、メッセージの着信音が鳴った。


僕は視界にディスプレイを映した。送信元は相馬だ。メッセージを開くと、またコーヒーにお湯を注いだ。


『そちらは元気だろうか。手続きの都合があって、連絡が遅くなってしまって申し訳ない。島への移住日は、三月二十日からを予定している。こちら側で全面的なサポートをするので、創くんの都合の良い日を教えて欲しい』

という文字の後ろでゆっくりとコーヒーポットにコーヒーが流れ落ちていった。

僕は相馬と通話をすることにした。その方が早いと思ったからだ。着信音が数回なると、すぐに相馬が応対した。


「こんにちは。入谷です。今お時間よろしいでしょうか」


「そんなにかしこまらなくて大丈夫だ。日程の件かな」


相馬の外交は上手くいったそうだ。その連絡があってから、日程を決めるまでに三ヶ月ほど待たされていた。そして今日、日程のメールが届いたのだ。


「はい、三月二十日からで大丈夫です。こちらが準備しておくことはあるのかのご確認を取りたくて」


「そうだな。引っ越しの手配や、荷造り、移住の手続きはお願いしたい。その他のことはこちらで手配するが、何を行うかは逐一相談し合おう。業者の連絡先も教えておく」


「ありがとうございます」


僕はコーヒーを唇につけ、ゆっくりと啜った。


「ところで、創くんに確認したいことがあるんだが」


「はい、なんでしょうか」

通話越しに聞こえないよう、コーヒーカップを静かにテーブルの上へと戻した。


「以前、人が嫌いと言っていたが、その理由を聞いてもいいだろうか」


僕が少しだけ沈黙すると、無理強いはしないよと相馬は付け加えた。


「お恥ずかしい話ではありますが、幼少期に変わり者だといじめられていたことがありました。そこから不登校などを経験しておりまして、家族以外の人と関わることが苦手になってしまって」


「なるほど、両親は?」


「6年前に他界しています」


「そうか、嫌なことを思い出させてしまってすまなかった」


「いえ、大丈夫です。お気遣いありがとうございます」


「こちらこそ話してくれてありがとう。それじゃあ、また連絡する」


相馬との電話を終えると、僕は大きなため息を吐き、目を瞑った。もうすぐこの国を出ていける。この国の人の声や臭い、目線。街を見渡せば、人間はあちらこちらいるのに、まるで全ての人がロボットであるかのような薄寒さを覚えていた。そんな国から離れることが出来る。足元に飼い猫のイチが擦り寄ってきた感覚があり、目を開けると、イチが僕の脚に長い尻尾を絡ませていた。尻尾がするりと離れていくと、黒いパンツにイチの真っ白くて細い毛が付着していた。


「そうだった。一人ではないな。一人と一匹で、誰もいない場所へ行こう」

イチは僕の顔を見上げると、にゃおんと大きく鳴いた。


 相馬から連絡が途絶えていた三ヶ月間で、すでに島の設計図と家の設計図を作っていた。僕自身にもお金の蓄えはあるため、相馬の資金と合わせれば設計図通りに完成させるのは絵空事ではない。島は一時間もあれば、一周できるほどの小さな島で、全てが海に面した孤島だ。船で数時間も揺られたら到着できる距離にあるため、ちょっとした観光地としても最適だそうだ。自宅周辺には、観光客が立ち入らないように立ち入り禁止の柵を立てる予定だ。観光にお土産屋などが必要であれば、従業員を雇ってもいい。島に暮らしてもらうのではなく、船で観光客と一緒にやってきて、日帰り客と一緒に帰ってもらえれば都合がいいだろう。


相馬は別荘地として島を買い取ったそうだが、仕事があまりにも多忙であるため、放置されたままとなっていたらしい。その島の権利を僕に譲る代わりに、相馬はその島での売上の数パーセントを手に入れるという算段だ。僕の目的は、自分一人が住む島であることと、島を丸ごと創作することだ。お互いにとって都合のいい条件だった。島のインフラ整備は、相馬の資金によって整えられる予定らしいが、しばらくの間は、ほぼキャンプ生活になるだろう。家も一人きりで建てるのは中々難しいため、相馬が手配した作業員と共に作っていく予定だ。想像すればするほど、胸の高鳴りを抑えることができなかった。


 僕は、コーヒーカップを持ち、隣のリビングへと向かった。リビングのテーブルの上にコーヒーを置き、赤いファブリックのソファに腰をかけ、再度カップを手に取った。コーヒーを一口飲むと、鼻から良い匂いが抜けていく。部屋の中に響き渡るのは、秒針が傾く音と、壁にかかった歯車の飾りがくるくると回転する音だけだ。


「あの島はピンクの空が広がっているかな」

ここでは見られない空の色が見たいと思っていた。まるで天国のような景色を目に焼きつけたい。イチはなんの気なしに前足で顔を洗う仕草をすると、前足を舐めながら喉を鳴らしている。


 移住当日は、思いの外に騒がしかった。島までの移動は原沢の船を使う。僕の家にはオモチャ作りをする上で必要になる精密機器が多いため、引っ越し屋が悲鳴を上げていた。運び出されていく荷物を横目に、大きな黒いリュックを背負い、猫用の持ち運びケージを取り出すと、イチの名前を呼んだ。イチは嫌がる素振りなど見せずに、トコトコとゆっくり歩き、ケージの中に収まると体を小さく丸め、僕の顔を見上げる。


「これからは楽しくできる場所へ行こう」

僕がそういうと、イチは大きな口を開けてあくびをした。ザラザラとした舌がチラリと見えた。


僕にとって初めての国外旅行だった。歴史上ではたくさんの外国人が旅行をし、日本からも海外へと旅行することが多かったそうだが、現在はウイルス感染防止のため、国外を出るのには厳しい審査が必要だ。旅行先の手続きをしたら、二週間は自宅に隔離される。旅行当日には旅行専用送迎車が出迎え、その車に乗ると、直接空港に運ばれる。そこからも検査などを行い、問題がない場合は渡航できる。僕も同じように、二週間ほど自宅に隔離され、船着場までは旅行専用送迎車に乗り、港へと向かった。


港に着くと、暖かい風が吹いており、船のエンジン音が聞こえた。あの灰色の国を出るのだと思うと、胸が高鳴るのと当時に、不安も押し寄せ、微かに身体に力が入った。僕はリュックを背負い、ケージを取り出すと、船着場まで歩いて向かった。原沢は不在だったが、勝手に船内へと乗り込み、客席へと腰を下ろした。しばらくすると、ドアをノックする音と原沢の声が聞こえた。僕が返事をすると、ドアが開き、原沢がひょっこりと顔を出した。


「まいど、入谷さん」

原沢が小さくお辞儀をし、近づいてきた。僕の隣に腰掛けると、手のひらを見せてきた。原沢の手からディスプレイが浮かび上がる。ディスプレイには地図が映し出されていた。


「出航する場所がこのへんです」


そういうと、原沢は地図を指さした。僕が頷くと、原沢はディスプレイを指で摘む仕草をし、それに反応したディスプレイの地図は縮小された。


「ここから南方に進んでいきます。この小さい島分かりますかね」

そう言うと、ディスプレイに表示されていたゴミのような小さな点を拡大した。すると小さな島が映し出された。


「多分二時間くらいで着くと思いますので、ゆっくりしていてください」

僕の肩をポンと軽く叩き、原沢は部屋を出ていった。彼が部屋の外の通路を歩く硬い足音が聞こえた。

僕は辺りが静かになると、手のひらの汗をズボンで拭い、それから目を閉じて深呼吸した。


「きっと大丈夫」僕は小さく呟いた。


 二時間くらい経っただろうか。僕はICチップを擦り、目の前にモニターを映し出すと、時刻を確認した。丁度到着時刻だった。船が少しだけ揺れ、小刻みに感じていたエンジンの揺れと音も小さくなっていった。


「無人島へ到着いたしました。足元にお気をつけてお降りください」

船内アナウンスが流れた。声の元はおそらく原沢だろう。


僕はケージを持ち上げると、席を立った。寝ていたイチがびっくりしつつ、体を起き上がらせている。ググッと背伸びすると、大きな欠伸をしていた。ドアを開けると、いつも嗅いでいた潮の匂いがほん少しだが違う気がした。ツンと鼻にくるような潮風ではなく、どこか甘ったるいシロップのような匂いを感じる。目の前には小さな孤島があった。木々が生い茂っていて、島の中までは見ることができない。


「この島の名前どうするんですか」


背後から原沢の声が聞こえると、僕は肩をびくりと震わせた。振り返るとどこか嬉しそうに口角を上げた原沢の笑顔があった。


「勝手につけていいんですかね」と僕が言うと


「権利もらっとりますからね」と、原沢は言った。


そうですよねと言うと、僕は手を顎に添え、しばらく考えた。


「機械仕掛けの島はどうでしょう」


「ほお、とっても素敵な名前やないですか」


「そんな島にしたいという願望です」


「願望は実現するためにありますからね」

と、原沢は目を細めて微笑んだ。僕は小さく頷いた。


ゆっくりと船から足を下ろした。本土の砂浜とは違いベタつくことはなく、砂浜に沈む僕の靴をさらさらと覆った。そして、機械仕掛けの島へと両足を踏み入れた。原沢にお辞儀をし、僕は林が鬱蒼と生い茂る島の中へと進んでいった。


「始めようか、イチ」


僕の声に、イチがにゃおんと大きく鳴いた。

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