第28話

「そういえばすこし前に、なにか気の乱れを感じたね。もしかしたらその―――彼―――は、本当に人間ではないかもしれないよ」


「どういう意味なんだ?」


「例えば違う次元から迷い込んだ者がいたら、わたしにはそれを気の乱れとして感じ取ることができるんだよ。

 すこし前にその気の乱れを感じた。次元の違うところか、それ以外の場所からか、特定はできないけれどね」


「我々以外の人間外の生き物がいると?」


 ポツリと落ちた質問に、水樹は小さく頷いた。


「まあ焦ることはないよ。いずれ必ず遭遇するだろうから」


 その少年が本当に人間を守護しているのなら。


 そう付け足されて3人とも頷いた。


 このときはまだ二人組の少年たちだということもわかっていなかったのだ。


 成り行きに任せようという発言には、様子を見ようという意味も含まれていた。


 それは口に出すまでもなく、3人に伝わって不承不承ながら同意した。


 この後、彼らと別れた水樹は、後ろをついてくる妃に声をかけられた。


「構わないの? あの3人は不服そうだったわ」


「焦る必要はないと思うよ。彼らも前線に出ている将だ。避けようとしても、間違いなく遭遇するだろうし。焦っては犠牲を増やすことに繋がる。戦は焦りを見せた方の敗けなのだから」


「あなたがそうおっしゃるなら構わないけれど」


「近くきっと遭遇するよ。それほどの実力者なら、色々な戦に顔を出すだろうからね」


「そうね」


 微笑んだ妃の肩を抱いて移動する。


 このときは問題の「守護神」が、まさか弟の紫苑だったなんて、水樹も思わなかったのだ。


 知らずにいた事実の重さに、彼は打ちのめされることになる。


 紫苑との邂逅が果たされたそのときに。





 いつもは戦いに赴かない水樹が、自ら戦に姿を見せたのは、このときより半月後のことだった。


 綾乃の危機を知り、駆けつけた彼が目にしたものは、少年にまで成長した弟の姿だった。


 もしも傍に惺夜がいなければ、わからなかったかもしれない。


 それほどに大きくなった弟の姿に、水樹は動けないまま立ち尽くした。


 なにが……紫苑の気を引いたのか、戦いの最中、彼がふっと視線を泳がせた。


「紫苑っ!! 気を抜くんじゃないっ!!」


 鋭く飛ぶ惺夜の叱責の声。


 否定したくても認めるしかなかった。


 あそこで敵の大将として戦っているのは、あの……葉月なのだと。


「なぜ……きみが……?」


 信じたくないと掠れるさやき。


 聞こえるはずもないのに、紫苑がまっすぐに水樹を見た。


 何気なく止まる視線。


 息ができなくなるような絡み合う視線の熱さに、水樹は我を忘れたまま、信じたくないとかぶりを振った。


 怪訝そうに細められた瞳が、ゆっくり、本当にゆっくり大きくなる。


 驚愕を伝える黒い瞳に水樹は悟る。


 紫苑にも自分がだれなのかがわかったのだろう、と。


 震えるように動く唇が、声にならない声で名を呼んだ。


 ただ一言「兄上……」と。


 抱きしめたい衝動を堪えて唇を噛む。


 名を呼ぶことすらできずに。


 なにかの殻を脱ぎ捨てるように、紫苑の表情が動く。


 冷徹な闘神へと変化する弟の、冷ややかな視線を、水樹は魂が引き裂かれるような痛みと共に受け止めた。


 まるで物のついでだと言わんばかりに、紫苑が水樹にも衝撃を仕掛けた。


 物理的な攻撃の光球を片腕で受け止め、水樹が後方に飛ぶ。


 彼とは戦えない。


 態度で訴えるように後退する兄に、紫苑は全く情けをかけなかった。


 惺夜ですら眼を瞠るほどの、情け容赦ない攻撃の最中、間近でぶつかる度に、兄の苦しそうな表情を見た。


「なぜ、やり返さない? 防戦一方とは情けない大将だなっ」


 叩きつける力の刃を空圧で防ぎ、水樹は激しく首を振った。


「きみとは戦えない……。お願いだ。退いてくれないか」


「寝言なら……受け付けないな。反撃してみろよっ!!」


 紫苑が攻撃を繰り返し、ぶつかる度に告げる叱責が、まるで泣いてるようで、水樹の表情がますます曇る。


 その一方的な戦いに、だれもが息を呑んだ。


 水樹が防戦一方で戦う意思がないのは、だれの眼にも明らかだった。


「……許してくれ、紫苑。これ以上はっ」


 悲鳴のような兄の声に紫苑は冷ややかにささやく。


 真っ青になった兄の耳元で。


「なにを許すって? 許してほしければ、おれを殺すんだな」


「……紫苑。きみは……」


 兄の上げる絶望の声に、紫苑は意識的に耳を塞ぐ。


 これ以上傍にいて、声を聞いたら、泣き出しそうなのは紫苑の方だった。


 泣きだして抱きつきたい衝動と、裏切っていた兄への怒りが、心の中でせめぎ合って、とても自分を保てない。


 容赦のない攻撃も、ほとんど無意識のことだった。


 離れようと思えばできるのに、違う相手を攻撃すればいいのに、そうすれば兄の傍にいられない。


 自分の行動すら決めかねて、紫苑は激しく混乱していた。


 致命的な攻撃はとっさに避けているのが、その証拠だった。


 あれほどの攻撃を仕掛けても、水樹に大きな怪我はさせないように、とっさに手加減してしまう。


 求め合い、同時に否定しているような奇妙な戦いに、だれもが戦いを中断してふたりを見比べた。


 一方的な戦いなのに、紫苑はともかく防戦一方の水樹が、怪我もしていないことが却って奇妙だった。


 紫苑の混乱した感情が惺夜に伝わり、ハッとなる。


 ほぼ同時に水樹の襟を掴んだ紫苑が、不意に動きを止めた。


 震える唇が動き、なにをするのかとだれもが息を詰める。


 それでも水樹は抵抗をするでもなく、まっすぐに紫苑を見下ろしていた。


 なにをしようとしたのか、紫苑自身がわかっていなかった。


 もしかしたら殺そうとしたのかもしれないし、泣きだして「兄上」としがみつきたかったのかもしれない。


 自らの行動を把握できないほど、紫苑は激しく混乱していた。



「もういいっ。紫苑っ!! もういいからっ!!」


 不意に割り込んできた惺夜に、後ろから抱き竦められて紫苑がはっと我に返った。


 水樹から引き離されて、全身から力が抜ける。


「この場は退こう。もういいよ。そんなに苦しそうに戦わなくてもいい。ぼくがいるから落ち着いて。頼むよ、紫苑」


 やさしい声でそうささやく惺夜に、違うと言いたくて、でも、なにも言えなくて、紫苑は両手で顔を覆い、振り返り彼に抱きついた。


 しがみつく彼を腕に抱き、いつものように慰める。


 ふと気づいた。


 さっきまで一方的な攻撃を受けていた敵の総大将が、なにか衝動を受けた顔でこちらをじっと凝視しているのを。


 なぜか、魔物に見えない透明な気を持つ人だった。


 とてもきれいな眼をしている。


 魔物の王だなんて信じられない人だった。


「惺夜……惺夜……セーヤ」


 すがるように、助けを求めるように、何度も名を呼ぶ。


 その度に惺夜が紫苑の背中を叩いた。


 落ちつけようとするように。


 昔、紫苑が泣く度に慰めてきた水樹は、惺夜に弟を奪われた錯覚に目を逸らせなかった。


 逆恨みだとわかるのに、自分の居場所を彼に奪われたような気がして動けない。


 振り向きもしない紫苑が、名を呼ぶのも彼だというのに。


「あなた?」


 問いかけるような綾乃の声に弾かれて振り向いた。


 紫も蓮も悠も、みんな問いかける目をして後ろに控えている。


 思いがけない呼び名だったのか、ハッと紫苑も振り向いていた。


 それがだれを意味しているのか、どういう意味なのか、一瞬で悟り顔を強張らせた。


 弟の衝撃を受けた顔に言い訳をするように、水樹の唇が動いたが、結局、なにも言えないまま、彼は全軍を率い、この場を後にした。


 振り返りたい衝動を堪え、残してきた弟に後ろ髪を引かれる想いを味わって。


 水樹の姿が消えた直後、堪えきれなくなった紫苑が、惺夜にしがみついて、声を上げて泣きじゃくったことを、水樹は知らない。





 自分の住処に戻っても、水樹は平静に戻れなかった。


 なにをしていても、紫苑の顔がチラついて、とても落ちつけない。


 説明を求めるみなの間声も無視して、彼は森の中にいた。


 覗き込む湖に水樹の憔悴した顔が映っている。


「何故……今なんだっ!!」


 我慢できずに地面に叩きつける拳。


 閉じた瞳から、溢れる涙。


 葉月を失ったあの日から、泣くことはないと思ってきた。


 最愛の弟を手離したときより、辛いことも悲しいことも、きっとないと思って。


 何故こんな形で最愛の葉月と再会しなければならない?


 なにもできない。なにも言えないっ。名前すら呼べないっ。


 すぐそこに葉月がいたのに、抱きしめることも、兄として話すこともできないなんて……。


 この星には旅の途中で寄っただけだった。


 葉月を忘れられないから、彼から離れることで、自分の心をごまかして、ここにも立ち寄った。


 未開発な太古の時代の星。


 すこしの興味は惹かれたけれど、長居するつもりなんてなかった。


 綾乃に逢うまでは。


 振り返って見上げてきた綾乃に、別れてきた葉月の面影があった。


 生き写しだったわけでも、見てわかるほど似ていたわけでもない。


 ただ小首を傾げ見上げてきたあのときの綾乃は、幼い頃の葉月にそっくりだった。


 面差しというより、問いかけるような、その表情が。


 似ていると感じたから、もうすこし傍にいたくなった。


 ふとした表情で葉月に似た面影を宿す彼女の傍にいれば、寂しさを忘れることができて。


 出逢ったときから、ずっと彼女に葉月の面影を見ていた。


 いつしかそれが特別な感情になったのは、彼女の想いに引きずられたからかもしれない。


 葉月の願いを叶えられなかった分、彼女の願いは叶えてやりたかったから。


 綾乃ののぞみが自分なら、それもいい、と。


 バカだった。


 面影を重ねているだけで、彼女自身を見ていたわけじゃなかったのに。


 弟の面影を追うだけでは異性として愛せない。


 傲慢すぎる選択だと気づきたくなくて、気づかないフリをしていた。


 なのに本当の葉月を前にして気づかされた。


 あまりにも身勝手な自分の本心に。


 欲しかったのは綾乃ではなく、手放すしかなかった最愛の葉月だと。


 生き甲斐だった弟を、ただ取り返したくて、叶わない望みをすり替えていた。


 自分を偽りつづければ、どこかで破綻を来すのか。


「こんな形できみと逢うなんてね。これも罰なのか? 泣いていたきみを手放したわたしの」


 声にならない声で「葉月」と呼んで、水樹はそのまま泣きつづけた。


 声を殺して自分を責めて否定して。


 今はなにもしたくなかったし、だれとも逢いたくなかった。


 それがどんなに不審を招いても、すべて拒絶してしまいたかった。


 とても笑えないから。


 平気な顔でみんなと逢えないから。


 湖の畔で肩を震わせ、ひとり涙する水樹を、木陰からそっと綾乃が見守っていた。


 漏れる嗚咽も押さえ込み、ただ肩を震わせるだけの泣き方は見ていて痛かった。


 絶望の深さが胸に伝わってくるほどに。


 だれよりもまっすぐに彼を見てきた綾乃だからこそ、彼を動揺させているのは、あのときの少年だと気づかされた。


 だれもがふたりの関係を勘繰っただろうが、綾乃の確信はそれらとは異なる。


 理屈もなにもない。


 女としての勘だ。


 愛する人のことだからわかる。


 あやふやなものではない明確な危機感。


 彼は水樹の弱点だと。


 致命的な弱点。


 どうにかしなければ水樹は……亡ぶかもしれない。


 水樹が彼に逆らえるとは、どうしても思えなくて、そんな不安だけが残った。


 とても辛い泣き方をする水樹を見守って。


 お互いに、あの最悪の再会で絶望の泥沼に嵌ったのは確かだった。


 求め合う故に否定して苦しむ、その絶望から、一体どうやって立ち直ったのか。


 それについてふたりとも記憶はなかった。


 少なくとも邂逅のときのような、奇妙な状態にならずに、敵同士として話せるようになったのは、半年ほど過ぎてからのことだった。


 その頃には水樹は憎まれていることも、恨まれていることも承知して、彼の兄としてこっそり話しかけるようになっていたが。


 どんなに反発されても、どんなに憎まれていることが辛くても、それでも紫苑の傍にいて、兄として話したいという欲求の方が強くて。


 表面では邪険にあしらいながら、見上げてくる紫苑の瞳にすがるような色を見つけたのも、諦めないで接した水樹の努力の賜物だったかもしれない。


 ふたりきりの会話のとき、兄として話しかける水樹の前で、まず紫苑は必ずふてくされた顔で喧嘩を売ってくる。


 さりげない態度でかわしていると、途中から困ったように黙り込み、最後には泣きだしそうな顔でうつむく。


 虚勢が保てなくなると、紫苑は水樹の前で何度も泣いた。


 泣いてその度に責めた。なぜ、見捨てたのか、なぜ、裏切ったのかと。


 幼いころのように紫苑が涙を見せるようになり、水樹の腕に抱きしめられ、慰められるようになるまでに、気の遠くなるような忍耐と努力が必要とされた。


 それでも兄と呼んでくれることは稀だった。


 抱きしめたときに抵抗せずにいてくれることも。


 素直になれない紫苑に、水樹は何度苦い気持ちになったことか。


 幼い頃は素直だった葉月が、離れているあいだに屈折して育ち、天邪鬼になっていたことを知り。


 それが自分のせいだと、気づかない水樹ではなかった。


 こっそりと重ねる兄弟としての時間。


 兄の前で泣けるようになっても、抱きしめる腕を恋したいと感じても、紫苑は水樹を許そうとしなかった。


 だれにも内密に重ねる兄弟としての密会。秘めた血の繋がり。


 それでも薄々なにかがあると悟れるのか。


 ふたりの関係を疑いはじめた者が数人いた。


 惺夜も事情はわからないながらも、なんらかの拘りを持つ相手だと勘づいていたし、紫や蓮も同じようなことは感じていた。


 だが、綾乃はもっとはっきりと感じ取っていた。


 ふたりが決して明かそうとせず、紫苑に限っては認めようともしない秘めた絆の強さを。

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