第27話

「怒ってないよ。だから、安心しておやすみ」


「うんっ!!」


 元気な声を残して痛々しいほど、細い身体の子供は館の奥へと消えていった。


 真正面から衛と対峙した水樹は、彼からなにか言われるときを待っていた。


 ふたりは出逢ってしまったのだ。


 もう隠せない。


 水樹は衛がすでに気づいていることを確信していた。


「……水樹がなかなか弟を紹介してくれないわけがわかったよ。水樹は気づいていたんだな?」


 静かな声の問いかけに、水樹は唇を噛んで頷いた。


 皇帝に対しての反逆罪ともいえる行動だったが、そのことについて衛はなにも触れなかった。


 隠すのも無理はないと思ったからだ。


 たったひとり残された家族が、心の拠り所が、よりによって継承者だったなんて。


「わたしがなにを言いたいか、水樹にはわかっているな?」


「衛……いえ。皇帝陛下」


「衛でいいよ。水樹にはそう呼んでもらいたいから」


 衛の一言に翠の顔色が変わる。


 嫉妬しているとすぐにわかる顔をしていた。


 だが、まだふたりがなにを深刻な顔で話しているのか気づいていなかった。


 守護者は継承者のように、次代の守護者を見出だすことはできるが、自分の継承者以外の継承者を見抜くことはできないのである。


 衛が自分の後継者の守護者が、実の弟の惺夜だと、翠に言われるまで気づけなかったように。


「ずいぶん細い身体をしていたな。あまり丈夫ではないんだろう?」


「ええ。よく熱を出します。原因不明の熱を。そのときだけはわたしが傍を離れるのをきらいます。可愛い弟です。自分の生命よりも大切な」


「水樹」


 皇帝として自分がやらなければならないことが、どれほど水樹を傷つけるか、この一言で衛は思い知らされた。


 もし水樹から彼を奪ったら、自分たちは決別してしまう。


 心の支えを奪った衛を水樹は許しはしないだろう。


 この世に残された最後の家族を奪われたら。


 それでもこのままだと近い将来、彼は死ぬ。


 皇帝の加護なしで継承者は長くは生きられない。


 どんなに気が重くてもやるしかないのだ。


 そのために水樹を失ったとしても。


 そう思っているのに、水樹を失うと思うと、その決意も萎えてしまう衛だった。


 衛にとって水樹はそれほどかけがえのない友人だったのである。


「わたしがなにを言いたいか、水樹の大切な弟のために、どうすることが1番いいのか、水樹にはもうわかっているはずだ」


「狡い言い方ですね、衛。そんなふうに言われたら逆らえないでしょう」


 悔しそうに唇を噛む水樹に衛は困り果ててしまう。


 自分だってこんな会話はしたくないのだ。


 できることなら、この兄弟はこのままそっとしておいてやりたい。


 だが、それができないのが衛の背負った宿命だった。


  衛とさっき出逢った次代の皇帝の背負った宿命なのである。


「あの子を……引き取らせてくれるな、水樹?」


「衛?」


 傍らの守護者の怪訝そうな声にも答えずに、衛はまっすぐ水樹を見ている。


 唇を噛んでうつむいた彼が答えてくれるときを待っている。


 決別はしたくない。


 でも、これが逆らえない運命なのだ。


 そう思うと泣きたくなった。


 だれよりも水樹を大切に思っているのに、今その水樹を孤独の沼に引き込む発言をしている。


 その現実がたまらなくいやだった。


「このままではあの子は長く生きられない。わたしの手が必要なんだ。それはわかっているだろう? 継承者の育成ができるのは皇帝だけだと」


「継承者? あの子が?」


 翠が純粋に驚いた声を出している。


 だが、水樹も衛も彼のことは無視していた。


 これは水樹と衛の問題だからだ。


「こんなことを言うのは辛い。できることならふたりはそっとしておいてやりたい。だが、それでは結果的に水樹のためにならない。水樹の傍に置いておいたら、あの子は近い将来死んでしまうだろう。それでも構わないのか、水樹?」


「……最後の、家族なのですよ、衛」


 泣き出しそうな水樹の声に、衛は胸が詰まって声が出なかった。


 彼をどれほど追い詰めているのかがわかって。


「寝るときには必ず話をしてほしいとせがみます。泣いているときに傍にいないと、屋敷中を捜して歩くんです。

 振り向いたらそこにいて、笑ってくれているんです。わたしのたったひとつの心の支えなんです。あの子を失ったら、わたしにはなにも残らない」


「水樹」


「父と母が残してくれた最後の家族なんです。それなのに手放せというんですか、衛。あの子がわたしから遠く離れてしまうのを認めろというのですかっ」


 水樹がその場に踞ってしまって衛は言葉を失った。


 彼がこのときをどれほど恐れていたか、今更のように知る。


 その両耳を飾るのは紫苑の花を象ったイヤリングで、もう片方は三日月を象っていた。


 それぞれ父と母からの最後の誕生日の贈り物である。


 送られたときに嬉しそうに笑っていた水樹の笑顔が脳裏に蘇る。


 水樹のためにと、両親が揃って準備してくれた一対のイヤリング。


 公爵家の所持品らしく特別仕立てで、デザインなどの指定はすべて父と母してくれたらしい。


 それが嬉しいのだと水樹は言っていた。


 衛が、後少し早く水樹の弟こそが継承者だと見抜けば、こんな事態にはならなかった。


 公爵たちが旅行に出た理由を衛は知っている。


 許可を与えたのは他ならぬ衛なのだから。


 名前さえ公表していなかった次男が、無事に成長するための祈願の旅だと言っていた。


 もしあのときも衛が、きちんと気づいて動いていたら、だれも死ななかった。


 水樹をここまで追い詰めることもなかった。


 引き離されることで同じ胸の痛みを感じただろうが、これほど深い絶望を感じることは避けられたらはずだから。


 力不足を噛みしめる。


 それは苦くて喉の奥で刺のように突き刺さった。


「今すぐに決断しろとは言わない。いや。言えない。わたしにだって水樹の辛さがわかるんだ。だから1週間だけ猶予を与える。そのあいだにどうすることが1番いいのか、自分でよく考えてみてくれ。その上で引き渡す気がないというのなら諦めよう」


「衛っ。それはっ」


 翠がなにか言いかけたが、衛はそれを強引に断ち切った。


「次に逢うときには水樹の笑顔が見られることを祈っているよ。立場が変わっても兄弟であることにかわりはないと、水樹が気づいてくれるときを待っているよ」


 それだけを言い残して衛は宮殿へと引き上げた。


 当惑した顔の守護者を引き連れて。


 紫苑の花に埋もれて、水樹は泣き出しそうになるのを、必死になって堪えていた。


 葉月を死なせたくない。


 それと同時に彼から引き離されたくないのだ。


 弟から引き離されて平然と暮らせるとは思えない。


 葉月が傍からいなくなる。


 そう考えただけで水樹は目の前が真っ暗になったような気がするのだった。


 だが、このままでは葉月が死ぬのを待つだけ。


 衛の言ったことはすべて事実なのである。


 どうするべきなのか、そのことだけが見えなかった。


 約束の1週間後、結局、水樹は衛の言葉に従い、彼に弟を引き渡した。


 衛の腕に抱かれた葉月は、自分がこれからどうなるのかにも気づかずに嬉しそうな顔をしていた。


「ねえ、どうちてにいちゃまはこないの? いっしょにいこ?」


「私には少し仕事が残っているんだ。だから、先に言ってくれないか? 仕事が終わったら迎えに行くから」


「やくそくだよ?」


「そうだね。約束だ」


 指切りをするふたりを、衛はなんとも言えない苦い気分で見つめていた。


 兄弟として逢うのはこれが最後。


 これから先、ふたりが逢うことがあったとしても、それはもう皇子と臣下としてなのだ。


 それがわかっているだけに辛かった。


「この子の名を教えてくれないか、水樹」


「教えられません」


「水樹……」


「この子に与えられた名は、父と母が残してくれたわたしの弟としての名前。決して継承者の名前じゃない。弟の名だけはわたしが抱いていきます。わたしの……弟として」


 はっきりとして拒絶に、衛は自分たちが決別したことを知った。


 水樹は許していないのだ。認めてもいない。


 ただこうするより他に方法がないから、仕方なく選んだ結末なのである。


 そのことを痛いほど突きつけられた。


 そうして衛がなにも言わずに待たせていた馬車に乗ったときだった。


 それまでおとなしかった葉月が暴れ出したのは。


「いやっ。にいちゃまのところにかえる。もどしてっ!!」


「どうしたんだ、急に? 怖いことはなにもないよ。ひどいことはなにもしないから」


「だってにいちゃまないてるっ!! わかるものっ!! はなしてっ!! にいちゃま、にいちゃま、にいちゃま――――――っ!!」


 悲壮な声が何度も名前を呼んでいる。


 継承者としての力が現状を教えたのか、もう兄とは逢えないと悟った泣き声だった。


 その声を遠くなるまで見送りながら、水樹は身動きもせずに聞いていた。


 それから数日後、現皇帝、衛の後継者の命名式が行われた。


 もちろんその命名式には皇太子の実の兄、水樹も招待されている。


 これが最後と決めていたので、水樹は皇子として臣下たちの前に姿を見せる葉月を待った。


 痛々しいほどに細く小さな身体の皇子が、皇帝に抱かれて現れて、葉月はそこに集まった人数の多さに、泣き出しそうな顔をした。


 まだ慣れないのだろう。


「第一皇子にして継承者の名は……紫苑っ!!」


 高らかに衛が宣言したとき、水樹は笑いたい気分になった。


 たぶん名前の由来は、葉月の実家にある紫苑の花だろう。


 衛らしい感傷である。


「さよなら、葉月。元気でね」


 そう呟いて背中を向けたときだった。


「あっ」と幼い声が響いて水樹を引き止める声がした。


「にいちゃま!! どこいくの!? おむかえにきてくれるっていってたじゃない!! にいちゃま!!」


 泣きながら叫ぶ葉月の声を背に聞きながら、水樹はその場を後にした。


「紫苑。泣くな、紫苑。これからはわたしがいるから。わたしが水樹の代わりになれるように頑張るから」


 水樹の背を見送りながら、衛が何度も皇子の背中を撫でている。


 いやいやと首を振る紫苑に、衛は困り果てた。


 よほど兄弟仲がよかったのだろう。


 離れてからも、水樹の名前を呼んで泣くのだ。


 熱を出して朦朧としているときでさえ、水樹を探して幼い手が彷徨う。


 ふたりの絆の毅さには衛は今更ながらに自分がしたことに嫌気がさすのだった。


 そうしてこの日を最後に、 水樹の姿が消えた。


 命名式の後、彼の姿を見かけた者はだれもいない―――――――





「ひっく。ひっく。こんなところ、きらい。にいちゃま。どこにいるの? おむかえにきてよぉ」


 人に見つかりにくい中庭の片隅で、膝を抱えて紫苑が……葉月が泣いている。


 自分の名前が変わったことにさえ気づけない幼子が。


 ちょうどその傍を通りがかった少年が、泣き声に気づいて茂みを覗き込んだ。


「どうしたの? どうしてそんなところで泣いているの?」


「にいちゃま、きてくれないの。おむかえにきてくれるっていったのに、きてくれないの。もうこんなとこやだよぉ。おうちにかえりたいよぉ」


「どうしていやなの?」


「だってここにはおにいちゃまがいないもの」


 ぐずぐず泣く紫苑を抱き上げて、少年……惺夜は微笑んだ。


「だったらぼくがおにいちゃまになってあげるよ」


「え?」


「寂しかったら一緒に遊んであげる。もう泣かなくていいように、ずっと傍にいてあげる。それじゃあだめかな?」


「おにいちゃまじゃないのに、おにいちゃまになってくれるの?」


「そう。だめかな?」


「よくわからない。でも、もうひとりはいやだよぉ」


「ひとりにしないよ。取り合えず部屋に戻ろう。きみの名前は?」


「しゅおん」


 葉月と呼ばれていたのは本当に短いあいだだけで、しかも水樹にしか呼ばれたことがなかった。


 紫苑はすでに自分の本名が葉月という名前だったことも忘れかけていた。


 子供の舌足らずな口調の名乗りに、惺夜は途方に暮れる。


 今ので名前がわかったら天才だ。


「しゅおん、しゅおん、ね。あっ。もしかして紫苑のことかい?」


 こっくりうなずく紫苑に惺夜はこの子が自分が護るべき継承者なのかと、感慨深げに彼を見た。


 惺夜は紫苑の守護者である。


 そのことは発見される前からわかっていた。


 翠が指摘したのだ。次代の守護者は惺夜だと。彼が産まれたときに。


 そのせいで惺夜はまだ紫苑の顔を知らずにいた。


 継承者と守護者の対面には、幾つかの決まり事があって、惺夜と紫苑は実はまだ逢える日を迎えていなかった。


 衛のように皇帝の皇子として生を受けた場合を例外とすると、継承者と守護者はみな、儀式のときに出逢うのだ。


 こんな変則的な出逢いをした継承者と守護者は、紫苑と惺夜が初めてだった。


 衛の場合は理由が異なるので。


 それはそのまま彼らの運命がそれだけ異端的なものであることの証でもあった。


「そうか。きみが紫苑なのか。だったら約束するよ。絶対に破らない約束だ。僕はきみをひとりにしないよ。絶対ひとりにしない。だから、泣かなくていいんだよ」


 まだ12歳ぐらいの外見をした惺夜が、大人びた口調でそう言っている。


 その言葉の意味はわからなかったが、紫苑は涙を拭いて頷いた。


 そっと惺夜にしがみつく。


 全幅の信頼を委ねて。


 そうしてふたりは出逢い、運命は動きだす。


 時代の大きなうねりに巻き込まれながら……。

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