第26話




 衛の即位はそれまでにない華やかなものだった。


 危惧されていたとおり、次代の継承者はまだ見つかっていない。


 若い皇帝の誕生に民たちが熱狂的なお祭りをやっている頃、ようやく落ちついた公爵家では、生まれたばかりの子供の安否を気遣って、家族全員が集まり計画を練っていた。


 皇帝が崩御した当日に時を同じくして生まれた次男。


 その名を葉月といった。


 そう名付けたのは次男を溺愛する祖母である。


 水樹の名に合わせてくれたらしいのだが、生まれてきた弟は、あまりに身体が弱かった。


 公爵として、また衛の後見役として多忙を極める父親が、例外的行動を起こすのも無理はないと思えるほどに。


 誕生してそれほど時は流れていないのに、幾度、生死の境を彷徨ったか、すでに不明になっていた。


 葉月の成長に関することは、今、家族間で最も危惧されていることだった。


「無事に成長するように祈願に行くのはいいとしてですよ? どうしてわたしと葉月だけがお留守番なんですか?」


 生まれてから何度も生死の境をさまよった身体の弱い弟のために、父も母も祖父母までもが大陸の中央にある、霊験新かなアルト神の神殿に祈願に行く旅に出る相談をしているのだ。


 そこでなぜか当事者の葉月と、兄の水樹だけがお留守番を言いつかってしまったのである。


「葉月が長旅に耐えられるはずがないだろう? 生まれたばかりの葉月を残して、家族全員が旅に出るわけにもいかないし。なにより水樹はしっかりしているからな。葉月を任せても大丈夫だろうし」


「とかなんとか言って、ただわたしに厄介事を押しつけたいだけなんじゃないですか?」


「これは手厳しいな。水樹も行きたいのはわかるが、本当に葉月のためなんだ。残って葉月の面倒を見てやってくれないかい?」


 敬愛する父親の言葉に水樹が折れると、家族は揃って旅行の準備を始めてしまった。


 何ヶ月もかかる旅である。


 世界の中心にあるというアルト神に祈願に行くのだから当然だ。


 この休暇をもぎとるために、父がかなり無理をしたことは知っている。


 だから、水樹も逆らえなかったのだ。


 そのくらい葉月の成長が危うかったのである。


 それに……葉月は成長が遅い。


 普通ならそろそろ離乳食の時期だと思うのだが、葉月はまだ首がすわっていなくて、生まれたときとほとんど変わっていない。


 泣き声も弱々しいもので、時々このまま死んでしまうんじゃないかと不安になることもあった。


 そういった符合が揃えば揃うほど、水樹は不安になるのだ。


 衛と出逢った頃、ちょうど彼もこんな状態だった。


 年齢よりも細い身体。透き通るような白い肌。健康とは縁のない肉体。歳よりも幼く見える姿。


 葉月はなにからなにまで継承者として生きてきた衛を思わせた。


 これは衛の傍近くに控えていた水樹だからこそ気づける符合だったのである。


 継承者が生まれてから無事に成長できるまで、どんな状態にあるかを知っている水樹だったから。


 だから、家族がアルト神に祈願に行くと知らされたとき、水樹は一瞬、無駄なことをと思ってしまった。


 もし水樹の予感が当たっていれば、なにをしても葉月の容態はよくならない。


 継承者を無事に育てることができるのは皇帝ただひとりである。


 衛以外では無理なのだ。


 だが、それは産まれたばかりの最愛の弟を失うことでもあって、水樹は態度に出せずにいるのだった。


 衛がその後継者捜しに苦労していることを知っていても。


 今では皇帝となった彼の探し人は、実は自分の弟かもしれない。


 その事実が水樹をひどく不安にさせていた。


 だから、家族が総出でアルト神に祈り、その願いが叶うことを望んでいた。


 弟と引き離されたくなくて。


 産後間もない母までが出掛けていくというのに、水樹は葉月とお留守番である。


 もちろん葉月の身体を思うなら、当然の結果なのだが、なぜだか水樹は不安を打ち消せなかった。





「公爵家の者たちの乗った馬車が盗賊に襲われた? それで水樹はっ!? 水樹はどうなったんだ!?」


 皇帝として即位して、以前より疎遠になっているといっても、まだ彼のことを大切な友人だと思っている衛は、思いがけない報告を聞いて真っ青になって問いかけた。


 昨日の夜半のことである。


 アルト神の神殿にある地方へ出掛けていた公爵一家が、何者かに襲われ全員が死亡したという報告が入ったのだ。


 名門中の名門ということもあり、この事件はあっという間に中央に伝わった。


 すなわち衛の下へと。


 報告を聞いた衛は、まず水樹の安否を気遣った。


 だが、彼の危惧は報告を持ってきた臣下に否定された。


「ご安心ください。公爵家のご兄弟は旅行には同行されず、館に残っていた模様です。ですから事件には巻き込まれておりません。ただ同行されていた公爵をはじめとする残りのご家族はすべて……」


「そうか」


 水樹は幼い弟とふたりっきりになってしまったのだ。


 祖父母も一緒に住んでいた彼らだから、かなり賑やかな環境にいたはずである。


 それが突然、自分が家長にされ、幼い弟を抱えて生きていかなければならないとなれば、それはどれほどの重責だろう?


 そしてすべての家族を一度に失った悲しみは、どこへ持っていけばいいのだろう。


 彼の元にはまだ自分では喋れもしない幼い弟がいるだけなのに。


 悲しんでいられない。


 落ち込んでいられない。


 彼には護るべき者がいるから。


 案外、彼の弟が水樹の支えになってくれるかもしれない。


 このとき、衛は素直にそう信じた。


 またそれは現実となった。


 水樹は葉月のためにだけ頑張り、生き抜こうと努力しはじめたのだ。


 公爵の跡を継いでからも、弟の面倒をみることだけは欠かさなかった。


 年若い公爵の誕生に周囲は、不安と同情を隠せなかった。


 すべての家族を一度に失った水樹には同情する。


 だが、まだ幼い彼が政治方面でも、重要な役につく公爵としてやっていけるかどうかには疑問が残る。


 貴族たちの感想はそんなものだった。


 衛は出来る限り自分の力の及ぶ範囲では水樹を庇おうとしたが、それは当事者の水樹から止められた。


 衛の気持ちは嬉しいが、自分で乗りきってみせるから、と。


 それにこの当時、実は衛も厄介事に巻き込まれていたのだ。


 皇帝が即位してから、しばらくのあいだは、必ず必要とされるのが後見役である。


 衛が即位したときの後見人は亡くなった水樹の父親だった。


 その彼が亡くなったということは、次の後見役を決める必要があるということだ。


 その問題で現在宮廷は一種の派閥争い的な面を見せはじめていた。


 後見役の候補に挙がっているのが、東の領主と北の領主のふたりで、そのどちらにするかで揉めに揉めていたのである。


 それを知っていたから断ったというのもあったが、それ以上に同情されるのは我慢ならなかったという動機もあった。


 水樹も気高い公爵なのだから。


 ただこのときの衛の後見役争いが、遥かなる未来に次なる問題を招くことになると、ふたりは知る葦もなかった。


 そうしてなんとか軌道に乗ってきた頃だった。


 ようやく執務にも慣れ、時間的な余裕のできた衛が、久しぶりに水樹の屋敷を訪れたのは。


 広大な屋敷を取り囲むようにして咲く、紫苑の花の美しさは以前となにも変わらない。


 なのにこの家に住んでいるのは、年若い公爵とその弟だけなのだ。


 そう思うと衛は塞ぎ込んでしまうのである。


 水樹が気丈に振る舞えば振る舞うほど、彼の無理な虚勢が見えてきて。


 同行していた翠も同じことを感じているのか、言葉はなかった。


 衛は黒髪、黒曜石の瞳、陶磁器の肌の俗にいう美少年だが、対する翠は焦げ茶色の髪に同じ色の瞳の少年だった。


 衛の従兄だが、顔立ちはあまり似ていない。


 それもそのはず。


 衛の父親の義理の弟、つまり衛にとっては義理の叔父に当たるわけだが、彼が翠の父親なのだ。


 次代の皇帝である継承者は、皇族に産まれるとは限っていない。


 しかし守護者に関してだけは違っていて、守護者は必ず皇族として産まれる。


 それは成長が異端的な継承者との釣り合いのためだとも言われている。


 また違う理由としては守護者の力の継承が、皇帝に連なる血にあるのだろうという解釈もあった。


「にいちゃまたち、だあれ?」


 あどけない声がして下を見ると、小さな子供が衛を覗き込んでいた。


 ドクン、と、心臓が大きな音を立てる。


 感じたことのない「なにか」を感じて、衛はじっとその子を凝視した。


「おにいちゃまにおはなしなの?」


「きみは水樹の弟かい?」


「うん。そうだよ。おにいちゃまのおとうとなのっ!!」


 何故か胸を張る子供に名を問いかけようとしたときだった。


 水樹の鋭い声が飛んできたのは。


「またそんなところで遊んでるっ!! ダメじゃないかっ!! 花粉でまた熱を出すだろうっ!!」


「ごめんなちゃい、おにいちゃま。おこっちゃいや……」


 泣き出しそうな顔をする葉月に、水樹は額を片手で押さえてかぶりを振った。


 背後を振り返り侍女に声を投げる。


「部屋に連れ戻して昼寝をさせてくれないか? わたしには大切な客人がきているから。それから薬を飲ませることも忘れずに」


「はい、旦那様。さあ、坊っちゃま。お部屋に戻りましょうね」


「にいちゃま、もうおこってなあい?」


 侍女に手を引かれながら、不安そうに問う葉月に、水樹は笑ってみせた。

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