第25話

 それも衛の個性だと思うだけだ。


 それでも呆れてしまうのは、彼の豪胆さにあった。


 やれやれといった風情でため息を漏らす。


 衛の方はなにやらバカにされている気がして、ちょっと不機嫌だった。


「わかりました。すぐに支度をして参ります。すこしだけお待ちください」


 この後で世界を変える歴史的事件が起きるとふたりは知らなかった。


 継承者、衛も。


 その友人にして次代の継承者の兄たる水樹も。


 継承者はふたりまでしか存在できない。


 衛の後を継ぐ継承者が産まれるということは、現皇帝の崩御を意味した。


 つまり紫苑の後継者の産まれるときが、衛が崩御するときなのである。


 それはまだまだ遥かな未来のお話だけれど。





「いい香りがするなあ。なんの匂いだろう?」


 街へ出ると衛がご機嫌な顔でそう言った。


 街の片隅から、その匂いは流れてくる。


「あれはパン屋ですよ、衛。パンを焼いてる匂いです。焼き立てのパンは、とても美味しいんですよ?」


「パンの匂い? これが? 宮で食べてもこんなにいい匂いはしないぞ」


 唖然とする衛に苦笑する。


 熱い物の方が美味しいのだということを、衛は境遇的に知らないことを意味するから。


「ご所望ですか?」


「だが、持ち合わせがない」


「あなたが望めば食べられますよ。世継ぎの君なんですから」


「だが、人々はそうやって物を売ったりして、働いて生活を成り立てている。世継ぎだからといって、タダでもらうような真似はできない」


 知識としてシステムとしては理解していた民たちの生活。


 だが、衛が真の意味でそれを理解したのは水樹のおかげだった。


 水樹は世継ぎとしての知識しか持たず、その目線でしか物を見なかった衛を上手く導いてくれた。


 民の生活の詳しい内容を教えてくれたのも水樹である。


 どうしてお金が必要なのか。


 そのためにどういった生活をしているのか。


 衛が疑問を抱く度に水樹は、それらを教えてくれて衛を導いてくれた。


 そんな功績すら水樹は認めないが。


 衛にそういうことを教えるのも、将来的に自分の地位を安定させたいからではない。


 衛がお飾りの皇帝にならずに済むように導いてくれているだけなのだ。


 私利私欲ではなく純粋な好意。


 だからこそ、彼の友情を無駄にしたくなかった。


 たしかに衛の名を出せば献上されるだろう。


 それを栄誉と受け取るだろう。


 だが、それでは彼らのためにならない。


 世継ぎとしてしてはいけないこともあるのだから。


 そんな衛を見て水樹は嬉しそうに微笑んだ。


「ではわたしからのプレゼントということでは如何ですか?」


「だが」


 年下でしかも臣下の水樹に奢ってもらうということが、どうにも決まり悪くて衛は困ったような顔をしている。


「今日誘って頂いたお礼ですよ。お気になさらずに。それよりも一緒に店内に入りましょう。気に入ったパンがあるといいのですが」


 ちょっと強引な水樹に引きずられ、衛は生まれて初めてパン屋に入った。


 所狭しと並べられたパンの数に圧倒され、またそのいい匂いに感心する世間ずれしていない衛である。


「おかみさん」


「これは公爵家のお坊っちゃま。今日はどんなご用事で?」


「今日のオススメはなにかな? できれば焼き立てが欲しいんだ。大切な友人に食べてもらいたいから。馴染みのおかみさん特製のパンをね」


「これは口のお上手なこと。そうですねえ。この葡萄を練り込んだパンは結構イケますよ。たった今焼けたばかりです。

 それからこちらのバターを練り込んだパン。これはあっさり仕上げているので美味しいです」


「バターや葡萄を練り込んであるのかい? 今日は練り込みパンが多いんだね」


「最近の人気商品なんです。幾ら焼いてもすぐに売り切れてしまう。このくらいじゃあ、まだまだですよ」


「そうかい? じゃあ、それをふたつずつもらおうか」


「お代の方はよろしいですよ、坊っちゃん」


「でも」


「あたしからの贈り物ですよ。でも、これからもご贔屓に願いますよ。旦那様や奥様にもそうお伝えください」


「ありがとう。じゃあご厚意に甘えさせてもらうよ」


 結局、水樹もお金を払わずにパンをもらってしまった。


 店を出たふたりは、思わず顔を見合わせて笑い合った。


「水樹が奢ってくれるんじゃなかったのか?」


「そのつもりだったんですけど、おかみさんの勢いに負けました。商売人の人たちの熱気というのは、すごいものがありますからね」


「そうだな」


 知らなかったことをひとつ知り、衛はどこか神妙な顔をしていた。


 いつか近い将来、自分が治める世界。


 その成り立ちを知って。


「じゃああの噴水のところで座って食べましょう」


「こんな外でかっ!?」


「気にしない、気にしない。だれでもやってることですよ」


 言われてみれば噴水の近くでは、大勢の人が買ってきたばかりと思われる商品の袋を開けて食べている。


 そういえばお昼時だ。


 昼食を摂っているのかもしれない。


 しかし外で食事を摂るとは……。


 呆気に取られている衛の背中を押して、水樹は噴水の近くのベンチに腰を下ろした。


 圧倒された衛も、大人しくその隣に座っている。


「じゃあこれとこれを。あれ? おかみさん。果汁も入れてくれてる」


 気づいてから水樹はそれも衛に手渡した。


 王都の食べ物など食べたことのない衛がおっかなびっくりといった姿で、まだ湯気の立っているパンを手に取った。


 水樹を見倣って一口かじってみる。


「美味いっ!!」


「そういってもらえるのが、おかみさんたち、商売人にとって一番嬉しいんですよ。自分たちの作った食べ物を美味しいって言ってもらえるのが」


「だが、本当に美味い。これならいくらでも入りそうだ」


 言いながら衛がパクパクとパンを食べている。


 ふたつとも胃袋に消えるまで、対して時間はかからなかった。


 熱々のパンをふたつ食べて、おかみさんが厚意でくれた果汁を飲むと、ホッと一息ついた。


「こんなにゆったりした時間は久しぶりだ。それにこんなに美味いパンを食べたのも初めてだ。水樹に感謝しなければな」


「そんな大したことでもありませんよ」


 水樹が照れて笑ったときだった。


 重々しい鐘の音が鳴り響いたのは。


「今のは……」


 顔を強張らせた水樹の隣では、衛も顔を強張らせていた。


「どうやら父上が亡くなったみたいだな。すぐに宮に戻らなくては」


「お送りしましょう」


「いや、遠慮しておくよ。水樹と一緒だったことがバレると、水樹が責められる可能性がある」


「しかし」


「大丈夫だ。ここまでお忍びできたことは何度もある。自分ひとりでも帰れるよ。それよりも水樹も帰らなければならないんじゃないのか? 公爵家が関知しないわけにはいかないだろう」


「そうですね。ではお気をつけて」


「ああ」


 短く告げて衛は楽しかった王都での想い出を胸に、宮殿に向かって歩きだした。


 これが水樹と友人として過ごす最後の時間だとも知らずに。





「父上、母上っ!!」


 館に戻って名を呼ぶと、まず父親が出てきた。


 黒の正装に着替えている。やはり皇帝陛下が崩御したのだ。


「母上はどちらです? 皇帝陛下がご崩御なさったのでしょう?」


「めでたいことと悲しいことが重なってしまった」


「はい?」


「弟が産まれたよ、水樹」


「産まれたんですかっ!?」


「皇帝陛下、ご崩御の報せが入る直前に。純粋に喜べないものだな。このようなときに誕生するなど」


 父として夫としてなら嬉しい。


 だが、皇帝の臣下としては純粋に喜んでいられないのだ。


 そんなことをしたら不敬罪で首が飛ぶ。


「母と弟を頼むよ、水樹。わたしはしばらく葬儀のために宮殿に詰めていなければならないと思うから」


「はい。お任せください、父上。後はわたくしに」


「頼むよ」


それだけを言って父親は出て行った。


 今頃、宮殿では衛も上を下への大騒ぎの最中だろう。


 皇帝が崩御しても見つかっていない次代の継承者。


 そのことを考えたとき、水樹の胸になんともいえないいやな感じが走った。


 皇帝の崩御と時を同じくして産まれた弟?


 不吉な符合に水樹は我知らず肩を抱いた。


 その後で産まれたばかりの弟の顔を見ようと、館の奥へと足を踏み入れた。

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