第24話
館の周囲にはいつも紫苑の花が咲いていた。
薄紫の花びらを揺らして、可憐な姿を見せていた。
その中で振り向く大好きな人。
優しい笑顔が似合って、いつだって優しくしてくれた人。
大好きだったあの人。
今は顔も憶えていない。名前さえも。
「にいちゃま、にいちゃまっ!! にいちゃま―――――っ!!」
あの日、声をかぎりにして叫んだ。
どんどん遠くなるあの人を見据えたままで、泣きながら。
窓から転げ落ちそうなほど身を乗り出す自分を抱き締めてくれたのは後に父となる少年だった。
「泣くな。彼が辛くなるから。ひとり残される彼が辛くなるから、だから、泣くんじゃない。命名式をしなければいけないな。彼はそなたの名前をとうとう教えてくれなかったから」
抱き締めて何度も髪を撫でながら、そんなことを言っていた。
ガタゴトと揺れる馬車の中で、遠くなるあの人を見て泣き叫んだ。
それが別れの日だった。
「水樹っ!!」
屋敷の紫苑の花に水をやっていると、軽快な声が聞こえた。
振り向けば世継ぎの君、衛が立っていた。
水樹は皇帝の信頼厚い公爵家の跡取りである。
政略を兼ねた学友にと紹介された関係なのだが、実は大人の策略など無視した付き合いを展開していた。
それに確かに政略を兼ねた用意された友人関係なのだが、一風変わっていると評判の公爵家の嫡男は、栄誉あるその言葉をあっさりと拒否していた。
皇帝に対してその気がないと辞退したのである。
そのふたりがなぜこうして付き合っているのか。
それは大人が利害を意識しているかぎり、理解することもできないだろう。
水樹の価値観は大人の眼で見ていたのでは理解不能なので。
それは世継ぎとして大切に護られて育った衛にしても同じだった。
出逢った当初は水樹があまりに風変わりなので、振り回された記憶がある。
だが、裏表のないその優しい人柄と、身分で人を意識しない尊い一面に気づき、衛は水樹との関係を大事にするようになった。
だから、今のふたりがあるのだ。
衛は星の継承者と呼ばれる特殊な生まれの皇族で、珍しく現皇帝の第一子として生まれている。
生まれたときから皇帝となるために養育を受けてきた少年。
その彼が初めて友人と認めたのは、公爵家の跡取り息子、水樹であった。
当時、水樹はまだ15、6歳の少年だった。
対する衛は17、8歳といった姿をしている。
皇帝の成長はかなりゆっくりしている。
外見的にはすこししか離れていないが、実際にはかなりの年齢差があるふたりだったのである。
「珍しいですね、おひとりですか、衛?」
皇太子が相手でも尊称をつけない水樹に、衛が嬉しそうに答えた。
「うるさい翠はまいてきた。翠はなにかというと、水樹に近づくことを止めるからな。最近、うるさいなと思っていたんだ。守護者はみなああだというが、歴代の継承者は苦労しただろうなと思うよ」
「皇帝陛下のご容体が優れないとお聞きしておりますが、そのようなときに出歩いたりしてよろしいのですか?」
「宮にいると息が詰まる。みな父上の崩御を信じて疑わず、次代を継ぐわたしが若すぎるからと不安を隠せないんだ。好きで継承者になど生まれたわけではないのに」
唇を噛む衛に水樹はなにも言えずに彼を見ていた。
「それに父上が崩御するということは、次代の継承者が生まれる兆候でもある。その継承者捜しで、宮はてんてこまいなんだ。
継承者を見抜けるのはわたしだけ。そのことも不安の種となっているらしい。わたしが若すぎるからと。
歴代の継承者の中で、わたしほど幼い年齢のころに即位した者はいないらしい。例外が起きたことで、宮は揺れているんだ。それがいやで。息がつまる。」
「衛」
爪を噛む衛に水樹が気づかわしげな声を投げている。
「気晴らしに街へ出たいんだ。付き合ってくれないか、水樹? ああそういえば水樹のところでもおめでたいことがあるんだったな。もう生まれたのか?」
「いえ、まだです。母上は産み月も間近ということで、最近は大事をとって館の奥で休まれています。弟でも妹でもいいから元気な赤ん坊が生まれてほしいですね。皇帝陛下の一大事にこんなことを言うのは不謹慎かもしれませんが」
水樹が肩をなど竦めてそんなことを言って、衛はワクワクして言い返した。
「水樹の兄妹なら美形だろうな。逢ってみたいよ、早く」
「そんなことはありませんよ。顔の良し悪しで言うなら衛、あなたこそ相当なものですよ? ご自分の姿を鏡でご覧になったことがないのですか?」
「綺麗な顔なんて3日で飽きる。わたしが自分の容姿に対して、どんな感想を持っているか、水樹は知っているだろう?」
言われて曖昧に頷いたけれど、水樹は知っている。
衛は無自覚の面食いだと。
たしかに衛は自分で言っているように、自分の顔の造作には無頓着である。
おそらく平凡な顔立ちでも満足していただろう。
が、その代わりと言ってはなんだが、彼が付き合う相手は呆れるほどの美形揃い。
衛にはその自覚がないのだ。
呆れた話である。
「わたしは別に美顔には拘らない方だが、大切な友人の兄弟なら美形がいい。将来が楽しみだから」
「衛。あなた……楽しんでませんか?」
「悪いか?」
悪びれない衛に水樹は脱力したように笑ってみせた。
これが衛なのだと諦めの心境で。
継承者として大切に育てられたせいか、衛は率直な感情表現をする。
彼が水樹を相当気に入ってくれていることは、彼の言動ですぐに見抜ける。
それは将来的に水樹の地位が安定することも意味したが、このときのふたりは後に決別の時がくると知らなかった。
「どうせなら女の子がいいな」
「は?」
「どうせなら令嬢がいいと言ったんだ。水樹の妹なら相当な美少女に育つことは間違いないし、公爵家の令嬢ならわたしの妃にと望んでも不足はないからな」
「衛」
ムッとしたらしい水樹に睨まれて、衛は一言だけ確認を取ってみた。
「産まれてきたのが女の子なら、わたしの妃としてくれないか?」
率直に婚約を申し込む衛に水樹はそっぽを向いて答えた。
「光栄なお話ですが、お断り致します」
「素っ気ないな」
そう言った衛は水樹が本気でいやそうな顔をしていたので、ついに吹き出してしまった。
前々から考えていた悪戯だったのである。
言えば水樹は相当いやがるだろうなと思って。
だから、断られることは予想していた。
ただし衛は嘘は言わないので、水樹が笑顔で請け負ってくれたなら、産まれてきたのが女の子の場合、間違いなく婚約しただろう。
水樹もそれがわかっていたから、即答で拒絶したのだ。
本当に困った世継ぎの君である。
これ以上、同じ話題を続けられたら身の破滅とばかりに、水樹はズレていた話題を元に戻した。
「街へお出掛けになるのは視察としてですか? それならそれ相応の準備を致しませんと」
「まさか。視察ならわざわざ水樹のところへ顔を出したりしないさ。お忍びだよ、お忍び」
わかりきった問いに当たり前の返答。
やっぱりお忍びの片棒を担がされるのかと、水樹はまた諦めの気分になる。
後で翠が怒り狂うだろうなと思いながら。
継承者を独占していることで、守護者に嫉妬されるというのも、結構疲れる関係なのだ。
そんなこと衛に言うつもりもないけれど。
大事な友人だと思っているのは衛だけじゃない。
水樹だって彼のことは大切な友人だと思っている。
その身分を思えばおこがましいかもしれないが。
それにしても……と、水樹は呆れるように衛を見た。
衛の方は親友がどうしてあんな顔で自分を見るのかがわからず、きょとんとしている。
世継ぎの君と言えば神秘の代名詞と言われるほど、謎に満ちた存在……のはずだった。
少なくとも素顔を知っている人間というのは、ごく少数のはずなのだ。
むろんお忍びなど論外。なのに衛はどうしてお忍びが得意なのだろう。
おまけにあれだけ過保護で、それだけの力にも恵まれた守護者を出し抜くほどの手際のよさ。
世を嘆きたいと思うのは水樹だけだろうか。
水樹にしても世継ぎの顔なんて知らなかったわけで、想像と実態のギャップにしばらく悩んだものである。
深く付き合いはじめてからな話だが。
それに水樹が衛に興味を持ったのは、彼が世継ぎだからではないし、別に特別扱いをしたいとも思わない。
だから、衛がどういう性格をしていても、それが世継ぎとしては規格外でも、水樹は別に失望したりしない。
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