第29話

 水樹の心を独占し、常に彼の関心を集める弱点たる紫苑に、綾乃が個人的な攻撃を仕掛けるようになったのは同じ時期の話だった。


 戦いの度に綾乃は紫苑だけを集中攻撃した。


 だれの目にもそれは私怨だと見抜けるほどあからさまに。


 惺夜でさえ紫苑の身を案じるほど徹底した集中攻撃に、何故か紫苑本人は反撃しようとしなかった。





「痛いってばっ。もうちょっと優しく手当てしてくれよ、惺夜っ」


 傷ついた腕に手当てすると、紫苑が飛び上がるような悲鳴を上げた。


 ムスッとしたまま、わざと痛むように手当てして、惺夜は顔もあげない。


「当たり前だよ。痛くしてるんだから」


「惺夜、冷たい……」


 情けない声を出す紫苑に惺夜は初めて顔を上げた。


 怒りの表情が浮かぶ彼に紫苑は恐縮して身を縮める。


「何度も言ってるはずだよ。反撃しろって。どうして綾乃が相手だと反撃しないの、きみは? 毎回こんな軽傷で済むとは限らないんだよ」


「大丈夫だって。惺夜はその気になれば傷、癒せるじゃないか。最近は怒っててしてくれないけど」


 治癒能力があるのはお互い様なのだが、反省の素振りもない紫苑に、惺夜は疲れたように眉間を押さえた。


「これから綾乃が出ているときは、きみは出なくていいよ、紫苑」


「そんなわけにはいかないだろ?」


「彼女が相手だと反撃できないきみが出て、それでどうするの? 人間たちも怯えるだけだよ」


 実に正論なのだが、冷たく言ってくれる惺夜に、紫苑は唇を尖らせうつむいた。


「これからは彼女の相手はぼくがするよ。きみはしばらく戦に出なくていい」


「惺夜。閉じ込める気か、おれを?」


「心配してるんだよ、ぼくはっ!!」


 真剣に叩きつける怒号で彼を本気で怒らせたことがわかった。


 気まずくなって視線を外す。


 本気で怒らせると、惺夜はとても怖いから。


「きみは綾乃が相手だと無抵抗で討たれそうだよ。不安で後ろに控えていることなんてできないよ、ぼくには。

 どうして身を守ることさえ、彼女が相手だとしてくれないんだ? 頼むからこれ以上ぼくを不安にさせないでよ、紫苑。怖くて夜も眠れないよ」


 うつむいて肩を震わせる惺夜は、たぶん、泣いていない。


 彼はどんなときも涙は見せない気丈な奴だから。


 外見なんかより、彼の本質はとても男らしい。


 すぐに泣いてしまう子供っぽい紫苑などより、彼の方がよほど男らしい気概の持ち主だ。


 でも、彼がこんなふうに懇願するときは、本心から泣きたいときだ。


 不安で不安で仕方がないときだ。


 そうして彼を追い詰めるのも、いつも自分なのだと気づかされる。


「いくらなんでも無抵抗で討たれやしないよ。そこまでバカじゃないし」


「嘘をつくと相変わらず声が優しくなるね、紫苑」


 ゆっくり顔を上げた彼に、きつ睨まれて小さく声を噛んだ。


「ぼくを騙せると思ってるの? きみのことはだれよりもぼくが知ってるよ。どうしてそこまで綾乃に遠慮しているんだ、紫苑!? きみが抵抗できないわけを今ここで言えるっ!?」


「惺夜」


 困惑して名を呼んだ。


 今になってどんなに彼を追い詰めていたかがわかる。


 彼はもう不安で押し潰されそうになっているのだと。


 これでごまかされてくれるはずもない。


「きみが綾乃に対して無抵抗なのは」


 スッと声が落ちたのに気づき、何故か戦慄を覚えた。


 惺夜がなにを言うつもりなのかと、無意識に青ざめて。


「水樹が、きみに対して無抵抗なのと関係がある?」


 強ばった顔のまま答えられない紫苑を見て、惺夜はやりきれないため息をついた。


「気づかないと思ってた? 綾乃がきみに私怨を抱くとしたら、それは水樹のこと以外ありえない。だれの目から見ても、水樹の態度は異様だからね。

 きみに対しては一切攻撃は仕掛けないし、戦っても反撃しない。逆にきみが危なくなったら、何度か庇ったこともあるね。

 無抵抗な彼とは逆にきみは一方的に攻撃を仕掛けてる。綾乃にしてみれば面白くないだろうね。いつ無抵抗な夫を傷つけるかと」


「……」


「やっぱりきみはすべて承知して、綾乃の攻撃を受けていたね? 無抵抗な水樹を攻撃しているのは自分だから、綾乃が反撃してくるのは当然の権利だと。違う?」


 まっすぐに瞳を覗き込み、問いかける惺夜に否定することはできなかった。


 彼女の攻撃を避けなかった理由は、そのとおりだったから。


 紫苑の無言の反応を、そのまま肯定と受け取ったのか、惺夜はまた苦いため息をついた。


 今度は細く長く。


「本当はね。水樹と逢ったんだよ、さっき」


「えっ……」


「彼の方からぼくに逢いにきたよ。逢いにきて、戦う意思がないことを証明してから、用件を切り出したんだ。綾乃が戦に出ているとき、きみを出さないでほしい、と」


「……嘘だ」


 震えるその声を惺夜はどう受け取ったのか。


 苦い笑みを浮かべ、軽く首を振った。


「綾乃がきみを恨んでいるのは、間違いなく自分のせいだから、できるなら戦わせたくないって。紫苑が何故、反撃しないのか、ぼくにならわかるだろうと。わかるなら、彼を出さないでほしいと、そう言われたんだ。

 水樹も綾乃を説得したらしいね。でも、徒労に終わったらしくて、他に打つ手がなかったみたいだ。

 ぼくに直談判にくるくらいには切羽詰まっていたんじゃないかな? 彼にしてみれば、すべて自分のせいだとわかっていたんだろうし」


「そうじゃない。惺夜。おれは……」


 言いかけた言葉を遮って、惺夜は毅い眼差しで紫苑の黒い瞳を射抜いた。


 ビクッと震えて紫苑がとっさに口を噤む。


「紫苑。きみの動機がどうであれ、根本的な理由がそこにあれば、自分のせいできみが無抵抗で傷を受け、綾乃がきみを攻撃するのを見て、彼がなにも感じないと思う?」


「それ……は…」


「ぼくならいやだよ。もしぼくが彼の立場なら、そんな場面は見たくない。反撃しないのは自分の勝手。そのことで妃がきみを傷つける場面なんて、絶対に見たくないよ。それこそきみにも綾乃にも申し訳なくてね」


 惺夜が穏やかな声で語る内容は、紫苑にもよくわかった。


 おそらく水樹が我慢できずにいたことも。


 水樹はそんな優しい人だ。


 自分のせいで争うのを見て、楽観できる人じゃない。


「ねぇ、紫苑。きみと水樹のあいだに、いったいなにがあるのか、ぼくは知らないよ。でも、なにがあるにせよ、その片をつけるのはきみと水樹だよ。

 たとえ彼の妃だといっても、綾乃を巻き込むべきじゃないと思う。彼女は第三者ではないけど当事者でもないからね。彼女を巻き込めばきみも水樹も辛いだけだよ」


「わかるよ。わかるけど」


「きみがどうしても綾乃の相手をできないなら、彼女の前に出るべきじゃない。もしきみが彼女に討たれたら、それは同情によるただの犬死にだよ。それで彼女のわだかまりが消えるわけじゃない。それもできないというのなら」


 ここで一度言葉を切った惺夜に、紫苑は問いかけるような眼差しを投げた。


「水樹を狙うことそのものをやめるんだ」


 虚をつかれたように眼を見開く紫苑に、惺夜は儚い笑みを浮かべる。


「それがきみにできる? できるなら、もう止めないよ、ぼくも。そのときはぼくが傍にいて綾乃からきみを護る。どうする?」


 答えることもできずに、ただ瞳を揺らすのが、紫苑の答えだと惺夜も知った。


 何度目かわからない苦々しい嘆息が零れる。


「できないなら、綾乃の前に出ることは禁じるよ。いいね?」


 念を押す惺夜に頷くしかなかった。


 どうあっても態度を改めるとは言えなくて。


 噛み締める後悔だけが、胸の中で苦かった。


「きみは水樹の問題になると別人みたいだね、紫苑」


 苦いその声にハッとして顔を上げた。


 ためらうように顔を伏せた惺夜に何故か、胸が鋭い痛みを訴えて息が詰まる。


「水樹の話題のとき、水樹の前にいるとき、きみはいつもとはまるで別人みたいだよ。どうしてそんなに彼に固執してるんだ? この星にきてから、きみがもっと遠くなった気がして不安だよ。腕を離したら、そのまま姿を消してしまいそうで」


「惺夜」


 伸びてきた腕に抱きすくめられて、反射的に眼を閉じた。


 身体に食い込むほどの腕の力。


 惺夜がこんなに震えているのは初めてだ。


 こんなふうに震えて抱き締めるのも。


「怖がらせてごめん。おれはどこにも行かないよ。行かないから落ち着いてくれよ、惺夜。そんなに強く抱かなくても、おれはおまえの傍にいるよ。おれの心の半分はどんなときも、惺夜の傍に置いておくから」


「なんだかいやだよ、その科白。別れの言葉みたいで」


 惺夜がこんなふうに拗ねるのは、出逢ってから初めてだった。


 思わずクスッと笑い声が漏れる。


 ムッとした惺夜にまた抱く腕に力を込められて何度も謝った。


「惺夜もこっちにきてから、過保護に拍車がかかったし、独占欲も強くなったなあ。そんなことじゃ恋人できないぞ」


「別にいらないよ。疲れるから」


「そういえば経験済だっけ。故郷じゃ惺夜はモテたもんな。なんていっても憧れの皇子さまだし」


「余計なことは忘れていいよ。憶えていてほしくないし、ぼくも」


「かなり遊んでたもんな。惺夜は。何人くらい恋人代わったっけ?」


「余計なことは言わなくていいんだよ。今更あの苦労を思い出したくないんだから」


 不機嫌そうに抗議する惺夜に、すこし不思議な気がしたが、紫苑は笑って頷いた。


 申し込んできた令嬢全員と一定の期限付きで付き合った惺夜は、今では自分の行動を後悔している。


 不本意なことをしても、なんの意味もなかったのだと。


 あの頃、惺夜は幼かったこともあって、過剰な色眼鏡で見られることに我慢ができなくなっていた。


 令嬢たちが見ているのは、衛の実弟としての惺夜であって、惺夜個人を見ていないのだと気づいて。


 彼女たちが惺夜に求めていたのは、誠実で心優しい皇帝の実弟たる皇子の姿。


 だったら……と不誠実な真似を徹底した。


 そうすれば失礼な感想は持たれないだろうと思って。


 今思えば幼かったなと思うのだが。


 これで初恋もまだです、と言ったところで、おそらく紫苑は信じるまい。


 お願いだから、あの頃の話題は出してくれるなと、惺夜は苦い気持ちで黙秘した。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る