第22話
「あのね、兄上の子供……なんて名前?」
「第2皇子が桔梗さま。第1皇女が胡蝶さまと申されます。とてもよく似た顔立ちの双生児のご兄妹ですよ」
「桔梗に胡蝶。双生児の兄妹か。兄上のお妃になられた方は? どんな方だい?」
「ですからそのことについては、皇帝陛下ご自身からお確かめください。一臣下に過ぎないわたしどもに言えることではございませんので」
たしかに皇帝の妃について、個人的な意見は言えないだろう。
皇子や皇女の名を教えることはできても。
そのことに思い至り樹は、これ以上問いかけることを諦めた。
もうずいぶん長いあいだ逢っていない兄の身辺のことは、とても気になったけれど、一臣下に過ぎないふたりを困らせるのも気が引けたので。
「あれぇ? おれまだ夢を見てるのかな? いつのまにか家で、おまけに海里先生がいる」
夜半過ぎになって目を開けた遠夜は、海里の姿を見るなりそう言った。
「夢じゃないよ、遠夜君。憶えているかい? 下校中に襲われたこと」
「そういえば……おれ、車に跳ねられたんじゃなかった?」
身体のあちこちを触って、どこにもケガがないことを確かめると、遠夜はホッと安堵した表情になった。
「大丈夫。ギリギリセーフでぼくが助けたからね。車との接触も軽かったし、気にしなくてもいいよ」
「そうなんだ」
ホッとして遠夜が上半身を起こすと、クラリと目が回った。
どうやら嗅がされた薬の影響らしい。
「ほら。まだ無理しない。さっきまできみのお兄さんも付き添っていたんだけれどね。今は大地と一緒に食事中なんだ」
「大地さんと?」
もう一度ベッドに横たえられた遠夜が、海里の顔を見ながら訊ねた。
海里からの説明によればこういうことだった。
海里と大地が協力して黒幕は突き止めた。
今樹はその件でどう動くべきか考えているんだろうと。
「きみの護衛もぼくが引き受けたし。これからはぼくがきみの送り迎えをするから」
海里も大地も樹に信頼されるほどの武芸の心得があるのだという。
今回のことで樹から正式に護衛を依頼されたらしい。
申し訳ないなと遠夜は思ったが。
「海里先生って」
「なんだい?」
「うん。海里先生って時々、妙な言葉遣いをするよな」
「そうかな?」
「普通なら剣道って言うところを剣術って言うし、武道のことも武術って言うし。なんか樹みたいに特殊な環境で育ったみたいな気がする」
ごく普通の少年のように見えて、結構、観察眼は鋭いらしい。
そんなことを考えながら、海里はちょっとだけ拗ねてみせる。
まだなにも知らない遠夜にだけみせる顔だ。
これが正式に主君と臣下の立場だったら、こんな態度を取ったら不敬罪で即、首が飛ぶ。
皇帝はそんな些細なところまで計算に入れて、年齢の近い海里と大地を選出したのかもしれないが。
つまり近衛士官として護衛するだけでなく、友人や相談役も兼ねているということだ。
まあ今は憶測に過ぎないけれど。
「たしかにぼくらが育ったところは、すこし特殊でね。武術に関してはかなり盛んだった。そのせいでぼくらも幼い頃から、剣術や体術三昧の毎日だったね。
ここにきてからずいぶん楽になったかな? その分、重荷も背負い込んでるけど、それは自分にしかできない光栄な役目だと思っているし」
「海里先生って変わってる」
「そうかな?」
小首を傾げる海里は女生徒たちが噂するように、とても大学を卒業したばかりには見えない。
せいぜい大学生といった容貌の持ち主だった。
優しい色を浮かべた焦げ茶色の瞳、光の加減によっては漆黒にも見える不思議な。
ふと気づく。
彼の言葉遣いをどこかで聞いたことがある、と。
でも、何度顔を眺めても、その意味を思い出せなかった。
遠夜は気づかなかったが、海里こそ遠夜が逢いたいと思っていた恩人だった。
影から護衛するのが役目だったために、遠夜の前には顔を出せずにいた。
どうしても言いたかった一言を、遠夜は気づけなかったせいで言えなくなってしまった。
彼がすべてを知るとき、運命も動き出すのかもしれない。
自身の秘密をなにも知らない遠夜の瞳は無邪気である。
それだけに海里は痛々しかった。
この細く頼りない肩に全世界の命運がかかっているのだから。
クスッと遠夜が笑う。
「でもさあ、よくあの樹が認めたよなあ。前から疑問だったんだけど。案外、他人に対して冷たいところのある奴なのに」
「そうなのかい?」
「おれもつい最近まで知らなかったけど、樹って結構冷たい面があるよ。生徒会長と蓮を知ってるだろ、先生?」
「うん。秋月に栗原君だね。校内でも知らない者はいないくらいの有名人だね」
正確には人ではないのだが。
あのふたりは幻族を統べる幻将と、魔族をすべる魔将だ。
樹が警戒するのも無理からぬ話である。
特に魔将に関しては色々と思うところもあるだろうし。
紫苑の直接の死因は自分の制御から離れた風の竜の暴走によるものだが、その切っ掛けとなったのは紫だった。
本当なら犠牲になるのは紫のはずだったのだ。
紫を庇って紫苑が自分を標的にしたりしなければ。
だから、樹があのふたりに対して警戒を解けないのは、仕方のないことなのである。
そんなことは遠夜には言えないけれど。
彼はまだなにも思い出していないのだから。
「あのふたりに対しては別人みたいに冷たいんだ。おれもずっと近づくなって云われていて、ちょっと息が詰まるかな?
ふたりともちょっと変わったところはあるけど、樹が言ってるみたいにおれに害をするつもりはないみたいだし。それどころか、今日助けてくれたんだ。お礼……言えなかったなあ」
「明日、登校するのは無理だろうけど、次に登校したときに言えばいいじゃないか。あのふたりはそのくらいのことで、きみをきらったりしないよ」
なにしろ、紫苑といえば敵対している大将だというのに、魔物たちに慕われていたから。
それはあのふたり、魔将や幻将にも言えることである。
紫苑は敵味方を超えて、人々に好かれていた。
そのおおらかな人柄で。
魔物だからといって特別視しない紫苑に、敵方の魔物たちがかなり救われ、彼を慕っていたことは有名である。
だから、彼が個人でいるときには襲われたことはない。
人間を護るために敵対するときも、紫苑の相手になることをみながきらい、自然と散ってしまうことも多かったという。
考えてみれば紫苑という少年は、本当にふしきな少年なのである。
敵味方の区別なく愛される。
それが継承者の宿命だろうか。
「おれ……なんだか眠くなっちゃった。眠ってもいいかなあ?」
「この薬を飲んだら眠っていいよ。解熱剤が入っているから、すこし苦いかもしれないけど」
言われたとおりに薬を口に含み、水で飲み干すと、遠夜がベッドの中で身体を丸くした。
どうやら寝る体勢のようである。
寝るためのポーズが決まらないと眠れないという人種がいるらしいが、どうやら遠夜もそうらしい。
たぶん、毎日、身体を丸めて眠っているのだろう。
それはもしかしたら幼い頃に得られなかった母親や父親の愛情を求める、紫苑としての特徴かもしれない。
母親の体内にいるように見える。
紫苑は寂しいのかもしれない。
海里は紫苑がなぜ故郷を捨てる決意をしたのかは知っている。
言うのも辛いといった風情の皇帝から、直接打ち明けられたからだ。
その生い立ちはかなり悲劇的で、世界の頂点に立てる身分も、何不自由ない暮らしも意味を持たない。
紫苑は……孤独だったのだろう。
海里にはそれがわかる。
幼い頃、似たような境遇にいたから。
同情、ではない。
敢えて言うなら共感、だろうか。
もうひとりぼっちじゃないと、そう教えてやりたかった。
純粋に。
「きみと初めて言葉を交わした日のことを、ぼくは今でもはっきり憶えてるよ、遠夜君」
夕暮れの公園で膝を抱え、声を殺して泣いていた幼い子供。
近づいて声を投げれば「こわい……の」と答えてきた。
おそらく遠夜は憶えていないだろう。
もし憶えていても、あの頃に逢った「だれか」と海里が同一人物だなんて、想像もしないに違いない。
今の彼は普通の人間の認識しかないから。
それでもあの日から、涙で一杯の瞳で見上げられた日から、海里は心底から遠夜を救いたいと思ってきた。
護りたいと思ってきた。
これからはその誓いを果たすときだと心に刻む。
尊い少年がすべてを思いだし、傷ついたそのときも、助けになれるように自分を戒めながら。
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