第21話

 鳴るはずのないドアフォンが鳴り、樹は書斎で怪訝な顔になった。


 この住所を知っているのは、住居者の樹と遠夜、近衛として同居に近い生活を送っている海里と大地だけだった。


 一門の者にも知らせていないし、また所在も掴めないように色々と手を打っている。


 オートロックにしてあるから、セールスマンとかがくるはずもない。


 どうやってここまで上がってくるというのだ?


 外部からの接触は断っているのに。


 だから、来訪を告げるチャイムなど鳴るはずがないのだ。


 外からくる人間と言えば遠夜に決まっているのだから。


 外部からの接触を完全に遮断し、連絡もできないようにするために、侵入の容易な一軒家ではなく、防犯の万全なマンションを選んだ。


 だから、これはありえない事態なのである。


 遠夜なら鍵を使うはずだし、これが海里や大地でも同じ。


 この際、彼の思考の中には買い物が重すぎて、持ってもらいたくて鳴らすことがあるという、日常的な要素が欠落していた。


 樹の頭の中ではすでにこの2年で、遠夜といえば勝手に鍵を開けて帰ってくるものだという思い込みが成立していたので。


 まあこのときは当たらずしも遠からずだったわけだが。


 実は海里と大地が住むようになってからも、ドアフォンを鳴らしたことはなかった。


 合鍵のカードキーを貰っているので。


 しかし今は場合が場合である。


 遠夜は気を失って海里の腕に抱かれているのだ。


 これで合鍵で開けろと言われても困ってしまう。


 惺夜は生粋の皇族である。


 常識が少々異なっているのは仕方がなかった。


 しかし今の惺夜は単なる財閥の御曹司で、この日本の皇太子だというわけではない。


 なのにこの反応はあんまりではないだろうか。


 どうしろというのだ。


 遠夜は今もなお車と衝突したショックと、嗅がされた薬の影響で意識が戻らないというのに。


 それに最近のご体調から考えても、とても無事に成長しているとは言いがたい。


 皇帝陛下のご加護が必要なのだ。


 そのためには惺夜である樹にも、きちんと現実と向き合ってもらわなければ。


 そして先程別れたばかりの少年、隼人にも。


 彼のことを知れば皇帝陛下は如何程にお喜びになるだろう?


 もしかしたらご自身で地球まで迎えにいらっしゃるかもしれない。


 その前に遥か昔に展開された悲劇を知って、衝撃をお受けになられるだろうが。


「なんだ。まだそんなところにいたのか、海里」


「大地かい? ずいぶん早かったね。そんなに簡単に黒幕がわかったんだ?」


「ああ。だが、その話は惺夜さまの前でするべきだ。おまえは部屋にも入らずにここでなにをしているんだ? 紫苑さまのお手当てを優先するべきだろう?」


「それが惺夜さまが警戒しているのか、中から開けていただけなくて困ってたんだよ。こういう場合、どうすればいいんだろうね、大地?」


「簡単だろう? 開けてもらえないのなら合鍵で開ければいい。顔を合わせないわけにはいかないんだから」


 あっけらかんとした双生児の弟にそう言われ、海里は諦めまじりの嘆息を漏らした。


「この状態でぼくが開けられると思う? 両手が塞がっているんだよ?」


 言われて大地もそのことに思い至った。


 たしかに唯一扉を開けられる惺夜が開けてくれないとなると、両手が塞がっていて合鍵が使えない兄は困っていただろう。


 ここは大地の出番だろうか。


 渋々といった素振りで、大地は渡されていた合鍵で扉を開けた。


 できればこういう出過ぎた真似は避けたかったのだが。


 リビングへと続く廊下で樹がびっくりしたように大地を見ている。


「なんだ。大地だったのかい。一体どうしたんだい? ドアフォンを鳴らすなんて。後ろにいるのは海里かい? 遠夜? 遠夜になにがあったんだっ!?」


 海里の腕に抱かれ、ぐったりと意識をなくした遠夜を見て樹が血相を変えた。


 相変わらず彼のことになると見境がない。


 これが守護者故の反応だろうか。


「遠夜さまは下校中に和宮一門の者に襲われ、薬を嗅がされました。その後ご友人たちの協力で逃げようとしている途中で、また追手が現れ車道へと飛び出したのです、惺夜さま」


「そうか。とうとう一門の手が学園にまで」


「はい。大地が黒幕も突き止めましたが、とりあえず紫苑さまのお手当てを優先したいのですが?」


「そうだね」


「お話は後程ということでよろしいでしょうか? 紫苑さまは車道に飛び出した際に車に跳ねられました」


「なんだってっ!?」


 心配そうに顔を覗き込む樹に海里は優しい笑顔を向けた。


「ご安心ください。車との接触は軽かったのです。地面に叩きつけられる前に、わたしがお助けしましたし、今はショックと薬のせいで意識がないだけです。ですが元々の体力のことを考えると、的確な処置が必要かと存じます。上がってもよろしいでしょうか、皇子」


「どうぞ」


 気遣うことを忘れていた自分を責めながら、樹はリビングに向かった。


 リビングに移動すると海里はテキパキと手当てを始めた。


 そういった知識を持っているのか、それは見ている樹が感心するほど手際がよかった。


「薬がかなり強かったようですね。車との接触のショックも確かにありますが、今、意識が昏例しているのは、間違いなく薬の影響です。一門の者はどうしても遠夜さまを捕らえたいのでしょう。そろそろその正体についても、疑惑を持たれている頃でしょうし」


 海里がそう言って樹が苦い表情になると、それを肯定するように大地が話しだした。


「かなり深く疑われているようです。今回の黒幕は伊集院家でしたから」


「義信か?」


 目を伏せ考え込む仕種を見せる樹に、大地は無言で頷いた。



「指図をしたのは息子の静也の方ですが、命令したのは義信のようです。失敗した後で静也は義父に謝罪していましたから」


「事件が起こってそれほど時間は経っていないんだろう? よくそこまで調べられたものだね。感心するよ」


「惺夜さま。我々は皇帝陛下直属の近衛士官なのですよ? この程度のことに手こずるようでは務まりません」


 皇帝直属の近衛士官の実力を知っている樹は肩を竦めてみせた。


 その中でも特に選ばれて派遣されたということは、このふたりは卓抜した能力を持つエリートということになる。


 ならばそのくらいのことは朝飯前のはずだ。


「一門からの離脱も本気で考えるべきでしょう」


「紫苑さまのこともありますし。一門の中にいることは、惺夜さまの御身のためにも紫苑さまの御為にもなりません。できれば早急に一族から離反していただきたいのですが」


 大地の言葉に樹が驚いていると、海里がたしなめる声を投げた。


「また大地は結論から話し出す。せっかくぼくが上手く話を運ぼうとしているんだ。大地はしばらく黙っていて。いいね?」


 兄として発言する海里に樹はまた驚く。


 彼が命令口調で話すとは思わなかった。


 もしかしたら近衛士官としての発言だったかもしれない。


 大地の上官としての発言だったのかも。


「惺夜さまは一族の元にいることで、心の平安を得ることができましたか?」


 心の中を見透かしたような問いに樹は答えられない。


「遠夜さまの正体についても、一門の者が知ったら放っておかないでしょう。力が完全に戻っていない遠夜さまにとって、それはあまりに危険なことです。違いますか?」


「たしかに。今日のようにぼくがいないときを狙って襲ってこないという保証はないし、一族から離反することが1番理想的だということはわかっているよ。だけど、ぼくは和宮樹だ。もう惺夜ではないんだよ?」


 困惑した問いかけに海里は微笑んで答えた。


「覚醒していないだけですよ。惺夜さまも紫苑さまも覚醒されれば、お姿は生前のものに、つまり本来のお姿に戻られますから」


「そうだったのか?」


 自分のことでも知らないことはあるのだと、樹はそんなことを考えていた。


 惺夜として覚醒することが、なにをもたらすかなんて考えたこともなかった。


 一族と敵対している現実ばかり意識していたので。


 今までの樹にとって惺夜として覚醒するということは、一族に処罰を与える断罪のときを意味した。


 そのとき、自分がどうなるかということは、全く意識していなかったのである。


「紫苑さまにはどうあっても、故郷へご帰還頂かねばなりません」


「兄上になにかあったのか?」


「いえ。これといって特に」


 皇帝のご即位はたしかに早かった。


 それはおそらく次代を継ぐべき紫苑が、それを厭う運命を持っていたからだろう。


 紫苑が受け継ぐまでに時間がかかるため現皇帝は、幼いと呼んでも差し障りのない年齢に即位したのだろう。


 しかしあれからすこしの年月が流れている。


 幾ら皇帝が普通人と比べて成長がゆっくりしているとはいっても限界はある。


 特に紫苑はその養育の途中で、故郷を捨てている。


 皇帝として即位するために覚えなければならないこと、やらなければならないことがたくさんある。


 そう説明され、樹も納得するしかなかった。


「それに皇帝陛下が得られた弟君や妹君とのご対面も叶えてさしあげたいですし」


「兄上に子供が? 兄上は婚礼を挙げられたのか?」


 これには驚いてしまった。


 惺夜が故郷にいた頃、兄は特定の令嬢と付き合うことができずにいた。


 外見は惺夜の実兄だけあって、美形を見慣れた樹が思い出しても、比較対象がないほどに完璧だった。


 過去最高の支持率を誇る名君でもあり、そういう意味では候補には事欠かなかった。


 しかし、これが全く縁がなかったのである。


 それというのも兄の守護者に当たる従兄弟の翠が、徹底的に邪魔して回ったからである。


 兄を、継承者を独占したくて、兄がそういうことに意識を向けようとしても、ことごとく邪魔して回っていて、当時の兄はかなり呆れているようだった。


 それが婚儀を終えて子供もいる?


 嘘みたいである。


 よく翠が認めたものだとしみじみしてしまう。


「はい。おふたりがお生命を落とされ、しばらくしてからのことでした。詳しいことは陛下ご自身の口からお聞きしてください。わたしの口からお話しするようなことではございませんので」


 それはつまり惺夜である樹にも、覚醒すれば帰還するように願っている、ということだ。


 樹にしてみれば、紫苑が、つまり遠夜が帰還すると言えば、故郷に戻ることになんら抵抗はなかった。


 元々、惺夜が故郷を捨てたのだって、紫苑がこれ以上は我慢できないと出奔する覚悟を決めたからだった。


 だから、その紫苑が、つまり遠夜が構わないと決断したなら、反対する気はないのである。


 それにそれほど地球に未練があるわけでもないし。


 一族から離れることは樹の願いでもある。


 だが、それは紫苑として覚醒することを拒んでいる遠夜に望むには酷な気がした。


「きみたちの意見もよくわかるけれどね、遠夜がなんて言うかな? 紫苑として覚醒していない今、そんなことを言っても信じられないだろうし、紫苑として覚醒したら逆に帰還を拒むと思うよ。そのくらい紫苑は継承者である自分を否定していたから」


 その生い立ち故に。


 樹が口に出さない理由は海里も大地も知っている。


 別に紫苑は意味もなく世継ぎとしての自分を否定し、その境遇を厭ったわけではないのだ。


 それほど頑なになる原因がある。


 それは紫苑の出生に纏わる悲しい物語だった。


 それ故に紫苑は自分の知らないあいだに、築き上げられた虚構の境遇を受け入れることができずにいて、ずっと義父にも反抗してきていた。


 それが故郷を捨てる決意にまで変じてしまったことにも、きちんとした意味があった。


 樹がそれを憶えているかどうかは知らないが。


 これがただ普通に継承者として見出だされ、皇帝に引き取られた歴代の世継ぎと同じ立場だったなら、紫苑もここまで自己否定を強くすることはなかっただろう。


 彼の境遇は歴代の世継ぎの中でもかなり悲劇的で、義父である皇帝はそれを悟られまいと、懸命に隠してきていた。


 だが、ある日、紫苑はそれを知ってしまい、自分が安穏と暮らしてきた影で、孤独と絶望を強いられていた人がいたことを知ってしまった。


 忘れられなかった大切な人の悲劇。


 それを築いたのが自分だという現実を、紫苑は受け入れることができず、結果として故郷を捨てる道を選んだ。


 すべての結果をただ見ていることしかできなかった皇帝が、自分のせいだと自責の念に駆られる気持ちもわからないわけではない。


 だれが悪いなんて言ってみても始まらない悲劇だと思うのだが、人の気持ちというものは当人にもどうにもならない。


 そういう意味では皇帝もまた被害者のひとりだった。


 そのことに遠夜や樹が気づいてくれればいいと、海里はそう思った。


「それでもご決断頂かなければなりません。惺夜さま。もし紫苑さまが皇帝位を継がれないまま、兄上さまにもしものことがあった場合、世界はどうなると思われますか?」


「滅ぶだろうね」


 譲れないそれが故郷の理だった。


 望めばだれでも皇帝になれるなら、継承者は必要ないのだから。


「世界が必要としているからこそ継承者なのです。紫苑さまにもそのことをわかって頂かなければなりません。これからはひとりで苦しまなくて済むように、わたしたちがお傍に控えているのですし」


「つまりなにかい? きみたちはぼくらが帰還した後も、現在の任務を続行するということかい?」


「それが皇帝陛下よりの命ですので」


 やはりこのふたりは後の近衛指揮官とその副官なのだ。


 衛はそのつもりでこのふたりを派遣したのだろう。


 自分たちの護衛につけておくのも、紫苑が皇帝を継いだとき、信頼できる側近を与えるためだ。


 相変わらず衛は紫苑に甘い。


 それが通じないのが気の毒なほどに。

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