第19話

「どうしたの? どうして泣いているの?」


 たぶん、見上げたんだと思う。


 相手の顔も覚えていないけれど。


「こわい……の」


「なにが怖いの? 怖いものなんてなにもないよ?」


 そう言ってその人は遠夜を抱き上げてくれた。


 背中を叩いて、そうして公園の高台にまで連れていき、眼下に広がる光景を見せてくれたのである。


 あのときの感動は一生、忘れないだろうと思う。


 夕焼けに染まった空はとても綺麗で、茜色に包まれた街は穏やかだった。


 恐れるものなどなにもない。


 そう言ってくれた言葉通りに。


「君さえ勇気を持てば、手に入らないものなんてないんだよ? 可能性は無限なんだから。どれほどの望みを叶え、どれほどの夢を叶え、自分のものにできるかは、君次第なんだから。怖がったらダメだよ? どんなに苦しくても逃げたらダメなんだからね?」


 なにが言いかったのか、幼子が理解するには、あまりに難しすぎて遠夜は、ただ、「うん」と頷くことしかできなかった。


「この夕焼けを忘れないで。君にどんなに辛い過去があっても、どんなに悲惨な記憶があっても、それに負けないために」


 そう言ってくれた「だれか」は、遠夜を両親がいる至近距離にまで連れて戻ると、いきなり姿を消してしまった。


 駆けつけた両親に抱きしめられて、無事を喜んでいる家族の姿を、影からそっと眺めてその人物は立ち去った。


 そのときの記憶は薄れることなく鮮明なままで、遠夜も何度か挫けることなく頑張ってみようとした。


 あの人の言葉が嘘だとは思えなかったし、自分でも理解不能な感情に引きずられて、友達ひとりできない。


 だれひとり信じられない。


 そんな境遇から抜け出したかったから。


 でも、どんなに頑張っても親しくなってくると、自分にもどうにもできない拒絶反応を引き起こし、周囲を拒絶してしまう悪癖は直らなかった。


 深入りしすぎる前に、立ち入りすぎる前に、遠夜は自分から遠ざかってしまうのである。


 その度に遠夜が泣いていることも、父も母も知っていた。


 どうやっても癒せない心のキズがある。


 そう気づいた両親はこれ以上、遠夜の心のキズが深くならないようにと、そういったことを無理に押し付けることはやめてしまった。


 正確にいえば友達を作って、もっと人との付き合い方を覚えなさいといったようなことを、一切言わなくなってしまったのである。


 ひとりぼっちになると遠夜の心は落ちついた。


 あの日、励ましてくれた「だれか」の言葉を思いやりを無視したようで、そのことは気になったし罪悪感も覚えたけれど。


『もうこれでだれもきずつかない。ちかづきすぎなければ、こころをあずけなければきずつけることもないから』


 ふと零れた心の声に遠夜は驚き、そうして泣きそうに顔を歪めた。


『もっと心を開いてほしいよ』


 それはひとりの言葉ではなく、何人もの願いに聞こえた。


 人と付き合うことを自分へと戒めとした遠夜には。





 財政界では和宮一門の存在は確かに大きいが、その特異性を思うと秘された一面が強い。


 神秘の一族というわけだ。


 だから、表の結城、裏の和宮と言われる。


 結城財閥という日本を代表する財団があるのだが、その結城財閥を表の顔として、裏で牛耳る一族である和宮一門のことを裏の和宮と呼ぶのだ。


 ふたつの一族はほぼ互角の財産を所有すると言われているが、実際のところ影で暗躍する和宮一門が、表の顔で得る利益と裏の顔で得る利益を合わせると和宮家のほうが上だった。


 滅んでしまった一条家の財産は、反乱と同時にどこかに消えてしまっていて、今では宙に消えた形になっている。


 和宮一門にさえ匹敵するだけの財力を誇っていた一条家である。


 その遺産はかなり注目されていて、その遺産を取り戻すために一条隆司を追っていると言っても過言ではないだろう。


 彼は天才と言われた青年なので。


 資産の管理も彼がやっていたのだ。


 逃亡の際にそれらをどこかに隠し、一門の手に渡らないようにして逃げてしまっていた。


 つまり一条家の遺産はすべて隆司が持っているのである。


 話がずれてしまったが、そこまで特殊な立場に立つ和宮家と、匹敵する名門として名高いのが、表の結城、裏の和宮と呼ばれる結城財閥だった。


 結城財閥はつい最近会長が代わった。


 先代が亡くなり長男である冬馬氏が後を継いだのだ。


 冬馬には年の離れた弟がいる。


 幼いころよりずっと海外留学をしていた隼人という少年が。


 年は16。早生まれの高校2年生に当たる。


 ただし帰国子女なので日本では高1になるが。


 冬馬が27歳であることを思うと、かなり年が離れているのだ。


 冬馬にしてみれば可愛くて仕方のない弟なのである。


 その弟を留学先から呼び出し対面したばかりの冬馬は、隼人の冷たい視線に冷や汗を流していた。


「さて。ぼくに黙って退学届を出して、こんなところまで呼び出した理由を聞かせてもらいましょうか、兄さん?」


「いや、その。どうしてもきみに頼みたい仕事があってね。それは海外にいてはできないから、それでつい」


「ついですみますかっ!! そんなことでぼくに無断で退学届を出して、ハイスクールを退学させてっ!! 会社運営の手伝いなら海外でもしていたし、的確な指示を出していたはずですっ!! それを今頃になってっ!!」


 隼人の怒りはおさまらない。


 冬馬は恐る恐るといった感じで、本題を切り出してみた。


「いや、それがその……和宮家に関することなんだ」


「和宮一門の宗家ですか?」


 意外だと隼人の顔に書いている。


 一応、弟が怒りをおさめてくれたので、冬馬はほっとしながら微笑んだ。


 まるで揉み手でもやりそうな猫撫で声で弟に説明する。


「そう。その宗主に不可解な言動が起きていてね」


「というと?」


「2年ほど前から本家から逃げだしてしまって行方をくらましている」


「それはまた奇妙な行動ですね」


 一族の当主が一族から逃げてどうするのか。


 同じ財閥の御曹司に生まれた隼人にはそう思えた。


 まあ和宮樹と言えば政財界のプリンスと呼ばれた人物だし、幼い頃より天才の呼び名を欲しいままにしていた少年である。


 その言動が多少奇妙でも不思議はないのかもしれない。


「宗主が行方をくらました頃に和宮樹氏は養子を迎えていてね」


「彼は17でしょう? まだ養子を迎えることはできないはずですが」


「義弟として迎え入れたのだよ。彼を引き取ったとたんに本家から逃げ出してしまったんだ」


 なんとも相槌の打ちようのない打ち明け話に隼人は黙秘を通した。


「影から調べた結果その義弟が通っている高校を突き止めた」


「それはなんですか? 暗にぼくにその義弟に近づけということですか?」


 眉間にシワを寄せる隼人に、また彼が怒り出さないかと恐れながら、冬馬氏は殊更明るく同意した。


「まあ早い話がそういうことだ。できるだけ彼に近づいて、なんとしても和宮樹氏に近づくための足掛かりを作ってほしい」


「彼はまだ政財界の表には顔を出していないんですか?」


「残念ながら、な」


 樹は政財界のプリンスと呼ばれているが、だれも樹の顔さえ知らない。


 樹は小さい頃から政財界に顔を出したことがないのだ。


 また一門の者も樹を外に出すことをきらっていた。


 だから、近づきたいと思っても近づけないという現状だったのである。


 それを崩せる唯一の機会が巡ってきたのだ。


 冬馬としてはなんとしても彼の義弟に近づき、樹に近づくための足掛かりがほしかった。


 年齢的に義弟と近い年齢の隼人しか適任はいなかったのだ。


 隼人がそういった汚い裏工作がきらいなことを承知していても。


「……どうせもう転入手続きも済ませてしまったんでしょう?」


 諦めきった口調に弟に弱い冬馬が、意味もなく明るい笑い声をあげる。


 怒られることが怖いのか、その視線はすこしだけ外れていた。


「それでぼくはどこの学園に通えばいいんですか?」


「認めてくれるのかっ!? いやあ。ありがたい。隼人以外に適任がいなくて困ってたんだよ」


「でも、上手くやれるとは思わないでくださいよ。ぼくはそういった裏工作は苦手ですから」


 わかってる、わかってると冬馬が頷く。


 本当にわかっているのかと、隼人はちょっと不安になった。


「隼人が通う学園は藤崎学園という」


「藤崎学園? あの和宮の宗主が代々理事長をやっている学園ですか?」


「灯台もと暗しという奴だな。一門の者もまだ気づいていないらしい。邪魔が入るまでになんとか頼むよ、隼人」


「わかりました。でも、本当に期待しないでくださいよ」


 くどいほどに念を押す隼人に、冬馬は明るく笑うだけだった。


 さっきもそうだったが、本当にわかっているのかと隼人は不安だった。


 過剰な期待をされているような気がして。





 隼人が藤崎学園に転入したのは、その翌日のことだった。


 義弟のデータももらっている。


 学園での名前は宮城遠夜。


 写真ももらったが、たいそう顔立ちの整った少年だった。


 いわゆる美少年という奴だ。


 写真は学園での彼を盗み撮りした物で、ちょっと斜めを向いていたので、正確な顔立ちはわからないのだが。


 宗主が手を出さないという利点を利用し、隼人は遠夜と同じクラスに編入してきていた。


 そう裏工作を行ったのである。


 そうして転入してすぐにだれが宮城遠夜なのか、隼人は気づいた。


 どこか暖かく懐かしい感じのする少年が、ちょうどクラスの中央の席に腰掛けていたのだ。


 顔立ちなんてわからなくても、彼が宮城遠夜、和宮遠夜なのだとわかった。


 涙が出てきそうで困る。


 魂が震える。


 彼の姿を見るだけで。


「結城隼人です。幼い頃から海外で暮らしていましたので、日本の暮らしにもまだ慣れていません。これから色々とご面倒をかけると思いますがよろしくお願いします」


 礼儀正しく隼人が頭を下げたとき、遠夜の隣の席で蓮が怪訝そうな顔をしていた。


 そんな悪友の態度に気づき、遠夜が担任(当然、海里のことである)に聞かれないように彼に訊ねた。


「どうしたんだ、蓮? 変な顔して」


「いや。あいつもしかしたら結城財閥の御曹司かもしれないぜ」


「どういうことだよ?」


「名前までは俺も知らないけど、結城財閥の次男は幼い頃からずっと海外で暮らしていたんだ。帰国したって噂はまだ聞かないけどな。

 結城財閥と言えば表の結城、裏の和宮と呼ばれる日本の二大財閥だ。遠夜にとって無視できない存在ということだな」


 自分から家族構成などを打ち明けたわけではなかったが、蓮は遠夜の事情に通じているようだった。


 以前に聞いた話だと、どうやら樹と古馴染みらしいのだ。


 つまり樹絡みで遠夜のことも知ったということである。


「もしそうだとしたら狙いはおれかな?」


「たぶん。おまえの兄貴は生まれてから一度も社交界に姿を見せたことがないんだ。政財界のプリンスと呼ばれていても、だれもその実態を知らないんだ」


「へえ」


 樹は秘密主義というか、とにかく自分からはなにも打ち明けない。


 特に一門に関して遠夜が関心を抱くのをきらう。


 そのせいで遠夜は犯罪まがいのことまでして一門の情報を集めていたが(簡単に言えばハッキングだ。コンピューター回線を利用したのである)蓮も時々、意外な情報を提供してくれる。


「どこの財閥だってあいつに連絡を取って親しくなりたくて仕方がないのさ。和宮家の膨大な財産を受け継ぐプリンスにな」


「その例えはどこか変だと思うよ。樹はプリンスじゃなくて、すでにキングだし、財産を継ぐんじゃなくて、もう継いでるんだから」


「そりゃそうだ相手はもう和宮の御曹司じゃない。宗主だもんな」


 アハハと笑う連に遠夜も笑い返した。


 そのときだった。ふたりの私語に気づいていたように海里が問題発言をしたのは。


「秋月」


「なんだよ?」


 教師を教師とも思わぬ態度である。


 遠夜は自分に対するときの蓮があまりに親切なので、うっかり見逃してしまうのだが、こういうときに彼の素顔を知る。


 三無主義を地でゆくタイプ……か。


 どうして遠夜に対してだけ態度が違うのだろう?


 遠夜がそんな意味もないことを徒然と考えていると、海里が明るく話しだした。


 蓮の不遜な態度に怒った素振りも見せずに。


「悪いけど結城君と席を代わってくれないかな?」


「なんで俺が……」


「秋月の隣は宮城君だろう? 彼も転校早々だけどクラス一の頭脳の持ち主でもあるからね。帰国子女の結城君に古文や漢文を教えてやれるのは、彼だけだと思うんだよ。手間だろうけど頼めるかい、宮城君?」


 すでに蓮が席を代わるものとして話している海里に、遠夜は呆れつつも頷いた。


 確かに幼少より海外で暮らしていたのなら、古文や漢文なんて「これ、なに?」の世界だろうから。


 だれかが教えてやらなければならないのなら、このあいだの抜き打ちテストで主席を取った遠夜が適任だという海里の主張にも間違ったところはない。


 逆らう要素が見つからなかったというのが本音だった。


 蓮が隣からいなくなるのは寂しかったが。


 授業中でもしょっちゅう雑談をしていたので。

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