第18話


 夢を……見ている。


 故国へと向かう飛行機の中で、少年は目を閉じてうなされていた。


 自家用ジェットなので、彼以外の乗客はいない。


 不本意な帰国にふてくされて眠ったのだが、すぐいつも見ている夢を見た。


 遠い、遠い昔。


 歴史に存在しない世界。


 空を駆けていた少年がふと振り向いて、そうして唖然とその黒曜石の瞳を見開いた。


 声も出せない突然の再会。


 ありえないはずの、絶対起こらないはずの事態。


 動揺してなにも言えなかった。


 助けにきたと思った美女が、満面の笑みを浮かべて駆け寄ってくるが、それさえも理解してはいなかった。


 意識を占めているのは目の前の少年だけで。


 地に降り立った彼の元にさっきから声を投げていた長い髪の少年が駆け寄って、心配そうにその名を呼んだ。


 たった一度だけ耳にした彼のもうひとつの名前を。


 そうして気づく。


 長髪の少年に見る面影が、ある人に似ていることに。


 忘れようとして恨もうとして、どうしても思い切れなかった人に、彼はよく似ていた。


 そうして思い出した。


 あのころに聞いた噂話を。


 では、やはりとじっと睨みつけてくる黒髪の少年を凝視した。


 なにも言わない。


 でも、憤った瞳で睨みつけてくる。


 裏切りだとその端正な顔に書いていた。


 言い訳などできない。


 自分はここにいて彼との約束を反古にした。


 それを裏切りだと訴える気持ちも理解できる。


 だが、もしこの現状で裏切りだと思っているのなら、それは間違いだと叫びたかった。


 彼以上に大切な人などいない。


 身代わりは「彼女」の方だった。


 突然、気づいてしまった自らの失態に愕然とした。


 意識していなかった現実の意味を、彼との再会が教えてくれて。


 そうして睨みつける瞳にみるみる涙が溢れる。


 悔しそうに悲しそうに彼は泣いた。


 たった一滴だけ頬を伝っていく涙。


「っ!!」


 彼の名を叫ぼうとして目が覚めた。


 肩でつく息が荒い。


 夢だった。


 幼いころから繰り返して見ている夢。


 場面は次々と移り変わり、それがいつを意味するのか、それを把握するのも難しいほど、16年の歳月をかけて、繰り返し見ていた悲しくて辛い夢だった。


 この夢を見た後はいつも息が荒い。


 夢の中の自分とシンクロしているようで、夢で感じた感情を抱いたまま目が覚める。


 額から冷たい汗が滴り落ちた。


 再会の場面を夢に見たのは久しぶりだった。


 様々に移り変わっていく夢の中で、もっとも辛くもっとも切ない夢。


 あのときの胸の痛みは何度、夢で見て再生されても慣れない。


 あのとき、夢の中の自分はなにひとつできなかった。


 駆け寄っていって彼に謝罪することも、自らの行動の意味を説明することさえも。


 そうして再会し別れた後の夢も見た。


 何度も何度も途切れることなく。


 あの後で夢の中の自分は、激しい葛藤を抱えてひとり湖へと赴き、その拳が血で濡れるほど慟哭した。


 魂が泣き叫んだ。


 もう二度と泣けないと、泣き方なんて忘れてしまったと思っていたのに、あのとき、自然と涙が溢れた。


「裏切ったわけじゃないと言いたかったのに……」


 夢なのか現なのか。


 そんなことすらわからなくなる。


 気を抜けば今だって泣いてしまいそうだった。


 再会を夢に見た後はダメだ。


 心があの夢の中の自分に戻ってしまって、どうやっても平静を保てない。


 何度、拭っても額を濡らすいやな汗はひかない。


 もう一度、眠ったらまた夢を見るだろうか。


 それとも見ずに済むんだろうか。


 できればもう見たくなかった。


 心を休ませなければ疲れが取れない。


 兄に逢う前にすこしでも眠っておこうと目を閉じた。


 もう夢を見ないようにと自分に言い聞かせて。





「相変わらず無防備だね、紫苑は」


 そう声を投げれば湖の畔に座っていた紫苑が、ふと振り向いて不機嫌そうに答えた。


「水樹には関係ないだろう」


 水樹と呼ばれた青年は、すこし笑ってみせた。


 お互いに敵対する陣営の王ともいえる立場である。


 普通なら許されない接触なのだが、そのふたりがこうして内密の内に逢っているのは、今では公然の秘密となっていた。


 ただしそれは魔物のあいだでは、と注釈がつくが。


 人間たちは知らないし、向こうの陣営でそれを知っているのは、紫苑の守護者たる惺夜だけだ。


 来訪から250年ほどが過ぎた今、紫苑の存在価値も大きく変わってきていた。


 鬼族を除く魔物たちにとって、現在の紫苑は救いであり唯一の希望であった。


 魔物だからと特別視をしない、差別もしない彼は魔物たちにとって特別で、すでに敵ではなかったのである。


 敵対する姿勢を崩していないのは、鬼族だけという有り様だ。


 それには水樹が深く関わっているのだが。


「ここはわたしたちのテリトリーだから近づいてはいけないと、いつも忠告しているはずだけれどね?」


「それに従う謂れはないな」


 振り向きもせずに返される答え。


 明るくて物怖じせずに、だれにでも屈託なく接すると評判の紫苑らしくない素っ気ない態度。


 その意味に水樹はやるせない気分になる。


「紫苑。きみ、すこし痩せたんじゃないのかい?」


 皇帝の庇護の元から離れて250年。


 まだまだ成長途中にある子供そのものの紫苑である。


 ある意味でそれは自殺行為と言えた。


 彼が認めたのが不思議なくらい無謀を通り越している。


 指摘された紫苑は、ちょっと不機嫌そうに水樹を見上げただけで、別になにも言わなかった。


 再会したときも細かった。


 幼い頃の面影をそのまま残して成長していた。


 だが、最近の紫苑はわかりにくいように注意はされているが、水樹の目には痩せてきているように見受けられた。


 気づかれにくいように、彼は彼で気を使っているのかもしれないが。


 そのくらい明確な変化が起きている。


「すこしくらいわたしの話にも耳を傾けてほしいよ。きみを心配して言ってるんだから」


「よけいなお世話だ。おれのことを気遣う余裕があるなら、妃である綾乃を気遣ってやるんだな。迷惑を被ってるんだから」


 水樹が反撃しないせいでと紫苑の皮肉な口調が言っている。


 たしかに水樹は紫苑とは敵対していない。


 攻撃を仕掛けられても反撃したこともない。


 それでも大ケガを負ったことはなかった。


 その意味に水樹は気づいている。


 最後の最後で紫苑が迷うからだ。


 傷つけることに迷うから、自然と力を制御して大ケガはさせないように振る舞っている。


 自分でも無意識らしいが。


 そうでなければ継承者の攻撃から、軽症を負うだけで済むわけがない。


 そしてたぶんこのことには惺夜も気づいているだろう。


 これだけ一方的な戦いを展開していながら、どうして水樹が深手を負わないのか、その意味には。


 継承者に対する独占欲が強いのが守護者の特徴である。


 惺夜が水樹をきらっていることは知っていた。


 別に気にならないが。


 水樹にしても彼の存在を受け入れることは、かなり難しいことだったので。


「許してほしいとは言わないよ。けれど、きみを気遣うことくらいさせてほしい。あまり無茶をしてはいけないよ……葉月」


 最後の最後で迷うように付け足された呼び名に紫苑が反応して顔をあげた。


 その顔はどこか反抗してじゃれている子供のようでもあった。


「裏切ったわけじゃない。他にはなにも望まない。だから、それだけは信じてほしい。わたしはきみを裏切ったわけではないから」


 真摯に繰り返される説得。


 だったら何故……と言っても意味のない問いが口から飛び出しそうになる。


 だったら何故紫苑を捨ててこの星にいたのか。


 まして永住する覚悟でも決めているように妃を迎えていたのか。


 あの日、自分の出生の秘密を知って、どれほどの涙を流したか。


 これがその結果なら受け入れられるわけがない。


 かたくなに拒んだ瞳を向ける紫苑に水樹はやるせなく微笑む。


 その様子は紫苑との触れ合いで、絶対にわかり合えなかった、衛とのやり取りを再現しているようであった。


 結局、1番優柔不断なのは自分だと、紫苑はだれよりも知っている。


 迷惑だと言いながら水樹を突き放さないままでいる。


 引き換えに望んだ現実を前にして、今度は過去を振り切れないでいる。


 バカげてる。


 衛の元を去ってから気づいても遅いのに。


 夢は夢のままで現実にはならないのだと気づくのが遅すぎた。


 でも、わかっている。


 あのまま故郷にいても、この現実には気づけなかったこと。


 ずっと衛を否定して過ごしていたはずだ。


 家族として受け入れることなく。


 いったいなにをしているのか。


 言葉にならない想いが瞳に揺れる。


 同じ黒曜石の瞳でふたりは無言で向かい合っていた。


 お互いに手を伸ばせば触れられる距離にいて、それでも触れ合うことができずに。


 近い将来、ふたりの関係が大きく変わることになると、この時点ではふたりには知る葦もなかった。





 物心ついた頃から、すでにだれかに追われる生活だった。


 同じところに長く住めなかったし、学校に通っている余裕もほとんどなかった。


 それでも何度かに一度は人と親しくなれそうなときがあった。


 1番最初の思い出は、おそらく普通なら幼稚園児と呼ばれる年頃の、あの忘れられない出来事だろう。


 あの頃は1番追跡が激しい時期だったが、同時に一度姿を眩ますと巧く人に紛れることのできた時期でもあった。


 だから、父や母に付き添われて公園通いをやったのだ。


 普通なら母親に付き添われた幼児の組み合わせだが、遠夜は家庭の事情が事情だったので、常に父親同伴であった。


 もちろんなにか事が起こったときに、即座にその場から逃亡するためである。


 言ってみれば父は護衛なのだ。


 母と遠夜の。


 だれにも言えない家庭の事情だけに家族の絆はだれよりも強い。


 遠夜はそんな父を誇りにも思い、父の傍に寄り添う母が大好きだった。


 なのに……拭いされない孤独感。


 真っ暗なところに自分ひとりでいるような、そんな奇妙な違和感と孤独感に遠夜は幼い頃から悩まされていた。


 これらの感想は追跡される境遇とは無縁の、自分でも意味のわからないトラウマのようなものである。


 そのことをはっきり自覚したのが、この事件であった。


 公園での1番の楽しみといえば、やはり滑り台にブランコ、そして砂場遊びだろう。


 弱肉強食というのか、そういう世界にもそれなりのルールがあるようで、当然ながら新参者の遠夜はいい顔をされなかった。


 何度か爪弾きにされて遠夜はそれを横目で見ていた。


 何故か近づこうとは思わなかった。


 なんとなく。


 本当になんとなく自分はいつもこうして、元気に遊ぶ健康な子供たちを黙って羨ましそうに眺めていたような……そんな気がしたからだ。


 首を傾げて見ている。


 でも、振り向いてそこにいるはずの人がいないような気がして、不意に泣きそうになる。


『どうしたの? どうして泣いてるの?』


 そんな声が聞こえた気がして振り返る。


 でも、そこにはやっぱりだれもいない。


 また……泣きそうになる。


 父も母もそうやってしり込みする遠夜に特になにも言わなかった。


 ただ黙って見守ってくれていた。


 やがてそうやってひとりぼっちで立ち尽くす遠夜に興味を持ったのか。


 それともただ親切な子供だったのか。


 性別すらはっきりとは憶えていないのだが、ひとりの子供が近づいてきて遠夜に声を投げた。


「いっしょにあそぼ?」


 差し出された手と笑顔を見比べて、遠夜が戸惑っていると両親が背を押してくれた。


 戸惑いながらも差し出された手を取って、遠夜は初めて滑り台やブランコ、それに砂場遊びなどを覚えた。


 最初は楽しかった。


 泥んこになって遊ぶのも。


 でも、ひとり、ふたり。


 親しい友達が増えてきて遠夜が輪の中心になる。


 その頃には遠夜はガチガチに強ばって、身動きができなくなっていた。


 何故なんてわからない。


 ただ本能的にこれ以上近づいてはならないと、深入りしたら自分も相手も傷つくと、そう思って泣き出してしまった。


 母はともかくとして父の運動神経は人間離れしている。


 なのに遠夜は泣き出して逃げ出したとき、追いかけてきた父を、無意識に振り切ってしまったのである。


 どこをどう走ったのか、気がついたときには、見慣れない公園にいた。


 いつも遊ぶ公園とはすこし趣が違って、子供向きというよりも、大人の憩いの場所、という感じだった。


 そうしてそこで初めて泣いた。


 踞って膝を抱えて声を殺して泣いた。


 それはたぶん冷静に観察できる者がいたら、とても子供にできる泣き方ではないと、そう言っただろう。


 声を殺し感情を殺し、なにもかも封じようとするかのように、ただ鳴咽すら呑み込んで泣いている。


 その姿は子供らしさとは無縁であったから。


「ひっく。ひっく」


 しゃくりあげて泣いている間、遠夜はどうしてこうなったのかを考えていた。


 親しげに笑いかけてくれた友達の笑顔が浮かぶ。


 そうして即座に反応する、歓迎される友情に対する拒絶反応。


『わたしの前にいるときのきみは、泣いているか、怒っているか、どちらかだね』


 悲しそうな声が聞こえる。


 切なそうな瞳が脳裏に浮かぶ。


『泣いてはいけない。どんなに辛くても、それは永遠には続かないのだから』


 優しくしてくれる声。


 脳裏に浮かぶ微笑み。


 なのにその優しい言葉の数々が、慰めようとしてくれる微笑みが、遠夜にとっては一歩も前に進めなくなるような足枷なのだった。


 その後のことはよく覚えていない。


 鮮明なのはそのときに交わした会話。


 泣いてばかりいる遠夜の元に、だれかがきてくれて話しかけてくれたのだ。

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