第17話
求め求めて得られなかった兄が、故郷ではなく遠い異郷の地に降り立っていたことで、紫苑の心の傷は更に深くなっていた。
信じたがっていた望みを、断ち切られたような気がして、兄は本当に自分を見捨てたのだと突き付けられたようで。
裏切られたと瞳で訴えてくる紫苑に、水樹は無防備な顔をした。
傷つきすぎて、なにも言えないまま、力なくうなだれる。
言い訳なんて今更だと彼も気づいていた。
「兄上は矛盾してるっ。そんなに衛を渡したくなかったら、おれを殺してでも、阻止してくれたらよかったじゃないかっ」
「それは……」
「こんな結果を味わうくらいなら、おれは死んだってよかったんだ。皇帝を継ぐことより、おれは兄上の弟でいたかったっ。
なんで……おれを見捨てたんだ。どうして迎えにきてくれなかったんだ。腕付くでも、おれの生命を楯にしてでも、奪ってくれたらよかったじゃないか。衛が皇帝でも逆らってくれたらよかったじゃないか」
「きみを死なせたくなかったのに、わたしに殺せるわけがないだろう。きみはわたしのすべてなのに。最後に残された肉親なのに。
手元に置けば生きられないと知っていて、どうして拒絶できる? わたしにはもうきみしかいなかったんだよ、葉月。きみだけしか……いなかったんだよ」
震える声が訴える気持ちは、紫苑にもよくわかった。
問題の時期、水樹は家族を一度に亡くしたばかりで、幼い紫苑が生き甲斐だったという。
ふたりきりの兄弟だという事実が、水樹の支えだったと衛から聞いていた。
それでも紫苑は思うのだ。
生き残ってこんな気持ちを味わうくらいなら、水樹を大好きな弟のまま、死んだほうがよかったと。
堪えきれずに零れ落ちる涙に、水樹が切ない眼で弟を見下ろした。
眼を閉じて肩を震わせ泣きじゃくる。
その姿は幼い頃のままだった。
強く抱きしめて、思う。
攫ってしまおうか? このまま葉月として攫ってしまおうか?
断ち切られた絆が、元に戻らないことはわかる。
葉月が紫苑として衛や惺夜を見切れずにいることも。
選べないから突き放すのだということも。
けれど、こんなふうに泣くくらいなら、攫ってしまえばいいのかもしれない。
選べないのなら奪ってしまえばいいのかもしれない。
(すべてを捨てて、葉月を連れやり直せるなら、ただ一度の機会に賭けてみたい。葉月が紫苑に戻りたくないというのなら、わたしは)
「兄上?」
息が止まるほどの強さで抱かれ、紫苑が驚いたように名を呼んだ。
痛みを感じ反射的に息を詰める。
「もう一度……始めからやり直そうか、葉月」
「………………」
「なにもかも捨ててもいい。きみとやり直したい。選べないのなら、わたしがきみを攫うよ。きみはなにも気にしなくていい。もう一度兄弟としてやり直せる機会をくれないか? わたしにはきみが必要だ。きみだってそうなんだろう?」
「ちが……」
「きみにそんな眼をさせたくない。そんなすがるような眼で、わたしを見る。そんなきみをわたしは見たくないんだ。やり直そう、葉月。失ってしまった過去は、二度と取り戻せなくても、新しく始めることはできるはずだよ」
もしかしたら頷いていたかもしれない。
小さなときから、待って待ち焦がれていた言葉だったから、もしかしたら頷いていたかもしれない。
もしもこのとき惺夜が姿を見せなかったら。
「紫苑? いるんだろう? 返事をしてくれないか? 紫苑?」
呼び声。
大好きな惺夜の。
はっとして水樹が振り返り、とっさに紫苑は眼を見開き、動けなかった。
水樹と行くこともできず、かといって腕の中から逃げだすこともできず、震えるだけの紫苑。
強張った顔が、震える瞳が、彼の動揺を教えるようで、水樹はやりきれないため息をついた。
「この場は彼に預けようか」
傷ついた瞳で見上げてくる。彼の瞳が「離れていくな」と無言で訴えていた。
言葉より態度より雄弁なその瞳に、水樹は小さく微笑む。
「彼にはきみを大切に守ってくれた恩があるからね。この場は彼に預けよう。惺夜皇子には感謝しているよ、きみを守り抜いてくれたことを。できるなら、わたしの腕に返してほしいけれどね。可愛い弟を」
「兄上」
「きみの望みなら、わたしはなんでも叶えよう。それがやり直すことでも……わたしを殺したいのだとしても」
とっさに眼を見開いて、言い返せなかった。
穏やかに望まれれば「生命」でさえも与えると訴える兄が、本当は恐かった。
殺したくないと言いたくて言えなくて。
「きみがわたしの『死』を望むなら、喜んで討たれよう。きみの望みはわたしが叶える。それが如何なる望みだったとしても、次に逢うときまで、元気で」
額に触れるキスは、幼い頃の名残。兄の癖。わかっていて眼を閉じた。懐かしい儀式に酔うように。
目を開けたとき、そこな兄の姿はなかったけれど。
やりきれない吐息が漏れる。
最後の兄の科白が耳にこだまして離れない。
それが胸に痛かった。
「紫苑? こんなところにいたんだ? 返事をしてくれればよかったのに。ぼくの声が聞こえなかった?」
やさしい声にゆっくり振り向くと、惺夜がいつもどおりの笑顔を浮かべ、こちらを見ていた。
なにも知らない顔で。
その笑顔を見ると、どういうわけか、ほっとした。
今はまだなにも変わらないのだと。
自分は紫苑のままで、水樹との絆も、まだ動いていないのだと。
「ちょっとぼんやりしてた。呼んだ、おれ?」
「呼んだよ。どうしたの? 泣いていた?」
「なんで?」
とぼけようと見上げると、惺夜はちょっとため息をついた。
指先が、まなじりに触れる。
涙を拭うような仕種に、ドキッとした。
「涙の跡」
柔らかい声は、彼が心配しているときの癖。
必要以上にやさしくなる。心配性の彼は。
無理に笑って乱暴に涙の跡を拭った。
「なんでだろ。知らなかったよ。恥ずかしいよな。惺夜に泣き顔見られるなんて」
「馬鹿なことを。なにを慌ててるんだ? ぼくの前で強がる必要なんてないじゃないか。理由なんてわからなくても、泣きたければ泣けばいいよ。傍でぼくが支えているから。きみのすべてをぼくが受け止めるから。きみは絶対にひとりしゃないんだよ、紫苑」
面と向かって言われると、どういうわけか恥ずかしい。
一瞬で顔を染め、なぜか呆気に取られている紫苑を、惺夜がふしぎそうに覗き込んだ。
「口説かれてるみたい」
「きみね」
「惺夜って口説き上手だなぁ。これだから女の子に人気があるんだな。どうせなら、おれにじゃくて、違う女の子にでも言ってやれば? すごく喜ぶよ。さっきの科白」
「いやだよ。ぼくはきみ以外には言いたくない。それに口説いているわけじゃないんだよ? 妙な意味に取らないでほしいな」
「あれが口説き文句じゃなかったら、惺夜の口説き文句って、いったいどんなだよ。恥ずかしい奴」
「少なくともお子様紫苑には、関係のない世界の科白だよ」
白々と子供扱いされて、紫苑がきつい眼で睨んだ。
苦笑して肩を竦め、惺夜は彼の文句を受け流す。
睨みつける紫苑の肩を強引に抱き、彼を促した。
「ほんと。小さいころから紫苑は泣き虫だね。出逢った頃から、きみはひとりになると泣いてる」
見下ろしてくる瞳が、優しい色を浮かべからかう。
頬を染め見上げた紫苑は、居心地が悪くなってあらぬ方を向いた。
彼の前で小さな頃、何度も泣いていたのは事実だったから。
髪に絡む指が、やさしく抱き寄せる。
幼いころから変わらない、泣いているときに慰める惺夜の癖。
胸のなかに抱き込んで、ひとりじゃないと教えてくれる。
泣きだす度に抱いてくれた大好きな腕。
どうしてだろう。
どうして惺夜といるだけじゃ駄目なんだろう。
衛が大切にしてくれるだけじゃ駄目なんだろう。
心にぽっかり大きな穴が空いてる。
水樹が姿を消したから。抱いていた腕を解いたから。
自分から拒んだくせに、バカみたいだと思う。
いつもいつも失ってから恋しがるなんて。
堪えきれずに閉じた瞳から、頬を伝う涙。
震える肩を抱いて、惺夜は僅かに眉をひそめる。
肩を抱く腕に力を込めて、なにも言わずに歩いた。
本心は口に出さない彼が、なにを耐えているのか、気に入らないと言えば嘘になる。
でも、追い詰めたくなかった。
何度も何度も泣いてる紫苑を慰めてきた。
いつになったら彼は泣かなくなるんだろう。
本心から笑ってくれるんだろう。
紫苑の心の中に消えない面影があることは兄から聞いている。
傍にいない兄を慕っていることも。
ぼくが傍にいるだけでは、きっときみは寂しいんだろうね、紫苑。
きみはずって兄上を求めてる。
でも、ぼくがここにいる。兄上だってきみを愛してる。
それだけじゃダメなのかい?
実の兄上でなければ、きみの寂しさは拭えない?
本当はすこし悔しいんだよ、ぼくは。
離れていても、きみの心を独占している逢ったこともないきみの兄上が、羨ましくてほんのすこしだけ……妬ましいんだよ。
近くにいるぼくらより大切に想われて、ずっとずっと慕われて、紫苑を独り占めにして離さない。
悔しいよ。
いつも心のどこかで兄上を慕ってるきみに、振り向いてほしいと望むのは、ぼくのワガママかな。
もしも逢えるなら言いたいことはたくさんある。
紫苑の心を独り占めにして満足?
傍にいてやれないのなら、自分から傍を離れた弟なら、もう解放してやってほしいと。
ねえ。
顔も知らない紫苑の兄上。
あなたは自分から紫苑の傍を離れたんだ。
成長期を過ぎれば対面だって叶うのに、ほんのすこし待ってくれれば逢えたのに、あなたは姿を消した。
そのことで紫苑がどんなに泣いたか。
傍にいられるぼくの、家族だって失っていないぼくの、傲慢だと責めるなら責めればいい。
でも、あなたは唯一の家族だった紫苑の心を踏みにじったんだ。
それだけは譲れないよ。
だったひとりの肉親なら、逢える日を待っているべきだったんだ。
ただそれだけで紫苑がどんなに救われたか。
だから、ぼくはあなたが許せないんだ。
自分から紫苑の手を離したくせに、未だに想われて彼を手離さないなんてズルいよ。
ズルいよ。
紫苑が涙を見せるときは、大抵あなたが絡んでる。
勝ち気で意地っ張りな彼を頼りない子供に変えて泣かせるあなたが妬ましい。
妬ましくて憎らしいよ。
こんな気持ちを感じたのは、ぼくも初めてだけど、きっと変わらないね。
これからもぼくは、あなたを妬んで羨望を感じて……そして嫉妬するんだ。
紫苑を独占しているあなたを。
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