第16話
しかし戦闘面で勝利を収めていたのは、主に紫苑のお手柄であったが。
惺夜は滅多に戦闘に出なかったのだ。
敵方と戦った将軍こそが、紫苑だったのである。
いざ戦闘に出れば惺夜も驚くほどの実力を発揮したが、彼はよほど状況が悪くなければ、自ら戦いに出ようとはしなかった。
言ってみれば不利になったときにのみ出撃する、人間側の切り札的存在だったのである。
ただし切り札的役割を果たしてはいたが、惺夜に言わせれば、実力は紫苑の方が上だという話だったが。
惺夜が謙遜したような発言をするたびに、紫苑がなにも言わずに笑っていたのは確かだ。
彼がなにを思って笑っていたのか、惺夜は知っていたが、敢えて口に出すような真似はしなかった。
ふたりには態度に出せない、触れることのできない話題があったのは事実のようだった。
核心に触れる話題は、どんなときも口にも態度にも出さなかったのである。
実際にどちらの実力が上だったかは、だれにもわからない。
惺夜だという説もあれば、紫苑だという説もあったので。
どちらにせよ、ふたりが魔将や幻将すら恐れる実力を所持していたのは、紛れもない事実である。
しかし人間側の象徴ともいえる紫苑が、実は敵方でも絶大な人気を誇っていたことは、惺夜以外には知られることがなかった。
紫苑のお気に入りは、自然の溢れる森である。
彼は時間を見つけては、何度となく部落に程近い森に出掛ける。
その行動半径は敵方にも有名で、この森でなら彼がひとりだということは、だれもが知っていた。
襲うには絶好の機会でもあったが、だれも彼の隙を狙うような真似はしなかった。
その意味を知っているのは、惺夜ひとり。
必然のない戦いを、紫苑に挑む敵は存在しない。
戦いたくないとだれもが思っていたことを惺夜はよく知っていた。
それでも無防備なくらい、警戒を解いてしまう紫苑を、ひとりにはできないと、惺夜は常に傍に控えていたが。
ふたりが部落の守護神となって、300年近い歳月が流れ、王が代替わりし、幼かった王女も少女へと成長しつつあった。
「紫苑。森へ行くの?」
声をかけられて振り向けば、花束を抱えたひとりの少女が、あどけない笑みを浮かべていた。
この部落の王女、蓮華である。
彼女の父が子供のころから知っている紫苑は、当然、父親というより祖父のような立場の者であるが、彼女は兄のように慕ってくれていた。
「すこし散歩に行こうかなと思ってるけど。それがどうかしたのか、蓮華?」
「ううん。ただ惺夜さまはご一緒じゃないのかしらと思って」
恥じらいに頬を染め、もじもじと俯く蓮華に、紫苑は口許に笑みを浮かべている。
彼女がどうして惺夜にだけ「さま」を付けるのか、さすがに紫苑も気づいている。
幼い少女の惺夜に対する憧れは、紫苑も可愛いと思う。
「惺夜なら今頃、王のところじゃないかな?」
「お父さまの?」
「あいつが呼び出されていなくなったから、おれは鬼のお目付け役の留守を狙って、抜け出すんだよ。惺夜がいたら出してくれるわけないじゃないか」
笑いながら言ったら蓮華は何故か、寂しそうな顔になった。
寂しい笑みを浮かべ、紫苑を見上げる彼女に小さく眉を寄せる。
「どうしたんだ? 急に落ち込んで」
「惺夜さまは紫苑がとても大切なのね。紫苑になにかあったら、すごく心配されるもの。いいなあ」
見上げてくる蓮華に、羨ましいと顔に出され、紫苑は返答に窮した。
「おれは…弟みたいなものだから。惺夜にしてみたら頼りないんだよ。蓮華たち女の子とは全然違うさ。そんなに羨ましがるほどじゃないよ。な?」
頭に手を置いて優しい慰めをくれる紫苑を、しばらく見上げていた蓮華は、ややあってはにかみながら頷いた。
「おれの行き先、あいつには言うなよ?」
笑いながら去っていく紫苑に、蓮華はおかしそうに笑って頷き返した。
このふたりの関係が、この後大きく歪むことになろうとは、このときの紫苑にはわからなかった。
少女の成長は今は知らない感情を招く。
その意味を紫苑が知るのは、現実を突きつけられてからだったが。
「惺夜の過保護もどうにかしないとなあ。なんでおれが嫉妬されないといけないんだ?」
苛々と前髪を掻き乱しながら、紫苑は唇を尖らせる。
守護者として幼いころから過保護だった惺夜は、こちらにきてふたりきりになると監視が緩むどころか、もっと過保護になった。
どんなときもさりげなく傍にいる。
眼の届く範囲から、紫苑を見守っている黒い瞳を、どんなときも感じていた。
視線を感じて振り向けば、どんなときもそこには惺夜の黒い瞳があった。
穏やかに笑って見ている。
紫苑にどんな危険も及ばないように。
影のように寄り添い、離れることなく見守る瞳は、遠い昔から変わることのない守護者の瞳。
けれど紫苑が欲しかったのは守護者の瞳ではない。
幼いころに傍にあった、優しい友達の黒い瞳だ。
「……」
やりきれないため息が、唇から零れる。
片手で頭上の枝を掻き分けて、憂い顔で歩く紫苑はいつもはない陰りが見える。
らしくない彼の様子に、近くで見ているだれかが、心配そうな吐息をついた。
はっとして紫苑が振り返る。
その視線の先に誘われるように現れた青年に、紫苑が大きく瞳を見開いた。
出逢ったころは長かった黒髪も、最近はすっかり短くなった。
出逢ってしばらくしてから水樹は髪を切ってしまったから。
伸ばしていたことになにか意味でもあったのかもしれない。
惺夜と張り合えるほど伸ばしていた黒髪を短くすれば、彼の穏やかな美貌と紫苑の無垢な美貌は、とても似通っている。
基本的な造作が似ているのだ。
そのたったひとつの真実に気づいている者は、まだいなかったけれど。
「なにしにきたんだ。敵方の総大将のくせして」
「逢いにきてはいけないのかい、紫苑。わたしは時間が許すかぎり、きみに逢いたいし傍にいたいよ」
笑って口にする科白が、まるで口説き文句のようで、紫苑は眉をしかめた。
第3者に聞かれたら絶対に誤解されるだろう。
「おれの方は迷惑だ。口説き文句なら綾乃に言ってやれよ。水樹の妃だろ」
「相変わらずつれないな。きみが素直に受け止めてくれるなら、もっと普通の言葉をかけるよ。一度でいい。笑ってくれないか、紫苑? まっすぐにわたしを見てくれないか?」
懇願しているような口調。繰り返す呼び名が、紫苑の逆鱗に触れた。
「紫苑、紫苑、紫苑っ!! その名でおれを呼ぶなっ!!」
「……紫苑」
「名乗りたくて名乗ってる名前じゃないっ。世継ぎの位なんて捨てたんだっ。そんな名前で呼ばれたくもないっ!!」
吐き捨てて近くの幹に叩きつける拳が、彼の憤りを訴える。
痛ましい顔で彼を見ていた水樹は、ため息をひとつ漏らし、紫苑に近づいた。
はっとして彼が振り向く前に何度も幹にぶつける拳を腕付くで捕らえた。
「放せよっ」
全力で暴れる紫苑を、一度きつい眼で睨み、強く抱き竦めた。
背中に腕を回し、抗う腕を捩るようにして押さえつけ。
一瞬だけ紫苑の顔に苦痛が走った。
「自棄になって、それで済むのか、きみは? わたしが他の名を呼んでも、きみは受け入れないだろう? 自分を否定してすべてが片付くわけじゃない」
「水樹はそうだろうさ。水樹はおれじゃないんだからな。腕を放せよ。痛いんだ。それともこのまま攫うつもりか? 敵の大将のおれを?」
揶揄するような嘲りの言葉に、水樹はやりきれない笑い声を漏らした。
「それできみがわたしのものになるなら、攫うことも考えるけれどね。たとえきみの身柄を拘束しても、きみの心は戻らないだろう?」
「……」
切なげなささやきに紫苑が苦しそうに唇を震わせる。
逆らわなくなった彼を強く抱きしめて、水樹はそっと眼を閉じた。
「こうして抱いてもきみは笑ってくれないね。昔はわたしが抱いたら、すごく嬉しそうに笑ってくれたのに。時は戻らないね。どんなに望んでも、過ぎた過去は戻らないね、葉月」
最後に付け足された名前を聞いて、紫苑が動揺して顔を上げる。
何度も震える唇が言葉を紡ごうとしては、果たせずにいるのを水樹は愛しそうに見詰めていた。
「憶えていない? わたしの可愛い葉月」
何度も耳元で繰り返す優しい声のささやきに、紫苑はなにかを思い出すような眼をして、何度も眉をしかめた。
憶えているのは振り向いて、微笑んでくれる優しい笑顔と、何度もささやいてくれた優しい声。
名を呼んで抱き上げてくれた腕。
あれは……。
「……知らない。そんな名前、おれは知らない」
「そうだね。今ではきみをそう呼ぶ者はいないだろうし、仕方のないことだよ。憶えていないのは君のせいじゃない。わたしが衛に教えなかったんだよ、葉月」
「教えなかった?」
「きみを無事に成長させるためとはいえ、わたしから最後の肉親を奪う衛に何故、弟の名を教えなくてはいけない?
それはわたしの弟の名だ。衛の皇子の名ではない。わたしは教えたくなかった。教えることで、葉月から完全に衛の皇子になるような気がして。
わたしにはその名前以外残らないのに、最後に残るものまで、衛に奪われたくなかった」
「……兄上」
震える声で名を呼ぶ。水樹は切なくなって何度も髪を撫でた。
抱きしめる腕にも自然に力が入る。
それでも紫苑は逆らわなかった。
水樹の腕に抱かれたまま、兄を……見上げている。幼い頃、生き別れになった実の兄を。
「名前がわからなかったから、衛は新たに名付けるしかなかったんだよ。お披露目の当日、衛がきみに『紫苑』と名付けたと知って、らしくない彼の感傷に、つい笑ってしまったけれどね」
「衛の感傷? おれの名前が?」
「あの日、衛が君を連れて王宮に戻った日。屋敷の回りには紫苑の花が咲いていた。おそらくそこから名付けたのだと、すぐにわかってね。つい」
屋敷の回りに咲くたくさんの紫苑の花。
ああ。
憶えている。夏になると紫苑の花で満ちる屋敷の周囲。薄紫の花が、とてもきれいだった。
追いかけて名を呼ぶと紫苑の花の中で、振り向いて笑ってくれる大好きな兄がいた。
一番幸福だった時代。
忘れられないあの日々が、紫苑にとってのすべてだった。
はっきりと憶えていないくせに、水樹の笑顔と優しい声だけは忘れられなかった。
地球で再会したとき姿も憶えていなかったくせに、すぐに兄だとわかるほどに。
どうしてこんなことになったんだろう。
あんなに兄上の腕を求めていたはずなのに。
ここに大好きな兄上はいるのに。
あの頃のまま笑って抱いてくれるのに……。
「兄上はズルい。どうして今頃、おれにそんなことを……」
「どうして? 今もきみが大好きだからだよ、葉月。今もきみを弟として愛しているからだよ。たとえきみが生涯、わたしを許してくれなかったとしても。わたしは葉月を愛しているよ。だれよりもだれよりも愛しているよ、葉月」
抱きしめる腕が痛い。
耳元でささやく想いが、胸を引き裂いて苦しい。
どうしてこんなにも想いは擦れ違うんだろう?
望んでも得られない夢は、手に入れることも叶わない。
そうと知っていて何故、求めるのだろう。
断ち切られた絆は取り戻せないのに。
水樹と暮らした短い日々も大切なら、心を開こうとしなかった紫苑を、愛してくれた衛や惺夜と過ごした日々もまた大切な過去。
水樹を選ぶことは彼らとの日々を否定して捨てること。
彼らを選ぶことは水樹を否定すること。
絶対に両立はできない。どちらも求められない。
夢が叶った今になって、そんなことに気づくなんてバカだと思う。
すべてが失われるのを自分で確認しているなんてバカげてる。
だれも選べない。望めない。
こんなに……こんなに水樹を必要としているのに、彼の手を取ることだけはできない。
どうして一緒にいられないのだろう?
水樹の弟として、衛の皇子でいて何故いけないのだろう。
もう……どうすればいいのかもわからない。
「わたしの前にいるときのきみは、怒っているか悲しんでいるか、どちらかだね。どうすれば笑ってくれる? どうすれば……わたしを許してくれるんだい、葉月?」
「許してほしかったら、なんで水樹はここにいるんだ」
「葉月……」
「おれは王宮でずっと兄上を待ってた。こないかもしれない。そう思って脅えながら兄上が迎えにきてくれるのを、ずっとずっと待ってた。なのにどうしてここにいるんだ? どうしておれを捨てて違う星にいたんだっ」
叩きつける紫苑の言葉が、彼の消えない心の傷。そのすべて。
幼い頃、兄に見捨てられた事実が、紫苑を傷つけて悲観させるようになっていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます