第15話

 それはもう遠い昔。


 人々がまだ無垢だった頃、人という種族と魔と呼ばれる種族が同時に存在していた。


 決して相容れることなく。


 鬼と呼ばれる者たちが中心となった鬼族。


 精神生命体であり時には神と崇められ、時には邪霊とも呼ばれる特殊な種族である幻族。


 そして残りの魔物のすべてを総称して呼ばれつづけた魔族。


 この三種族は同じ魔物でありながら、決して相いれることなく不可侵条約でも結んでいるように、お互い相手のテリトリーには踏み込まないようにして暮らしていた。


 三種族に共通していたのは、人間をただの食料としか思ってない点だった。


 鬼族を統べるは鬼女王、そしてその補佐たる鬼将。


 幻族を統べる絶大な力を誇る幻将。


 そして魔族を統べるは、その強力な魅了の力と、絶対的な力で魔族たちを圧倒していた魔将だった。


 彼らは決して群れることなく、常に対等であった。


 だが、それ故にひ弱な種族である人間さえも、完全に支配下に置けずにいた。


 お互いに競い合っているのだから無理もない話である。


 人間たちにとっては彼らが群れをなさないことが、唯一の救いとなっていたのだ。


 おかげで滅びることもなく生き延びることができていた。


 だが、あるときを境に魔族たちは急速に団結力を増していった。


 それは鬼女王が迎えた夫のせいであった。


 鬼女王が迎えた夫は出身さえも明らかではない異端の種だったが、その人柄、力、ともに圧倒的で個性の強い魔族たちを支配下に収めることに成功したのだった。


 魔族たちの王と呼ばれるようになっていった彼だが、彼は決して人間たちの大量虐殺を認めようとはしなかった。


 生きていく上で必要な狩り以外認めようとしなかったのである。


 だが、それでも人間たちにとって危機的状況だったことには違いない。


 自分たちが滅びてゆく種族だと思うには、人間たちには生きる力に溢れていた。


 なんとか救われたいと望んでいた彼らの元に、天から二神が降臨する。


 それこそが「和宮文書」が伝える「紫苑」と「惺夜」のふたりだった。


 ふたりがどういった種族だったのかは明らかではない。


 少なくとも人でないことだけは確か、だったが。


 彼らはずいぶん永い時を、人間たちを守護するために使っていたが、その外見が年を取ることはなかった。


 いつまでも若々しい少年の姿を保っていたのである。


 神と呼ばれはしていたものの、ある意味でふたりは魔族に近い位置にいたのかもしれない。


 老いることのない肉体は、人間たちに畏怖の感情を与えた。


 それでも彼らの助力なくして生き延びることは不可能。


 人間たちは彼らが人ではないことを知りながらも、受け入れることで共存を果たそうとしたのである。


 彼らを神と崇めることで。


 そうすることで魔族とは関係のない種族だと証明したかったのかもしれない。


 今は遠い昔の物語。知る者とてない語られない歴史。


 時に埋もれた彼らの記憶は、今なお色褪せることがなかった。





「紫苑。またこんなところで眠ってる。無防備にもほどがあるよ。敵がいなくても安心しないように、いつもあれだけ言ってるじゃないか。どうして聞いてくれないんだい?」


 大樹の影に凭れるようにして眠っている紫苑を見つけて、惺夜がそんな声を投げた。


 背中まで届いた黒髪。


 少女めいた優しい美貌。 


 だが、その瞳には強い男の矜持が浮かんでいる。


 中性的な美貌の持ち主だったが、その印象は紛れもない男だった。


 対する紫苑は短く切りそろえた黒髪に、あどけない容貌の少年であった。


 その美貌は惺夜と比べても、決して見劣りしていない。


 だが、あどけないのである。


 まだ子供でも通りそうな外見の持ち主だった。


 すやすやと木陰で眠り込む紫苑には、警戒心のかけらも見つけられない。


 惺夜は怒ってはみたものの、彼が起きてもくれないので仕方なさそうに傍らに腰掛けた。


 彼の守護をするのが惺夜の役目なので。


 故郷を出てからずいぶん時が経ってしまった。


 惺夜たちの種族は故郷を一歩出ると、特殊な条件が生まれてしまう。


 そのことを紫苑は知らなかったわけだが。


 兄からその事情について打ち明けられた惺夜は、限界だと思ったらいつでもすぐに連絡を入れるようにと言われている。


 連絡があったらすぐに連れ戻すから、と。


 でも、まだそのときではない。


 今は故郷にいるよりずっと充実したときだ。


 こんなふうに紫苑を独占して過ごしたことは、故郷ではない。


 故郷では紫苑は世継ぎの君で、惺夜はその義叔父にすぎなかったから。


 継承者と守護者という関係は元々とても独占欲に支配されやすい関係なのである。


 守護者は昔から継承者に対して、強い執着を覚えやすい一面があったのだ。


 だから、先代の継承者である惺夜の兄も、自分の守護者、翠のことではずいぶん苦労していたみたいだった。


 独占欲が強すぎて兄が他のだれかに近づくことをよしとしなかったからだ。


 惺夜もそんなふうに紫苑を縛ってはいけないよと、兄に何度論されたかもう忘れた。


 兄は紫苑に自分の二の舞だけはさせたくないようだった。


 そんなことを思い出すのも、ずいぶん久しぶりのことだ。


「ねえ、紫苑。どうしてきみは水樹のこととなると、平常心を失ってしまうんだい? 何度問いかけても理由は教えてくれないけど。ちょっとだけ妬けるね。きみの心を独占している水樹に対して。ぼくでは駄目なのかい?」


 答えのない問いかけをして、惺夜はため息をつく。


「あれぇ? 惺夜、いつきたんだ?」


 寝ぼけ眼をこすりつつ、紫苑が起きだした。


 上体を凭れかけていた大樹から身を離す。


 それから身体全体で伸びをした。


「う~ん。よく寝たなあ。気持ちよかった」


「気持ちよかったじゃないよ。敵のいないところでも安心しないように、いつもあれほど言っているだろう? どうしてきみは聞いてもくれないんだい?」


「惺夜は心配のしすぎだって。この星でどれだけの者が、おれたちと互角に戦えると思うんだ? 魔将や幻将、鬼将や鬼女王がきたって、すぐに倒せる自信があるよ?」


「水樹は?」


 ぽつりと問われて、一瞬だけ紫苑が無防備な表情を見せた。


 彼にそんな顔をさせたことで、惺夜は水樹に対して強い嫉妬を覚えた。


 他人に対して否定して受け入れないことなんてほとんどない紫苑だが、そんな面とは裏腹に決して人を懐深くまで受け入れないという一面も持っていた。


 受け入れているのは表面だけなのだ。


 その懐深くまでだれかを受け入れることはほとんどない。


 だから、その意味で惺夜は本当に水樹が憎らしかった。


 紫苑の心の中に住みついている水樹が。


「水樹とは戦闘にならないよ。向こうが戦意喪失してるんだからさ。だから、心配するだけ無駄だって。惺夜はちょっと過保護だよ。故郷を出てからずっとさ」


「きみを護るのがぼくの役目だ。すこしでも危険なことはさせたくないよ。そもそもこの星の人間たちの守護することそのものを、ぼくは反対していたはずだよ? きみが自ら危険を招くことはないと。きみがどうしてもと言わなかったら、こんな星の人間たちなんて放っておいたところだよ」


「惺夜はおれのことになると冷静さを欠くからなあ。人間たちを守りたいって思うことが、それほどいけないことなのか?」


「そんなことは言ってないよ。でも、きみが危険な目に遭うのなら、ぼくは反対だってことだよ。ぼくにとってはこの星の脆弱な人間たちより、きみのほうが何千倍も大事なんだからね」


「わかったよ。おれもなるべく自分を大事にするから、そんなことを言わないでくれよ。この星の人間たちに聞かれたら、どんな誤解をされるかわからないじゃないか」


「誤解をしてぼくたちに不信感を抱くようなら、そのときこそさよならしてしまえばいいんだよ。守ってくれる者も信じられないような人たちを守る必要はないからね」


 また始まったと言いたげに、紫苑は惺夜を見ている。


 惺夜はもともとこの星の争いに関わることに反対だったのだ。


 それを紫苑が強引に押し切ったのである。


 だから、この星の人間たちにとって、紫苑はなくてはならない存在だった。


 彼がいやだと言えば、惺夜は簡単に人間たちを見捨てただろうから。


 惺夜にとって大事なのは紫苑ひとりだけ。


 それはだれの目にも明らかだった。


「惺夜さまぁ。どこにいらっしゃるんですか?」


「あの声は蓮華だな」


 紫苑が呟くと惺夜はめずらしく困ったような顔になった。


「どうしたんだ、惺夜? 変な顔して」


「いや、どうもぼくはあの娘が苦手でね」


「ははーん。どうやらまた言い寄られてるらしいな。惺夜には本当に日常茶飯事だな。こちらの女の子たちにとって、惺夜は理想の王子様ってところか。まあ実際に惺夜は皇子なんだけどさ」


「そのことは言いっこなしだよ、紫苑。それを言うならきみこそ皇子じゃないか。世継ぎの君?」


「その話題は出すなって言っただろ、惺夜っ!!」


 本気で嫌悪感を覗かせる紫苑に、惺夜はやれやれと言いたげな顔をした。


「じゃあそろそろ逃げようか。声が近づいてきたから」


「なにも逃げ回らなくてもいいじゃないか」


「いや。あの娘は一途でね。押し切られそうで怖いんだよ。こちらの意見なんて、聞いてもくれないし。まあそれだけ幼いんだろうけど」


 言いながら惺夜は紫苑の腕を取って立ち上がらせた。


 ここでなぜ紫苑まで逃げなければならないのか、すこし疑問に思ったが、惺夜が本当に困っていることがわかったので、紫苑は素直に従った。


「仕方ないなあ。あっちの湖の方に行こう。あの辺りは敵のテリトリー内だから、あの娘も追ってこないだろうし」


「危険な方へ行ってどうするんだい、紫苑?」


「じゃあここで捕まるのを待つか?」


「……わかった。行こう」


 案外、簡単に惺夜が折れたのでこれはそうとう困っているのだなと紫苑は見抜いた。


 惺夜がそこまで苦手だと思うなんて珍しい。


 妃を娶る歳ではないが、もしかしたら惺夜はこちらの女の子と結ばれるのかもしれない。


 紫苑よりはずっと大人なのだから。


 でも、考えてもピンとこなかった。


 紫苑至上主義の惺夜が、他の女の子に目移りするなんて。


 でもまあ彼には彼の幸せを掴んでほしいので、紫苑は気づかなかったフリをした。


 蓮華も気の毒に……というのが紫苑の感想だった。


 惺夜はモテすぎるので、あまりそういうことを喜ばない。


 姫君と付き合っても意味がないと思っているのだ。


 それに惺夜は表面だけを見ていたら、まず気づかれないが、かなりより好みが激しかった。


 懐に入れた相手にしか心を開かない。


 惺夜は軟派な外見に反して硬派だなあと、紫苑は常々思っていた。


 確かに生粋の皇族である惺夜との年齢差は外見よりもあるのだが、惺夜が紫苑くらいの年齢の頃、彼は付き合う相手を取っかえ引っかえして、かなり不誠実な真似をしていた記憶がある。


 我が身と比べてみて、あまりに自分が子供っぽいので、紫苑も時々将来を悲観しそうになる。


 恋愛という言葉の意味は知っていても、実感できない紫苑なのだ。


 理解不能というのが本心だった。


 そういう意味で惺夜みたいな境遇にならなくてよかったとほっと安堵もしていた。


 そんな目に遭ったらどうするべきなのか、それさえ紫苑にはわからなかっただろうから。


 どうしてこんなに子供っぽいのだろうと、紫苑は口には出せない悩みを抱え、傍らの守護者を振り仰いだ。


 同じだけの重さを秘める「守護者」


 それなのにこの差はなんだろう。


 やはり紫苑は子供なのだろうか。


 落ち込んだ紫苑の肩を抱いて、惺夜が優しく微笑む。


 これから先になにが待っているのか、彼らは想像さえしていなかった。


 紫苑はこちらの人間たちが安穏と暮らすためになくてはならない防波堤。


 だが、いつかその生命は失われてしまう。


 この星の戦いに関わったばかりに、紫苑は生命を落とすのだ。


 そのとき惺夜がどうするのか、それは「和宮文書」も伝えていない。


 今はまだ戦いの最中。


 彼らは自分たちの運命をまだ知らない。





 妖かしと呼ばれた怪物と人間が、果てることのない争いを繰り返しといた太古の昔。


 力の差が歴然とした勝ち目のない戦いに、人間たちが途方に暮れる頃、ふたりの少年たちが現れた。


 長い黒髪に穏やかな笑みを持つ少女と見紛う美少年の名を惺夜。


 短い漆黒の髪に屈託のない気性の、まだ子供らしさを残した少年の名を紫苑。


 意味の違う美しさを持つふたりは、常に寄り添う光と影のように、どんなときも行動を共にした。


 惺夜は常に紫苑に付き従い彼の判断を待つ。


 まるで臣下のように控える彼は、紫苑を導いているようでもあった。


 紫苑の兄のように振る舞う惺夜は、間違いなく紫苑の養育係だったのだろう。


 紫苑自身は彼を兄のように慕っていたが、惺夜は常にその一線を崩そうとはしなかった。


 ふたりが身を寄せた部落は小さな国家。


 彼らは守護神として受け入れられたが、人間ではないとされた理由は、そのいつまでも変わらない外見にあった。


 人々の前に姿を現してから、どれだけの歳月が流れても、ふたりは全く成長しなかったのである。


 神という概念に、これほど適応する者も珍しい。


 魔将や幻将などの邪な印象のない崇拝すら覚える彼らの美貌は、同じ不老の肉体を所持していても、人間たちに与える印象を大きく違えていた。


 敵対していた妖かしにはない、彼らだけが持つ神々しさが、人間に神として受け入れさせたのだった。


 それは彼らが魔将や幻将などの敵の将軍と戦っても、遜色のない力の持ち主だったこともあり、神としての地位を確立し、人々の崇拝を集める結果となった。

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