第11話

『ごめんね? ぼくにもっと力があったら、ご両親も助けられたのに。でも、無事でよかった。きみを助けられてよかったよ』


『きみさえ勇気を持てば、手に入らないものなんてないんだよ? 可能性は無限なんだから。

 どれほどの望みを叶え、どれほどの夢を叶え、自分のものにできるかは、きみ次第なんだから。

 怖がったらダメだよ? どんなに苦しくても逃げたらダメなんだからね?

 この夕焼けを忘れないで。きみにどんなに辛い過去があっても、どんなに悲惨な記憶があっても、それに負けないために』


 そんな声が聞こえた気がして、ハッと目が覚めた。


 薄暗い天井。見慣れた天蓋付きの寝台。


 使い慣れているからと、樹が用意させたものである。


 さすがに財閥のお坊っちゃまだと思ったが。


「あの声は……」


 最初に聞いた声は、あの両親を亡くした自動車事故のときに、夢うつつに聞いた声だった。


 だれなのかは未だにわからない。


 ただ激しいカーチェイスの末、崖下に墜落炎上した車から、遠夜は助けられたのだ。


 だれかに。


 すべてが一瞬の出来事だった。


 追手を振り切ろうとして父さんがハンドルをきって、その次の瞬間、父さんの顔も母さんの顔も引きつっていた。


 ハンドル操作を誤ったのか。


 ガードレールを突き破って、崖下に墜落するところだったのだ。


 当然、遠夜は後部座席に乗っていた。


 激しい振動を身体に感じて、頭を強く打ったのを憶えている。


 そこで意識が途切れ、だれかに抱き上げられるのを感じた。


 そのだれかの声なのだろう。


 両親を助けられなかったことを詫びてきたあの声。


 遠夜はあの後、ホテルのインペリアルスウィートで目が覚めた。


 そのときには両親の葬儀の手筈は整えられ、すべての事後処理が済んでいた。


 助けてくれた人をしばらくのあいだは捜したが、それらしい人には逢えなかった。


 遠夜の夢はあのときの人に逢って、お礼を言うことだった。


 最初、樹と逢ったとき、樹だったのかと疑ったが。


 言葉遣いがよく似ていたので。


 だが、それには彼の登場のタイミングや事故について、詳しいことを知らないらしい態度が解せなかった。


 彼の態度に嘘や演技は感じられなかったのだ。


 それで違うらしいと判断したのだが。


 最後に聞こえた声は小さい頃に聞いた声だ。


 まだ5歳にも満たない幼い頃。


 遠夜は引っ込み思案な子供だった。


 公園でも元気に遊ぶ子供たちを、羨ましそうに見ていただけで、その輪に入ろうとはしなかった。


 なんとなく、本当にただなんとなく、いつも自分はこうやって元気に遊ぶ子供たちを、羨ましそうに見ていたような気がしたのだ。


『どうしたの? どうしてそんなところで泣いてるの?』


 そんな声が聞こえた気がして振り返る。


 でも、やっぱりだれもいなくて泣きたくなる。


 いつもいるはずのだれかがいない。


 それは強烈な違和感だった。


 そんな遠夜に両親も無理には勧めず、遠夜はどこに行っても、ただ見ているだけだった。


 そんなある日。


 もう顔も性別も憶えていないのだが、ひとりの子供が遠夜を誘った。


 一瞬に遊ぼうと言ってくれたのだ。


 戸惑いながら手を取って、遠夜は初めて人と一緒に遊ぶことを覚えた。


 最初は楽しかった。


 泥んこになって遊ぶのも。


 でも、遠夜が輪の中心になりはじめると、唐突な拒絶反応を引き起こした。


 遠夜は人と深く関わることを避けてきたが、それはこの頃のトラウマが関係していたのだ。


 人と深く関わり中心になると拒絶反応を引き起こす。


 そんな悪癖があるのである。


 あのときは初めてその発作を起こし、人間離れした運動神経を誇る父親を振り切って、公園から逃げ出してしまったのだ。


 そうしてどこをどう走ったのか。


 見知らぬ公園で踞って泣いていると、声をかけられた。


『どうしたの? どうして泣いているの?』


 そう優しい声をかけられたのだ。


 遠夜が小さい声で「こわい……の」と答えると、その人は遠夜を抱いて公園の高台に連れていってくれた。


 そこから広がる夕焼けの街並みを見せてくれたのである。


 そうして恐れるものはなにもないって言ってくれた。


 自分から負けてはダメだと、逃げるなと。


 それからその人に両親の近くまで連れていってもらって、遠夜はしばらくのあいだはその人の言うことを守ろうとした。


 嘘だとは思えなかったから努力した。


 だが、その悪癖は直らなかった。


 今でこそ簡単には出なくなったが、人と深く付き合うようになったらわからない。


 そう思っている。


「そういえばどっちの記憶に出てくる声も、言葉遣いは似てるんだよな。すごく優しげで温和そうな声」


 まあまさかあの人が助けてくれた人ではないだろうが。


 同一人物だとしたら当時、高校生くらいだったとしたら、今はもう軽く20歳を過ぎている。


 あの説得はかなり大人びていたから、もしかしたらもっと年上かもしれない。


 30過ぎとか。


 事故のときに夢うつつに聞いた声はもっと若かった。


 だからこそ、樹かもしれないと疑えたのだから。


「おれ……どうして人の輪に入ることが怖いんだろう。物心ついてからずっと」


 なにがそんなに怖いのか、自分でもわからない。


 もしかしたらそれは物心つく前からの慣習かもしれないが。


 振り切るように目を閉じた。


 睡眠は十分にとっておかないと倒れるから。


 眠りに落ちる寸前、脳裏を掠めた。


 父さんたちが亡くなる前に、どうして追われなければならなかったのか。


 自分たちはなにから逃げていたのか、聞いておくんだったと。


 遠夜が事情を知ることがあるとしたら、遠夜を追っている敵の手に遠夜が墜ちたときだけだろう。


 そんな結果になる前に聞いておくんだったと脳裏を掠めた。


 深い眠りに落ちるそのときに。





「宗主の居所はまだ掴めんのかっ」


 怒鳴り散らす声に青年はふと足を止めた。


 どうやら義父がまた部下を責めているらしい。


 この壮麗な館で当主を名乗る人物。


 御三家の最後の一家、伊集院の当主、義信。


 それが義父の名である。


 静也は彼の実の甥だった。


 静也の父親は和宮家の次男坊で、母親が義信の妹だったのだ。


 子供に恵まれなかった義信は、跡取りとして妹の子を迎え入れた。


 それが静也である。


 伊集院静也。


 それが今の名だ。


 宗主と呼ばれる和宮樹とは父方の従兄弟である。


 静也は樹よりふたつ年上で現在、大学生だった。


 2年前から行方を眩ませた従兄弟に、義父は神経を尖らせながら行方を追っている。


 さて。


 部下たちが八つ当たりされる前に諌めに行かなければならないか。


 そう思って踵を返した。


「もう2年になるのだぞっ!? そのあいだ全く行方を掴めんとは、これはいったいどういうことだっ!?」


 怒鳴り散らす声が聞こえたとき、静也は義父の執務室に足を踏み入れた。


「樹が本気で雲隠れしたら、捜し出せる術者なんていないに決まってるだろう、義父さん」


「静也……」


「それに最近掴んだ情報では、樹は養子を迎えたとか。一門と引き合わせたくなくて、連れて消えたんでしょう」


「宗主の義弟の写真なら手に入れたのだが」


「へえ。どれ?」


 言いながら近づくと義信が一枚の隠し撮りを差し出した。


 そこに写っていたのは、どう見ても樹の幼い頃に見えた。


 14、5の頃の樹に見える。


 ちょうど姿を消す頃の写真に見えた。

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