第10話




 その日の夜、惺夜はなかなか寝付けなくて困っていた。


 眼を閉じると、昼間見た紫苑の姿が浮かんで、どういうわけか眠れない。


 細いとは思っていたが、あのときの紫苑の背中は、想像していたよりも、ずっと細くて頼りなかった。


 女の子より細いかな? と思って想像してみても、どうしてなのか上手くいかない。


 知っている女の子と比べても、紫苑の方が華奢なのだ。


 たしかに彼の肢体はかなり華奢だし、細身の惺夜から見ても、まだ細いが。


 こうなるとますます気になるものである。


 うーん。うーん。と唸ってから、とうとう眠るのは断念して、寝台の上で上半身を起こした。


「どうして眠れないんだ、ぼくはっ」


 小さく愚痴ってから、傍らの紫苑を確認する。


 幼いときから見慣れた寝顔で、ぐっすり眠っているのが視界に入った。


「眠っていると紫苑は可愛いよね」


 クスッと笑い声が零れる。


 だれでも眠ると幼くなるものだが、紫苑は眠るとあどけなくなる。


 意地を張った顔つきが、別人のように無邪気になって、生来の美貌がさらに引き立つ。


 そんなとき、惺夜はいつも可愛いと思う。


 いつもこんなふうに片意地張らなければいいのにとも。


 見るともなしに紫苑の寝顔を見ていると、不意に彼が寝返りを打った。


 寝苦しいのか。すこし項を反らして首を傾けて。


 月明かりが紫苑を照らし、項から鎖骨にかけて、はっきり見えてドキッとした。


 無意識に腕が伸びて、隣の寝台に眠る紫苑の頬に触れる。


 思いがけず胸に甘い痛みが走った。


「紫苑?」


 どうして名を呼んだのか、わからないまま寝台からおりて、寝顔を覗き込んでみる。


 それでも紫苑はぐっすり眠ったまま起きる気配もなかった。


 頬に触れた手を唇に移してみる。


 どうしたんだろう。


 急に鼓動が速くなって、なんだか落ち着かない。


「ん……」


 寝返りを打つときに、紫苑がうなされてハッとした。


 指先に微かに触れる舌の感触に、取り乱して手を引っ込める。


「変だよ、ぼく。本当に変だ。ダメだ。すこし頭を冷やそう」


 自分の言動が飲み込めず、途方に暮れたまま隣の部屋に移動した。


 出ていくときに振り返ると、やっぱり紫苑は眠っていて、すこし切なくなる。


 真面目に変だと頭を強く振って、ため息を残し部屋を後にした。





 惺夜がこのときの自分の行動を理解するには、もうすこしの時が必要となる。





「紫苑は紫をどう思っているんだい?」


 森を歩いていると、お約束のように聞き慣れた声がして、うんざりして振り向いた。


「どういう意味だよ?」


「今の紫の本命はきみだろう? きみの気持ちが知りたくてね」


 両腕を組み大樹に凭れかかった水樹に、意味深な科白を投げられ、つい文句を言う前にため息が出る。


「紫のことはキライじゃないけど、そういう意味で好きなわけでもないよ。変な確認やめてくれないか。それでなくても惺夜ひとりでも持て余してるのに」


「どうして? 彼がなにか?」


「惺夜と魔将は犬猿の仲だからな。口説かれてる場面でも見つかった日には、ものすごく責められるから。できたら一生遠慮したい話題だよ、それ」


 本当にうんざりしているのか、文句を言う前に愚痴る紫苑に水樹がちょっと笑った。


「なに笑ってるんだよ……」


「いや。昔、衛からも聞いたことがあってね。翠がヤキモチやきで困ると。守護者は代々独占欲が強いようだ。きみも苦労しているね、紫苑」


 衛のこともよく知っている水樹に紫苑はやりきれない気分になる。


「葉月……?」


「兄上はどうしてそこまで自分を抑えて他人を優先するんだ? どうして自分に我慢ばかり強いるんだ?」


 ずっとずっと言いたくて言えなかった、それが紫苑の本音なのだろう。


 一切抵抗せず、いつも受け入れるだけの水樹に。


 彼は受け入れるだけで、相手に自分の気持ちは渡さない。


 だから、見ている方が辛くなるのだと、紫苑にはそう思えたので。


「別に我慢ばかりしているわけじゃない」


「嘘だ」


「葉月。ワガママを言うのは、だれだって楽だよ。でも、その結果失うものはあるかもしれない。

 もし失えないほど大切なら、自分の望みを叶えることより優先させるだろう。

 自分を殺してでも大切にしたいもの。きみにもあるだろう?」


「あるけど兄上の場合は違う。すべてに対して自分を後回しにしてる」


「違うよ、葉月。わたしが優先するのは、いつだってきみだ。優先することができずに、泣かせてしまうこともある。

 それでもわたしは欲しいものを取って、優先したいものを優先する。本当は傲慢で身勝手なだけなんだよ、わたしは」


「水樹のそれはただの負い目だ……」


 また敵同士に戻った紫苑に、水樹は苦笑するしかない。


 どうして彼が突き放す科白を吐いたのか、わかりすぎるほどわかるから。


「きみのそれも負い目だね」


「……」


「綾乃のことは無視してほしい。できれば彼女の出る戦には、きみには出てほしくない。もし彼女が葉月を傷つければ、わたしは却って許せなくなるからね」


 冷ややかに響く宣言を紫苑は途方に暮れた顔で受け止めた。


「それから紫に対する気持ちを確かめて安心したよ」


「なんで?」


 一気に飛んだ話題にびっくりして、さっきまでの憂慮を一瞬、忘れてしまった。


「紫には葉月に手を出すなと、クギを刺したからね。よけいなお世話にならなくてよかったよ」


「……兄上まで」


 ガックリ肩を落とす紫苑に、水樹は朗らかな笑い声を立てた。


「彼は悪い奴じゃないんだけど、葉月の相手としては認められなくてね。クギを刺したら却下されてしまって、今、敵対して見張り合っているところなんだ」


「おれのせいで仲間割れしてるって? 呑気だな」


「いや。こちらでは仲間割れは珍しいことじゃなくてね」


 なんだか言いにくそうな水樹に、紫苑は怪訝そうに眉をひそめる。


「1日好き放題やらせたら、すっかり分裂する者の集まりだからね。仲間割れなんて珍しくもないよ。紫と悠なんて1日行動を共にさせたら、絶対に殺し合うだろうし」


「なんか壮絶だな」


「本当に。自己主張の激しい者ばかりを、ひとつに纏めるのは、すでに力技の芸術だね」


 すっかり自暴自棄になって、落ち込んでいる水樹に、紫苑は声を出して笑った。


「兄上の苦労が眼に見えるようだよ。でも、同情はしないから。それを自業自得っていうんだよ」


「だね。わたしも時々、選択の誤りを感じるよ……」


 人生に悲哀など感じてみせる水樹に、紫苑はすっかり寛いだ顔をしている。


「でも、水樹以外にあいつらを纏めることは、きっとできないんだろうな」


「そうかな?」


「兄上ほど忍耐強い奴は他にいないよ、きっと。絶対に途中でキレて殺し合いになるから」


「言えてる……わたしは人身御供かい?」


 すっかりやさぐれる兄に、紫苑は笑いながら後ろの樹に凭れかかる。


 いつになく一緒にいることを楽しんでいるようで、水樹もすこし嬉しくなった。


「こんなふうに肩から力を抜いて息ができるのは、ずいぶん久しぶりだな」


「葉月?」


「最近ちょっと精神的に疲れて……」


 言いかけて紫苑の上体が崩れた。


 ハッとして駆け寄った水樹が、彼を受け止めたときには気絶してしまっていた。


「葉月……」


 ずっと気を張っていて、寛げたことで緊張の糸が切れたのか。


 紫苑の顔には疲労が色濃く浮かんでいた。


 近くの湖まで移動して、水を飲ませると、すぐに瞳を開いたけれど。


「いい。動かなくていいから、すこし休みなさい、葉月。熱っぽいよ。かなり疲れているね」


「最近はいつも気を張っていたから。惺夜が変なんだ」


「変って?」


「おれがなにをしても気に入らないみたいで、すぐに絡んでくる。でも、なにをしたいのか、なにをしてほしいのか。それは言ってくれないんだ。絡んでくるくせに離れると怒るし。

 他の相手を見てもすぐに拗ねるし。どうしたらいいのかわからなくて、ちょっと疲れてたんだ。こんなにあいつがわからなくなったの初めてでさ」


 まだぼんやりしているのか、水樹に本心を打ち明けている自覚はないようだった。


 わかっていたら言わないだろう、彼は。


「彼はきみを独り占めしたいだけじゃないかな」


「独り占め?」


「守護者は元々、継承者に対する独占欲が並外れて強いからね。こちらにきてから、きみの周囲には紫がいたり、わたしがいたり、気を抜けないんじゃないかな。

 きみが自分から離れていきそうで怖いんだよ、きっと。きみに近づく者に嫉妬しているから、すこしのことで怒るんだ。守護者はヤキモチ妬きらしいしね」


「惺夜らしい動機だなあ」


 ガックリ疲れて、水樹の胸に顔を埋める紫苑に、すこし戸惑った。


 ここまで気を許してくれたことは全くなかったから。


「惺夜は兄上のことなんて、名前も知らないのに、ずっと嫉妬してるからなあ。らしくて文句も出ないよ」


「惺夜皇子がわたしに嫉妬? 冗談だろう?」


 立場が違うと思わず抗議すると、紫苑は小さくくぐもった声で笑った。


「口には出さないし、態度にも出さないようにしてるけど、眼をみればわかるよ。兄上の話題になると、あのバカ大抵ふくれてるから。いっつも眼が拗ねてるんだ。独占欲が強くて困るよ、ほんと」


「嫉妬したいのは、わたしの方だよ? どうして彼に嫉妬されないといけないんだろう。きみを独り占めしている守護者に」


 泥沼に嵌まりそうな悩みに、紫苑はただ笑うだけで答えなかった。


「ごめん、兄上。すこしだけ……眠らせて」


「眠っていいよ。傍にいるから。おやすみ、葉月」


「おやすみなさい、兄上」


 無意識にそう答えた紫苑に、水樹は遠い幼い日を思い出す。


 呂律の回らない舌で、同じ挨拶をしているつもりだった葉月を。


 まだ赤ん坊に近い葉月がグズる度に、こうして抱き締めてあやして眠らせた。


 どんなに泣いていても、どんなにグズっていても、水樹が抱くと泣き止んで、すぐに眠ってくれたのを、昨日のように憶えている。


 でも、寝台におろすと、また火がついたみたいに泣き出して、そういうときは起きるまでおろせなかった。


 甘えていつも傍にいたがった。


 でも、それを喜んでいたのは、ひとりぼっちになりたくなかった水樹の方かもしれない。


 家族を一度に失ったばかりで、葉月が頼ってくれなければ、自分で立っていられなくて。


 今思うと笑ってしまうような、微笑ましい想い出だけれど。


 あの頃のように抱き締めて眠らせる日がくるなんて思わなかった。


 寝顔だけは幼い頃のまま変わらない。


 ……葉月の頃のまま。





 紫苑という名は皇帝であり、義父でもある衛えいが名付けた。


 水樹が口にする葉月という名が紫苑の本名である。


 今となっては水樹以外は知らない名だが。


 これこそがふたりの戦いが一方的なものであり、周囲の者を戸惑わせた違和感の理由だった。


 ふたりは生き別れになっていた実の兄弟なのである。


 敵将として知られてはいけない現実だった。


 どちらの立場的にも危ない。


 紫苑の陣営にとって水樹が彼の実兄だということは手ひどい裏切りだったし、水樹の陣営にしても血の絆は裏切りに他ならない。


 特に妃の綾乃が知ったら紫苑を許さないだろう。


 紫苑が現れてから、水樹の態度が変わった意味に、おそらく彼女は気づくだろうから。


 それに敵の総大将であり守り神でもある紫苑が、実の弟だとバレれば水樹の身も危うい。


 現実的な意味合いでも、これだけの危険や不都合が多いのだ。


 ふたりが事情を隠そうとしたのも当たり前のことである。


 地球で再会したとき、水樹は攻撃してくる弟に反撃も防御もできず、ただ「許してくれ」とすがっていた。


 だが、紫苑は許さなかった。


 そのときから水樹は紫苑の攻撃を一方的に受けるようになった。


 それが自分の義務だと思ったから。


 が、綾乃はそれが気に入らないらしく、紫苑の姿を見付けると時も場所も関係なく殺そうとしてきた。


 そのことを水樹が気遣うのは当然である。


 紫苑は水樹を一方的に攻撃するものの、水樹はいつも軽傷だった。


 その意味を水樹は知っている。


 最後の最後で紫苑がためらい手加減するからだ。


 兄に深手は負わせまいと手加減してしまう。


 そんな弟の苦しみを知っているから、よけいに水樹は綾乃の攻撃で、弟がケガをしないか気にするのだった。


 どんなに紫苑に恨まれているか知っていても。


 いや。


 裏切られたと思い許せずにいるのだ。


 自分を捨てて地球に落ち延びていた兄を。


 水樹は弟を捨てたわけではない。


 ただ弟のいない生活に耐えられる自信がなかっただけで。


 自分の孤独に負けて弟を捨てる形になってしまったが、水樹は一度も弟のことを忘れたりしていない。


 逢えなくてもいつも想っていた。


 だが、意思の疎通が難しくて、紫苑の根深い誤解を解く術がない。


 こんなふうに自分を委ねて、弟として兄と呼んでくれるのは、本当にごく稀なことなのである。


 腕の中で眠っている生命の証。


 頬に触れると温かくて嬉しかった。





 兄弟として過ごす時間。


 惺夜はそのことを全く知らなかった。


 ふたりのあいだに隠された絆の名前すらも知らなかったのである。

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