第9話




「ちょっと待てよ、惺夜っ!! なんで逃げるんだよっ!?」


 湖の中から紫苑の怒号が響く。


 姿をみせるなり意味不明の声をあげ、そのまま逃げ出した惺夜に怒っているのだとわかる。


 わかっても惺夜は頭を抱えて大木の影に座り込んだ。


 戦闘で浴びた返り血と、そのときについた泥を落とそうと、紫苑は湖に入った。


 それはいつものことだ。


  ただいつもはそういう場面では絶対に同席しない惺夜が、紫苑を捜して姿をみせたからびっくりしただけで。


 が、どういうわけか惺夜は、紫苑を見つけるなり奇妙な声をあげて、そのまま逃げ出してしまった。


 どこか変な格好をしているだろうかと、紫苑は頭に手を突っ込んだ。


 どう考えても水浴びのときには常識的な格好だと思う。


 服を着て入るバカもいないだろうし、上半身だけを水から出していたが、それでも逃げ出すほどのことだろうか?


 どう考えても、あれでは女の子の反応だ。


 惺夜に言ったりしたら怒鳴られるだろうが。


 惺夜を追いかけて詰問するのは断念して、紫苑は手早く返り血や泥を落としはじめた。


 少年にしては華奢な背中は雪を連想させる白さ。


 華奢で長い腕も少年にしては細い腰も紫苑にしかない特徴。


 水音が再開して惺夜はちょっとムッとする。


 用があるのはわかっているんだろうから、服を着てあがってくれればいいのに、と。


 が、もう一度顔を出して声を投げる勇気は惺夜にはなかった。


 思い出してちょっと顔が赤く染まる。


 思いがけず水浴びをする背中がきれいだった。


 真っ白なその肌に水が弾ける様まで幻想的で。


 一瞬見とれた自分に気づいて赤くなったときに、ゆっくり紫苑が振り向いた。


 ふしぎそうなその顔に、まだ未成熟な、それでも均整の取れた肢体で。


 彼の黒い瞳に問いかけるような色が浮かんだときに、ハッと我に返った。


 で、気がつくと逃げ出していた。


「どうして逃げ出したんだろう、ぼくは?」


 途方に暮れて呟いて座り込んだまま頭を抱える。


 自分で考えてもさっきの行動は変だった。


 女の子じゃないんだから逃げる必要はないと思っても、だったら戻れるかと自分に問うと顔が熱くなるのがわかる。


 それがまた変だと感じてしまう。


「変だなあ。これじゃあ紫苑を意識してるみたいだよ。紫じゃないんだから」


 呆れたように呟いて、それでも引っ掛かるものはあった。


 気を抜くとさっきの紫苑がチラついて困る。


 変だなあ、変だなあ、と頭を抱えていると、頭上から呆れたような声がかかった。


「さっきからひとりでなにをやってるんだ、惺夜? はっきり言って変だよ?」


 ギョッとして振り仰ぐと、上半身だけまだ服を身につけていない紫苑が、呆れたように立っていた。


「どうして服を着ないんだい? 行儀悪いよ、その格好……」


「だってまだ濡れてるんだよ、おれ。戻ってから着るよ。男同士だから構わないだろ、別に」


 さらりと言われて、ちょっと返答に詰まった。


 照れるから着てほしいなんて言えば、ますます呆れられそうだ……。


「それよりなんなんだよ、さっきのあれは?」


 怒ったような顔で突っ込まれ、やっぱりきたか、と苦い気持ちになった。


 なにもすぐに突っ込んでこなくても、と思ったが、やっぱり口には出せない。


「惺夜のときにおれがやってやろうか? なんだかわかんないけど、あれ、すっごく腹が立つんだぞ」


「だ……だろうね。やらなくてもわかるからいいよ」


 心持ちひきつった返答に、紫苑が疑いの眼になる。


 内心で青ざめて惺夜は生唾を飲み込んだ。


 これ以上突っ込まれたらどうしよう、と、明らかに顔に書いて。


 珍しく狼狽して取り乱した惺夜をみていると、なんだか苛めている気分になってきた。


「ほんと。育ちがよすぎるんじゃないか?」


「きみね、同じ環境で育ったくせになにをバカな」


「だっておれは平気だから。惺夜に抵抗があるとしたら、やっぱ生粋の皇族だからじゃないのか? 王宮じゃあ行儀悪いって責められることだし」


 都合のいい解釈をしてくれた紫苑に内心ホッとしつつ、惺夜は「そうかなあ?」と首を傾げる。


 これが紫苑以外例えばこちらの星では1番きれいな紫だったとしても、全く動揺しないと思う。


 出食わしても平然としているような気がするし。


 たしかに男同士でそういうことに羞恥を感じるのは変だった。


 例外なのは紫苑だけ。


 でも、どうしてなんだろう?


 何度自分に問いかけても答えはわからなかった。


 あまりに惺夜が真剣に悩むので、紫苑は本心から呆れてしまう。


 この話題は突っ込まない方がよさそうだ、と。



「で、なにか用だったのか? おれを捜してたみたいだけど」


「ああ。忘れるところだった」


 明るく言って立ち上がり、惺夜が晴々とした笑顔をみせた。


 どうやらさっきまでの気まずさは、とりあえず忘れたらしいと思って、こっそり笑った。


「ついさっき王に子供が生まれたんだ。それできみに知らせようと思って」


「へえ。男? それとも女?」


「女の子だったよ。それで王がぼくかきみに名付けてくれないかって」


「だったら惺夜が名付けてやれよ。おれよりいい名前つけられるよ、きっと」


 なんでもないことのようにそう言って、紫苑は惺夜に笑いかけ、その肩に凭れかかった。


「紫苑?」


 驚いたように名を呼ぶ彼に小さな声で笑う。


「ホントは肩組みたいのに、やっぱり惺夜は背が高いな。全然届かないよ、おれ。もっと大きく強くなりたい」


 噛み締める決意のようにささやく。


 なんだか落ち込んでいるようで、甘えられて感じた戸惑いも、スッとどこかに消えた。


 いつものように笑って肩に腕を回す。


「もうすこしすれば大きくなれるよ。最近はようやく寝込むことも少なくなってきたし」


「昔は外で遊びたくて、よく惺夜を困らせたっけ」


 クスッと笑う紫苑に、小さな頃が思い出されて惺夜も笑った。


「熱があっても雨が降っていても、泣いていやがるんだから、あの頃はぼくも困ったよ。時々だけど、あんまり聞き分けがないから、叩いて気絶させてやろうか、なんて思ったこともあったし」


「ひどいよなあ。小さいときから惺夜ひとり元気なんだからな。いいよな。外で遊べる奴は呑気でさ」


「ぼくはずっときみの傍にいたはずだけど?」


 惚ける口調でクギを刺され、言い返せなくて唇を尖らせた。


 惺夜は優しいから、紫苑が寝込んでいるとき、自分だって外で遊びたいだろうに、ずっと傍にいてくれた。


 外で遊んでいても普通に遊べない紫苑に合わせて、普通の子供がやるような遊びはいっさいしなかった。


 元気な子供なら欲求不満になるような日々も、惺夜は笑って受け入れて傍にいた。


「辛くないよ」って笑って。


 だから、ホントは……。

「ぼくはほとんど寝込んだことはないけど、熱を出したら苦しいからね。きみはよく我慢したと思うよ。満足に遊べなかったし」


「ほとんどってことは、何回かはあったわけか? おれ、惺夜が寝込んだところなんて一度もみていないのに」


 目を丸くして訊ねられ、「ああ」と笑った。


「紫苑と出逢うずっと前に一度だけね。後にも先にもあのときだけだよ。ぼくが寝込んだのは。

 丸一日意識がなくて、覚えているあいだは苦しくて。1日過ぎたら、兄上が呆れるくらい、ケロッとしてたらしいけどね」


「なんか……想像つかないな。惺夜が熱を出して寝込んでる図なんてさ」


「そうだね。ぼくも今はそう思うよ。原因不明だったし、なんだったんだろうね、あれ? って自分で悩むくらいだから」


「いつの話?」


 腕の中から見上げて訊ねられ、記憶を辿って逆算してびっくりした。


「あれ、あれ? あれってちょうど紫苑が生まれた時期じゃないかな?」


「は?」


「いや。今言われて計算して気づいたんだけど、あれって時期的に紫苑が生まれた頃じゃないかな? 紫苑の歳ときれいに一致するから」


「なんだよ、それ。おれが生まれた年にわざわざ寝込んだわけ?」


「偶然の一致にしては変だよね……」


 しきりに首を捻る惺夜に日付を訊ねると、返ってきた答えに絶句した。


「惺夜……それ、おれの誕生日……」


「まさか」


 言い返してから、そうだったと気づいて、惺夜も絶句した。


「なにもおれが生まれた日を狙うみたいに寝込まなくても」


 かなり複雑な顔で愚痴る紫苑に、惺夜は逆に難しい顔になった。


「惺夜?」


「偶然じゃないかもしれないよ」


「は?」


「ぼくらは養育の途中で故郷を出たからね。本来なら知り得た事柄も、知らない場合もあると思う。

 もしかしたら継承者が生まれるときに、守護者だけが反応をみせて倒れるという条件があったのかもしれないよ」


「そういえば守護者は必ず継承者より先に生まれるんだよな。じゃあ不自然な推測じゃないんた?」


「もしかしたらあのまま故郷にいたら時期がきたら、そういうことも習ったのかもしれないね」


 紫苑は継承者だったから、先代継承者の皇帝、衛から指導され教育される立場だった。


 同じ意味合いから守護者として必要な知識は当代の守護者から指導される。


 それこそ体術や力を使っての戦闘訓練も含めて。


 そう言われ紫苑は否定したいような素振りをみせる。


 だが、結局否定しなかった。


 否定すれば惺夜が注意するのがわかっていたし、注意した後で彼に謝罪されるのもわかっていた。


 だから、口をつぐんだのだ。


 本心では納得していないとしても。


「そういえば先代守護者の翠も、憎たらしいほど元気だよな。守護者ってみんなそうなのかな?」


「まあ継承者がみんな病弱な虚弱体質だからね。守護者が非常識なくらい元気で、釣り合いが取れてるんじゃない?」


 からかうような科白にムッとした。


 が、事実なので言い返せなくて、不機嫌に押し黙るしかなかった。


 よくよく考えてみれば衛と翠にしてからが、衛の方が細身で線が細い。


 身長も翠の方が高いし。


 もしかしたら紫苑も惺夜より背が高くなるのなんて夢に過ぎないかもしれない。


 考えてみれば守護者は本当に憎らしいくらい元気で、病気ひとつしないのだから発育に困るわけもない。


 考えれば考えるほど面白くなかった。


「なんかおれ、急に将来を悲観したくなってきた」


「それはまたどうして?」


 面白そうに訊ねる惺夜に、これは理由は知っているなとわかった。


「言わないよ。惺夜は意地悪だから。衛に似てからかうの好きだもんな。言ったら苛められる」


「失礼な。可愛がっていると言ってほしいな、紫苑」


 堂々と惚ける惺夜にドッと疲れてくる。


 本当に似てほしくないところだけ、この兄弟はそっくりだ。


 外見は線の細いところと、細身の長身ってところ以外は正反対なのに。


 どうしてしょうもないところだけ、こんなに似てるんだろう?


「叔父上は本当に性格が悪い」


 わざとらしく惺夜のキライな呼び方で呼ぶと、ムッとしたのか、いきなり笑顔が引っ込んだ。


 一方的にやり込められてやるものかと、内心で笑った。

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