第8話

……わかってる。


 これはおれの罪だ。


 おれのワガママに巻き込んで、あいつを傷つけたおれの罪だ。


 思いがけない現実が、これからなにを招いても、おれは受け止めるだけだ。


 すべて自分が蒔いた種なんだと。


 だから、無駄だよ、衛。


 そんな眼をしても、おれは衛の下へは帰らない。


 どんなに衛の腕が恋しくても、おれは帰らない。


「泣いてはいけないぞ、紫苑。こんなことで挫けてはいけない。男の子だろう?」


 挫けそうになるたびに、そんな衛の声が聞こえる気がしてハッとする。


 何度も抱き締めてくれた腕。


 抱き上げてくれた腕。


 思い描く過去は、どうしてこんなにも切ないんだろう?


 傍にいるときは、こんなに恋しいと感じたことはなかったのに。


 衛……義父上。


 ただの一度もそう呼んでやらなかった。


 それだけを後悔してる。


 二度と逢わないと袂を別れた今になって。





 首にかけたロケットの中に肖像画がある。


 短い黒髪の年若い青年。


 穏やかな笑みの似合うその美貌はずば抜けていて、だれもがハッと眼を向けるような容貌をしている。


 肖像画といっても、この時代、絵を描く者は限られていたし、ロケットに入るような小さな物を、これほど精巧に描ける者もいなかった。


 絵の具すらもなかった時代だ。


 原始に近いこの時代。


 純金にみえる精巧で優雅な造りのロケットを持っている方が奇妙なのだ。


 それを言うなら眺めている少年の衣服も、到底時代に似合った物ではなかったが。


 肖像画を眺めていたのは紫苑。


 彼の衣服は神話時代の西洋風の物に似ていた。


 装身具もとてもこの時代に可能な物にみえない。


 守護神と崇められた所以なのだろうか?


 明らかに彼はこの時代の地球の文明に反した存在だった。


 こちらに降りるとき、ロケットに忍ばせたのは、養父の肖像画である。


 これだけは捨てられなかった。


 誕生日に贈ってくれたロケットに、だれにも内緒で入れた物だったから。


 描いたのも実は紫苑である。


 素直になれない屈折した愛情。


 ため息を吐き出し、音を立てずにロケットを閉めると、後ろの大木に凭れかかった。


 なんのために衛の手を振り切ったんだろう。


 欲しかったものは目の前にあるのに、手が届くところまできて、突然、気がついた。


 一度断ち切れた絆は取り戻せないのだと。


 どんなに望んでも得られない叶わない夢もある。


 二者択一。


 その意味を紫苑は知らずにいた。


 大切なものをたったひとつだけ選ぶことは、抱え込んでいる想い出のすべてを否定すること。


 でも、今まで生きてきた現実も本当のことで、衛に惺夜に愛されて育てられたことも、紛れもない現実だった。


 そうして過去は取り戻せないのだと、少なくともこの星にいるときには、絶対に叶わない夢だと知り尽くしてから、紫苑はがんじがらめに縛りつけられるようになった。


 身体ではなく、その心が。


 これを言ってもそんなことはないと、そんな辛いことを強いるつもりはないと、ふたりとも口を揃えて言うだろう。


 だが、結果がそうなっていたら、紫苑にとっては同じ意味だ。


 片方を切り捨てて片方を選ぶ。


 紫苑にはどうしてもそれができなかった。


 自分にとって大切なもの。


 絶対に両立はできないもの。


 それらを切り捨てたり区別することは、紫苑にはどうしてもできなかった。


 苛立ちをぶつけるように幹に拳を叩きつけ、紫苑が小さく舌打ちする。


「紫苑? なにを苛立っているんだい?」


 心配そうな声がすぐ傍で聞こえて振り向けば、惺夜が隣から覗き込んでいた。


 どこにいても見つけて、さりげなく気遣ってくれる。


 幼い頃から変わらずに。


 無理に微笑みかけて、紫苑はなんでもないとかぶりを振った。


「ちょっとした感傷。こっちはのんびりできていいなあ、とか思ってさ。向こうだと自由は全くなかったから。気楽でいいよ。庶民の生活って」


「言うほど庶民の暮らしをしてるわけでもないけどね。ぼくらは騎士団や軍の代わりをしてるわけだし。どちらにしろ、支配者の側だよ。あの頃も今もね」


「冷めてるなあ、惺夜は。やっぱり生粋の皇族だからかな。皇帝の実弟だもんな。おれなんかとは感じ方も違うか」


「きみね、それじゃぼくが支配階級以外では暮らせないみたいじゃないか。別にそれが当然だなんて自惚れてるわけじゃないよ。失礼な」


 ムッとした顔になって、大樹に寄りかかり、真上から見下ろしてくる。


 ふくれてみせても、やっぱり惺夜には支配階級の匂いがする。


 生まれついて得た高貴な雰囲気は、そう簡単に拭えないものらしい。


 気さくな気性だから、近づきがたい印象は全くないのだが、どこか優雅な少年である。


「だいたいぼくはたしかに皇帝の実弟だけど、それだけだよ。兄上の後を継ぐ世継ぎは紫苑。きみなんだから」


「昔の話だよ。継承権は放棄した。世継ぎの位も捨てた。強いられた未来なんて、おれはいらない」


「……それでもきみは『継承者』だよ。頭上の星が消えたわけじゃない。きみ以外に皇帝を継げる者はいない」


 皇帝の星を持たない者は、たとえ皇族といえど皇位は継げない。


 星が他者に受け継がれないかぎり、紫苑の継承権は維持される。


 眼を背けていたかった現実を突きつけてくる惺夜を、紫苑は悔しそうに唇を噛んで見返した。


「紫苑。きみが兄上の後を継ぎ、皇位を受け継がないかぎり、きみの後継者は生まれない」


「望んだらだれもが世継ぎになれるわけじゃない。おれが拒んでいるかぎり、世継ぎはおれ。他者に譲るなんて不可能。惺夜はそう言いたいんだろ?」


 現実に皇帝の星は運命的に得るもので、望んで得られるわけじゃない。


 そしてそれは星を受け継いだ者が、皇位を継ぐまで絶対に消滅することはない。


 皇位を継ぐと後継者が生まれる。


 先帝の崩御が次代の皇帝の誕生の条件なのである。


 継承者はふたりまでしか存在できないので。


 皇帝の星、つまり世界の司たる星を受け継ぐことで、代々の皇帝は選ばれる。


 力の継承が条件なので、別に皇族から誕生すると決まっていなかった。


 それが決まっているのは守護者の方で、守護者は必ず皇帝の血縁として生を受ける。


 最も確率が高いのは当代の守護者か、次代の守護者のどちらかだ。


 その次ぎに候補にあがるのが、皇帝の子供たちであった。


 守護者は必ず継承者よりも先に生まれる。


 継承者を見出だすことは時の皇帝にしかできない。


 どういうふうに知るのか、それは代々の皇帝はみな知る術もないままに、それらを無意識にこなしてきていた。


 同じことは守護者にも言えて、次代の守護者の判別も当代の守護者にしかできない。


 これは紫苑と惺夜はまだ知らないが、もうひとつ方法はある。


 ただそれは継承者がだれなのかがはっきりしてからでなければ意味がない。


 なぜなら継承者が誕生する気配をみせると守護者は、それに反応して体調を崩す。


 己が護るべき継承者がこの世に誕生するまで。


 が、継承者はどこの血筋に生まれるか、そもそも貴族に生まれるか、皇族に生まれるかもわからない。


 最悪の場合だと王都から遠く離れた場所で生を受けることもあるのだ。


 そのために継承者が特定されないと、あのとき倒れたのは、そのせいだったのかと理解されないのである。


 皇帝の星を継いで生まれた者は、身分に関係なく皇家に引き取られ、世継ぎを名乗るのが慣例。


 現皇帝、衛は偶然皇帝の第1皇子として生を受け皇帝を継いでいる。


 だが、紫苑は違う。


 衛によって見出だされ、家族から引き離された赤の他人なのだ。


 彼の頑なな態度はその頃の事件が深く関わっていた。


「おれはいらないんだ。星の証なんてものに頼らないで、皇家で受け継いでいけばいい。おれは皇帝になりたいなんて思ってないんだ」


「皇帝の星を受け継いだ者以外が皇位を継いだとき、どうなるか知らないきみじゃないだろう?」


 皇帝の力は星を受け継いだ者以外は持てない。


 その力が欠ければ世界は滅びる。


 皇帝はその存在で世界を支える支柱。


 そのために皇帝を継ぐ継承者は虚弱に生まれる運命にある。


 そのせいで「星の継承者」を護る守護者が必要とされる。


 そう諭されても紫苑は頷けなかった。


「継承者と守護者の運命はひとつに重なっている。なら惺夜にも資格はあるんだ。惺夜が皇子として皇帝を継げばいい。それでも綻びは生まれないはずだ」


「バカなことを。ぼくにはできないよ。きみになにかあったら、ぼくは世界を引き換えにしてしまうからね。


 自分の望みを優先してしまう皇帝なんて即位する意味もない。ぼくにはきみ以上の価値を世界に見出だせないんだ。ごめんね」


 柔らかい笑みすら浮かべて、どうして彼が謝るのだろうと思った。


 どうしてあんなに優しい顔で許すことができるのか、と。


 ワガママを言っているのは紫苑の方だと、自分でもわかっている。


 それなのにどうして彼はこんなに優しいんだろう。


 継承者と守護者だからなのか。


 この関係が絆が彼を縛るのか。


 後悔なんてなんの役にも立たないのに。


「いつか紫苑にもわかるよ。なにが自分の望みなのか。どうしたいのかが。だから、そんなに自分を責めなくていい」


「これだからなあ。惺夜は相変わらず説教くさい」


「そりゃあね。これでもきみの養育係だったんだ。当然じゃない?」


 含み笑いを浮かべて言う惺夜に、紫苑は苦虫を噛み潰したような顔で拗ねてみせた。


 クスクス含み笑いを浮かべていた惺夜が、ふと気づいたというように、眼を閉じた紫苑の顔を覗き込む。


 いつの間にか眠ったらしかった。


 紫苑は外がお気に入りで気がついたら、こうして昼寝をしてしまう。


 ところ構わずに。


 無防備だと叱っても、全然進歩がなくて呆れてしまう。


 村の外れには人気もない。


 過ぎていく風の音と葉擦れの音が静かに流れる。


 ふと真顔に戻った惺夜は、しばらく無言で紫苑のあどけない寝顔を眺めていた。


 魅力的な顔立ちをした彼をみていると、時々、悔しくなる。


 同じ整った顔立ちなら、こんな少女みたいな顔ではなく、彼みたいに生まれたかった。


 何度も何度もそう思って彼の顔をみているあいだに、憧れが羨望になり、羨望は嫉妬に擦り変わっていった。


 それでもやっぱり彼は好きだったけれど。


 顔立ちなんて皮一枚のことだと、紫苑は全く気にしたふうもない。


 ぼくも紫苑のようにおおらかな性格だったら、こんな容姿すら劣等感を感じずに済んだだろうか。


 大した問題じゃないと言えただろうか。


 紫苑がぼくの立場でも彼は大した問題じゃないと笑うだろうけど、ぼくにはできそうもない。


 屈託のないその爽やかな気性が、眩しくて羨ましいこともある。


 こんなふうになりたかった。


 外見だけじゃなく、潔いその性格もぼくの憧れだ。


 ぼくはきみみたいに潔く生きられないから。


 未練を残さず捨て去ることもできないから。


 自分が思った道を迷わずに進んでいくきみを、引き止める方法があったら知りたいよ。


 どうすれば振り向いてくれるのかを。


 ためらいがちに身を屈め、惺夜が紫苑が凭れかかった大木に両手をついた。


 眠る紫苑の寝顔を覗き込むような態勢になる。


 閉じた瞼に影が落ちても紫苑は目覚めない。


 傍にいるのが惺夜だから、安心しきって自分を委ねている。


 普通なら第三者が近づいただけで飛び起きる彼が。


 すこし、ためらった。


 ためらいよりも強い衝動があって、惺夜はすべてを封じるように眼を閉じる。


 木陰で重なっていくふたつの影。


 紫苑に覆い被さった惺夜は、すぐに驚いたように身を引き離した。


 後悔がその瞳に浮かぶ。


 触れただけの唇が、小さく呼吸を繰り返している。


 無防備に警戒することもなく。


 自分がなにをしたのか気がついてショックを受けた。


 同意されていなかったのに、無理強いで盗んだ口付けに胸が痛んだ。


 青ざめた顔色で立ち上がり、さっきと同じように幹に背中を預けた。


「もうすこし自制のきく人間のつもりだったんだけど。買い被ってたかな? 衝動に負けるとはね」


 自嘲的なその科白は自分に向けられた嘲笑である。


 口には出さなかった事実がある。


 態度にも出せなかった秘め事がある。


 紫苑の寝顔に誘われるのは、なにも初めてではなかった。


 みているだけで触れたいと感じたことは、数えきれないほど何度もあった。


 今まではどんなに強く感じても、寸前のところでそれを抑え込んできたのだが。


 誘われる理由に心当たりはなかった。


 同性を好む嗜好ではないし、こちらにくるまで一度だって紫苑をそういう対象だと感じたことはない。


 それだけに気づいたときの戸惑いは大きかった。


 寝台の上で眠っている紫苑をみて苦笑して頬に触れた。


 あのときが初めて誘われた夜だった。

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