第44話 昨日はどうしたの、平山くん?




「……はぁ、朝から生きた心地がしなかった」



 次の日、秋人は一コマ目から講義を履修していたので電車を乗り継いで大学へと向かっていた。ややげんなりとした表情を浮かべているのは今朝の出来事が原因であろう。



「まさか黒峰さんの部屋で寝ちゃうだなんてなぁ」



 黒峰に話を聞いて貰って安堵したのか、いつの間にか大学に行く時間ギリギリまで彼女の部屋のベッドでぐっすりと眠っていた秋人。膝枕をして貰い眠気が襲ってきたところまでは覚えているのだが、どうやらそのまま眠りについてしまったらしい。


 やがて目を覚ましたら秋人はいつの間にかベッドにて横になっていた。きっと風邪を引かないようにと思った黒峰がベッドにまで運んだのだろう。そして肝心の彼女はというと———なんと秋人の目と鼻の先ですぅすぅと寝息を立てていた。一緒のベッドで就寝していたのである。


 暫し瞬きを繰り返す秋人だったが、その事実を認識した瞬間声にならない叫び声をあげてしまう。



「気を許してくれている……んだろうけど、やっぱり流石に無防備すぎというか」



 首元に掛かる温かな吐息。長い髪から仄かに香るシャンプーの香り。そしていつも黒峰が寝ているベッドから感じる彼女自身の甘い匂い。それらを思い出してしまった秋人は途端に顔を赤くしながら歩くスピードを早めてしまう。


 なんとか煩悩を払おうとするも、女性の柔らかい身体の感触を忘れられる筈もなかった。


 結局そおっとベッドから抜け出した秋人は、彼女が間もなく目を覚ますと同時に土下座を披露してどうにか事なきを得る。ううん、と口にした黒峰は何故かツヤツヤとした顔をしながら『こちらこそご馳走様♡』と言っていたのだが、一体どういうことだろうか?


 残念ながら大学に行く時間がギリギリだった上に、にこやかな笑みを浮かべた黒峰から行ってらっしゃいとせっつかれたので詳細はとうとう聞かずじまいだったが、言葉から推測するに寝ている間に何かしらされたらしい。



「…………うん、聞かないでおこう」



 おっとり系お姉さんで揶揄い上手な黒峰のことだ、きっとそんなに大したことはされていないだろう。


 あまり深く追求し過ぎるとこれまでの関係が変に拗れかねない。下手すればセクハラなんて言われてしまうので、再び彼女に会ったらこの話題を口に出さないのがベストだろう。言わぬが花だ。



「それより朝何も食べてないからお腹すいたなぁ……。あ、よくよく考えたら昨日の夜もご飯食べてないじゃん」



 昨日はアパートに帰宅すると秋人はベッドに横になって思い詰めてしまっていた。夕食も食べてないので今突然空腹を感じても仕方がないだろう。強いて言うならばあれから口にした物といえば黒峰が用意してくれた紅茶だけ。



「うーん……。よし、コンビニに行っておにぎりとかパンを買うとしますか」



 正直時間はあまり無かったが、空腹のままでは講義中にお腹が鳴ってしまう可能性がある。周りに履修する学生がいる以上、自分の腹から空腹の音が鳴ってしまうのはなんだか恥ずかしい。


 確か大学の門近くにコンビニがあった筈だ。そこで手短に購入を済ませて講義が始まる前に腹に収めれば良いだろう。


 そのように考えていると、秋人の背後からこちらを呼び掛ける声が聞こえた。



「おーいっ、平山くーんっ!!」

「三嶋さんおはよう。今日はいつもよりちょっと寒いね」

「えへへ、そうだねっ」



 秋人の元へ駆け寄りながら現れたのは艶やかな黒髪を揺らした三嶋。昨日ぼんやりとしながら文芸サークルの教室を出て帰宅してしまったので彼女には心配を掛けてしまったが、もう大丈夫である。軽やかにそう返事を返した三嶋は花が咲いたような笑みを浮かべた。———のだが、途端に身体の動きを静止させるとフッとその可愛らしい表情から笑みが、感情が消え去る。


 その瞳の、ハイライトでさえも。



「…………ねぇ、平山くん」

「ど、どうしたの三嶋さん? なんだか顔が怖いよ?」

「あはは、うん。そのね、私の気の所為だったらごめんね? ちょーっと聞きたいことがあるんだけど、いいかな?」

「? うん、いいけど……一体どうしたの?」

「———?」

「……あっ」

「昨日はどうしたの、平山くん?」



 こてん、と可愛らしく口角を上げながら首を傾げる三嶋だが、じとーっとこちらを見つめる瞳は一切笑ってなかった。心なしか彼女の背後に般若が佇んでいるように見えるのは気の所為だろうか。



(ど、どう言い訳しよう……急いでたから忘れてたけど確かに昨日と同じ服だ……!)



 あのまま黒峰の部屋で寝てしまった上に、秋人が起床したのが大学に行くギリギリの時間。すぐさま自分の部屋に戻って荷物を持ってこうして大学に向かっていたのだが、気が動転していてすっかり着替えるのを忘れていた。

 シャワーを浴びられなかったのは時間的に仕方がないが、服装まで気が回らなかったのは秋人の落ち度である。



(もしかして遠回しに『臭いからさっさとどうにかしろや』的なことを伝えたがっているのかな!? ……いやいや、三嶋さんのことだから純粋な疑問だよな)



 秋人は一瞬だけネガティブになりかけるが、すぐさま否定。大学入学時から出会って間もないが、彼女の人となりはある程度知っている。こんな優しくて親身になってくれる可愛らしい子が皮肉なんて、ましてや相手を傷つけるような言葉を言う訳がない。


 ごめんね、と心の中で謝罪した秋人はなんとか言葉を紡ぐ。



「え、えーっとその……ちょっと昨日は色々と考え込んでいたら、ベッドでずっと寝ちゃってさ! 実はアラームをかけ忘れて時間ギリギリに起きちゃったから服もそのままなんだよねー。ほら、たまにすごーく寝ちゃう時ってあるじゃん。それだよそれ! あはは……」

「———ふーん、そっかぁ」

「……もしかして、匂うかな?」

「うーん……私はけれど、帰ったらすぐにシャワーを浴びることをオススメするかなっ」

「あっはい、そうします……」



 にこやかにそう言い放つ正直者な三嶋に、秋人はそう返事を返すしかなかった。幸いにも今日は授業が午前中のみ。アパートに帰ったら速攻シャワーを浴びようと静かに決意する秋人だった。



「あ、それと三嶋さん。今からちょっとコンビニに寄るけどいいかな?」

「うん、いいよっ。外で待ってるね!」

「ありがとう」



 やがてコンビニに辿り着くと、秋人は急ぎながらも元気がないとぼとぼとした足取りで扉へと向かった。









「………………」



 その様子を静かに見守っていた三嶋は、扉の奥へと消える秋人の姿を見送ると盛大に溜息をついた。そうして、内に秘めた激しい感情を隠すことなく言葉を呟いた。



「黒峰千歌ぁ……!」



 決して褒められた行為ではないが、以前秋人の部屋に盗聴器を仕掛けた三嶋は彼の返答が正しく、それでいて嘘をついていることに気が付いていた。


 昨日はあれからずっと帰宅してから彼の部屋を盗聴していたが、夕方を過ぎてからはアパートの扉の閉める音が聞こえたきり彼の愛おしい生活音がぱたりと聞こえなくなった。


 それからずっと。ずっと、ずっと、ずっと、ずっと三嶋はイヤホンに耳を澄ましていたが彼の音は聞こえず。彼の奏でるタイピング音も、料理をするときに機嫌良さそうに鼻歌を歌う音も、すぅすぅと寝息を立てる可愛らしい音も。全部全部。


 それは何故か。昨日は盗聴器から聞こえる声だけだったので推察が不十分だったが、今日彼の姿を見た瞬間全てを理解した。



「あいつ、あーくんが弱っているところに漬け込んで慰めるついでに一緒に寝やがったな……?」



 文芸サークルの阿久津という陰キャが彼の作品をつまらないと口走った時は少しだけ怒ってしまったが、今となってはそんなことどうでも良い。


 目下の問題は彼とあの黒峰千歌アバズレが一緒に寝た可能性があることだ。でなければ彼の身体からあの女の濃い雌の匂いなどする訳がない。


 好きな人がシャワーをたかだか数日浴びてない程度問題はないのだが、どうしても自分以外の女の匂いが彼の身体に纏わりついていると考えると我慢出来なかった。その所為で少しだけ冷たい言い方になってしまったが、きっと彼ならばわかってくれるだろう。


 さて、と三嶋は憎らしい程に澄み切った青空へ視線を向けた。



「ふふっ。私も仕掛けようかな」



 全ては、あーくんの為に。



















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